第4話 中学生日記

 どこまで話しただろうか。

 僕と彼女の馴れ初めの話はしたんだよね。甘い砂糖菓子のような出会いではなくて、失敗作のクッキーを食べてしまったような、そんな僕らの出会いの話。

 もっと唐突で奇抜な、街角でぶつかっただとか、家族に古くからの付き合いがあってだとか、そういう話だったらよかったかもしれない。ハンバーグを食べているときみたいな安心感や、鶏肉のトマト煮を噛みしめているときの素朴さ、コーンポタージュを飲んだみたいに穏やかな気持ちが得られたかもしれないのに。

 過ぎたことはどうしようもない。

 だから僕は次の話をしよう。

 これもまた、過去のお話なのだから。

 中学三年生になった僕らの目の前には、高校受験という壁が立ちふさがった。けれどその壁に現実感はなく、たいして大きな恐怖も焦燥も抱くことはなかった。僕らは高校受験というものを、まるで空気のように扱っていたんだ。確かにそこにはあるのだけれど、目に見えることはない。何より、恩恵を感じない。普段の生活で意識した回数は、今日の晩御飯の献立を考えているときよりも少なかったかな。

 相変わらず、僕らの毎日は変わらなかったよ。毎朝、教室へ行くより早く図書室へと向かうんだ。そこで、家で読み終えてしまった小説と、まだ読んだことのない小説を取り換える。それから、気だるい朝のショートホームルームが始まるまでの時間を、図書室で過ごすんだ。

 そうそう、僕が通っていた中学校では、朝のショートホームルームを朝の会、下校直前に行われるものを帰りの会と言っていたな。あれにどんな意味があったのだろうと当時は疑問だったのだけれど、僕らの学校にはちょっとした悪いことが大好きな子が多かったからなぁ。授業を途中で抜け出して帰ってしまうと、何をするか分かったものじゃない。子供の悪事が、なぜか学校側の責任になってしまうからだろう。それを防ぐと言う目的があったのかもしれないね。ほら、誰が居なくなったとか、すぐに分かるんだろうし。

 全く、教師たちにも同情するよ。

 閑話休題。

 図書室で過ごした毎日に、大きな変化が起きることはない。受験というものが目の前に立ちふさがっても、それは同じだった。

 彼女との関係性や距離感と言ったものも、ほとんど変わらなかったんだ。僕にとっての彼女は、いつも僕の近くで本を読んでいる中学生だったし、彼女にとっての僕も似たようなものだったに違いない。いわゆる本の虫だよ。しかも、普通の虫じゃないんだ。蓼食う虫も好き好きとはいうけれど、僕らは雑食だったからね。読みたい本が被っているときは司書の先生の前で喧嘩することもしばしばだったな。

 言っておくけれど、拳を振り上げたり、脚を振り抜いたり、汚い罵り声をあげるような、そんな醜い争いをしていたわけではないからね。お互いに相手の目を見つめあって、先に目を逸らしたほうが、本から手を離すんだ。要は、本を読みたいという意志の強さを比べていたわけなんだけど、すごく平和的な方法だろう?

 それでも読みたい本が被ることはあるし、お互いに譲らないことだってあった。どうしても読みたい本が入荷されたときとかね。そういうときはなかなか勝負が決まらずに、司書の先生を本当に困らせてしまうこともあった。

 だから最終的には、コイントスで勝負を決めることも多かったな。

 うん、君が思っている通りだよ。僕の敗北率は、ほぼ十割だった。週に三回負けたときは悲しみの海に溺れて死にそうになったほどだ。本を読むのが好きな君には、すごく共感してもらえると思う。

 僕は彼女に遊ばれていたのかもしれないね。コイントスでコインを弾く役割は、毎回彼女が担っていたわけだし。

 でも、姉さんという遊び相手を失った僕には、その程度の悪戯をしてくれる相手にもことかく有様だったんだ。だから、どれだけ彼女に有利な条件だったとしてもそれを覆せないのは……あー、なんか違う。やっぱり、僕は彼女に惚れていたのかもしれない。だから、彼女に有利なように……。

