香る夏、匂う恋

倉石ティア

第1話 はじめに。

 あぁ、緊張する。

 これから僕が始めるのは、徹頭徹尾の物語だ。

 すべてが灰色で、全く面白みのない話になる。

 例えるなら、三日間噛み続けたガムと同じくらい味気のない話だと思う。あまりに平坦で逃げ道もなく、これまでの人生で感じたことのない種類の恐怖を覚えることがあるかもしれない。僕の話を聞くことは、街灯のない田舎道を一人で歩くこと並の愚行だったりするのだろう。

 でも、こんな言葉を聞いたことはないか?

「誰かの恋の話を聞くことは、何よりも君の恋で役に立つ」

 だからこそ僕は、こうして過去の恋を語るんだ。

 たった一人の友人である君に、後悔して欲しくはないからね。

 僕が過去に経験した恋愛は、夕日が沈む寸前の、あの美しい退廃を思わせる色を想起させることがあるだろう。腐臭漂う汚泥が君の喉や鼻を焦がすような、嫌悪感を味わわせることだってあるはずだ。表裏一体となった美麗と醜悪に振り回されて、君が後生大事に抱えている価値観が歪んでしまう恐れもある。

 だけど、これだけは覚えておいてほしい。誰かにとっては忌むべき青春も、僕らにとってみれば、最も効果と価値のある精神安定剤みたいなものだったんだ。僕らが過ごした時間は、他の誰かにとっては劇薬のようなものかもしれない。だけど、僕らにとっては何物にも代えがたい、幸せの象徴としか感じられないものだったんだ。

 だから君には、あらかじめ伝えておきたい。

 僕は、彼女のことを愛していなかった。男と女の過去に触れれば、人はそこに愛や恋といった類のものを見つけたがる。幽霊みたいな超常現象の類や、未確認飛行物体のようなサイエンスフィクションを嫌う人でさえ、人間同士の愛を信じたがる。だけど僕らの過去に触れるときは、出来るだけ常識を捨てて欲しいんだ。

 これは、君の為でもあるんだよ。

 言っておくけど、彼女のことが他の誰かよりも好きだったことは間違いないし、僕は彼女のことを、どうしても嫌いになれなかった。誤解を恐れることなく言葉を口にすれば、僕は彼女に依存していたのだと思う。彼女と別れる直前の僕は、本当に酷いものだった。彼女にはずっと隣にいてほしかったし、彼女が他の男と会話をするところなんて、想像するだけで吐き気がしたんだから。

 それでも僕は、本当の意味での愛を、彼女に抱くことは出来なかった。これはとても恥ずかしい話なんだけど、彼女のことが好きになるにつれて、彼女から嫌われることが怖くなった。好きな人から嫌われることを恐れて、自分の好意を素直に伝えることが出来なくなっていったんだ。

 僕は他人が嫌いだった。それを、臆病と言う言葉で都合よく隠していただけなんだ。だから、どうしようもない嘘吐きになった。君みたいに優しい奴しか、僕と友達にはなってくれなくなったんだ。

 度を超えた嘘吐きだったからこそ、僕は彼女に愛されず、僕も彼女を好きになることが出来なかった。そのくせ、僕は彼女を突き放すことが出来ず、彼女も僕から離れようとはしなかった。僕ら二人の癒着した関係は、ある意味では見事と言えたかもしれないね。そのせいで、最後にはお互いの心の奥深くに傷跡を残すことになる。それも、血の繋がった家族や生涯の伴侶ですら触れることを躊躇うような、心の一番柔らかな部分に。だからこそ僕は、彼女のことを忘れずに済むのかもしれない。

 これらの様々な情報を踏まえたうえで、生まれて初めて出来た友達である君に、話を聞いてもらいたいと思う。これは、僕が経験した、閉じた世界のお話だ。

 僕みたいな嘘吐きが、それなりに人生を謳歌していた頃のお話だ。

 他人を頼れない弱虫が、他人を好きになってしまった物語だ。

 胸糞が悪い? 気持ち悪い? 

 それでも僕らにとっては、何物にも代えがたい、本当に大切な時間だったんだ。彼女が僕のことを嫌いになったのは知っている。けれど彼女があの時間を嫌いになれないことを、僕は知っている。

 彼女は僕しか頼れない、僕は彼女しか頼らない。

 歪み切った二人が紡いだ淡い時間の記憶を、これから、君に話そう。

 たとえそれで、君が僕を嫌いになったとしても。

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