 でも、よくよく考えてみれば不思議なことだろう? 僕らは、ずっとコイントスで勝負を決めていたんだ。コイントスが学年やクラスで流行っていたわけではないのに、僕らはずっと、コイントスばかりをやっていた。彼女が好きだったというのも、理由のひとつかもしれない。ジャンケンよりも大人びて見えるというのが好きだったのかもしれないし、不安定な要素をすべて排除できると言うのが強みだったのかもしれない。

 裏と表の二つしかないというのが、僕と彼女の二人しかいない世界に見えたのも理由の一つだったかもしれない、なんてね。これは僕なりの冗談だ。

 彼女がコイントスを好んでいた理由なんてものを、普通は気にしないかもしれないけどさ。

 さて、僕らの中学校生活も、いつしか終わりを迎えることになる。

 僕と彼女は、同じ高校へと進学した。僕は彼女が進学する高校の名前を聞いても驚かなかったし、彼女も、僕の進学先を聞いたところで表情ひとつ変えたりはしなかった。彼女は、全く動じていなかったんじゃないかな。

 お互い、相手に自分の進学先を告げたことはないけれど、なんとなく分かってはいたんだ。言っておくけれど、相手と同じ学校に行きたかったから敢えて行先を変えなかっただとか、そういった類のことを考えたことはないよ。これは神に誓ってもいいし、悪魔と答え合わせをしてもいい。代償はもちろん、僕の魂だ。

 僕ら二人は性格やクラスでの立ち位置だけではなくて、学力まで同じくらいだった。もしかしたら、生活習慣も似たようなものだったかもしれない。僕らはお互いに、相手のことを分かっているような気分に浸ることが出来たんだ。僕らは、こいつも自分と同じ学校へ行くのだろうということを、薄々感じていただけなんだよ。

 例えるなら、そうだな。特定の曜日になると、決まって同じ献立を作る家庭があるだろう? 金曜のカレーとか、日曜日のハンバーグとか。それと似たようなものだよ。僕らにとってその指針が自分自身だったと言うだけで、特別なことではなかったんだ。

 この点数で更に上の学校を目指すのは面倒くさいし、不必要にランクを落として、自分より頭の悪い奴らに合わせるのも嫌だ。そんな、自己主張と驕りが凝り固まったようなことを、僕らは考えていたんだろうね。

 それはさておき。

 中学校を卒業するとき、僕らは泣けなかった。どれだけ頑張ってみても、僕らの冷めた双眸からは一滴の涙もこぼすことが出来なかったんだ。彼女が何を思ったかは定かではないけれど。

 僕は、酷くがっかりした。

 そして、強烈な寂寥感に襲われた。

 僕は楽しむことの出来ない人間ではない。笑うこともできるし、泣くこともできる。

 そんな僕が泣けなかったということは、酷く、悲しいことなんだ。

 泣けなかった。

 たったそれだけのことが、どういう意味を持つか。君には理解してもらえるかな?

 答え合わせは、すぐにやるよ。

 つまり僕は、泣くに値しない青春を送って来たと言うことだ。泣けるだけの中学校生活を歩んでこなかったと言うことだ。僕はそれを理解した。理解すると同時に、ものすごく恐ろしくなった。

 分かるかい、この意味が。

 僕は、自分の人生に、何一つの有意性も見いだせなかったと言うことだよ。

 卒業式が終わってから高校の入学式を迎えるまで、僕は必死になってパソコンのキーボードを叩いていた。というか、僕が唯一他人に誇れるものと言えばキーボードを叩いて文章を生み出すことぐらいだったから、それしか出来なかったんだよ。

 君はたったひとりの友人だ、だから僕の夢についても語っておこう。これは、宣言みたいなもの。僕の夢は小説家になることだ。目立った賞を取った経験もなければ、そもそも締め切りを過ぎてから原稿を投稿するような非常に態度の悪い作家志望者ではあるのだけれど、僕は小説家を目指している。小説を書く以外のことは、穀潰ししか出来ない。

 言っただろう? 僕が自慢できるのは、姉さんと彼女、ふたりの素晴らしい女性に出会ったことだけ。欠片しか持ち合わせていない才能にも、残念なことに限界があるんだ。教師が並べる綺麗事のように、世の中にあるすべてのことが努力で補えるはずもない。生き方にテキストがあるはずもないんだ。

 僕に出来ることは、ただひたすらに文字を打ち込んで文章を作り上げ、それを小説というひとつのカタチに落とし込むことくらいなんだよ。こうして君に、僕と彼女の過去を話すこともできるけれど、それすらもたいした才能じゃない。噺家や漫才師と比べれば、僕の話ぶりなんていうものは下の下の下だろうからね。

 しかも僕の書く小説は、起承転結に乏しく登場人物の会話も少ない。

 新人賞に応募しても、二流として扱われていることだろう。

 おっと、そんな僕の話を聞いてくれる君という存在がいるのだから、あまり自分を貶めないほうがいいかもしれない。僕が自分を貶めることは、君の価値観や評価基準そのものを蔑むことになりかねないのだから。

 人間というのは、酷く不便だ。君も、そうは思わないか?

 中学校の卒業式で泣けなかったとき、僕はそれを強く感じた。

 僕は人間として不完全なのではないか。

 しかし、それを確かめる手段はない。

 僕は何か圧倒的に足りないものを、心の中に宿してしまっているのではないか。

 しかし、誰かと比べることなんて出来やしない。

 人と関わることの出来ない僕には、他人に追いつくことが出来ないほど、人生から抜け落ちたものがあるのではないか。自分にとって不都合になることばかりを考えて、しかし僕に出来ることは何一つとしてこの世に存在していないように思えた。

 僕は孤独だった。自分から望んで孤独になったのに、酷く孤独を恐れていた。姉さんと共に過ごした日々が懐かしくもあり、怖くもあり。でも、当時の僕がどんなことを考えていたのか、なんてことを考えるだけ無意味なんだ。

 いいかい、ここで一つ、大切なことを確認しておこう。

 僕がそうして孤独だったと過去を語り、僕の過去には僕と同じように孤独だった少女がいるという話をする。その後で、なぜか君達は、まるで僕らが相思相愛であったかのように錯覚して物語を見聞きしようとすることが多いんだ。

 だけどそれは、絶対に間違っている。

 僕らが恋仲でなかったということを聞くと、君は僕が甲斐性なしであるかのような文言を吐くかもしれないし、彼女が冷たく鋭利な心で僕を切り裂いたかのように判断する人もいることだろう。不思議だよ。

 それは、半分しか当たっていない。

 君は、必ずどこかで、間違いを犯している。

 僕は彼女が独りぼっちでいたことを知っているし、彼女は僕が人と関わることの出来なかったことを知っている。だけど、それは僕らが相手のことを想っていたからではない。当然じゃないか。特に親しくもない相手に人並み以上の感情を抱くなんて言うことは、君達だってやらないんじゃないか?

 これから親しくなれるかどうかも分からない相手を好きになって、自分から傷ついてしまうのは御免なんだ。僕は、二度と傷けられたくなかったんだ。

 僕は矮小な人間だ。ブラウン管の向こうで戦うヒーローでもなければ、ネットの海で正義の鉄槌を振り回す勇者にもなれない。教室で賑やかに談笑することさえ出来ない、ただの気弱な人間だったんだよ。

 ――それでも中学卒業後の春休み、僕は彼女のことばかりを考えていた。だけどそれは彼女のことを想って、つまりは好意的な感情をフィルターにして、彼女のことを見つめていたわけじゃない。

 僕は、彼女を見下すことに躍起になっていたんだ。彼女は、僕みたいに過ちを犯したことがない。自分から誰かを傷つけるために積極的な行動を起こした経験もないし、授業をサボってゲームセンターへ遊びに行くような子供でもなかった。彼女の心は清らかで、それでも、僕は彼女を馬鹿にしたかった。

 ただひとつ、十全で十分な社会生活を送っていないと言う点でのみ、僕は彼女を見下していたかったんだ。

 友人と呼べる存在が一人もいない、僕自身から目を背けたいと言う気持ちがあったのかもしれない。いや、間違いなくそうだろう。僕は、卑怯者だった。僕は、もっと憎まれるべき存在だったんだよ。

 さて、中学生時代の話は、これで本当にお仕舞いだ。春休みの間に僕と彼女が出会うことなんてなかったし、例え出会ったとしても、挨拶のひとつもせずに別れただろうね。僕は誰かと距離を詰めることが怖かったし、彼女もそれは同じはずだ。僕等は違う方向を見つめながら、同じことを考えられる人間だったのさ。

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