第17話 鎧を着たビジネスマン、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
今ではヨーロッパの中堅国として小さな領土に収まっているオランダ。
ところが20世紀初頭までは、世界中に植民地を持つ世界屈指の強国でした。
その帝国の基礎が出来上がったのが16世紀の大航海時代。
北アメリカ大陸のニューアムステルダム(ニューヨーク)、南米大陸のスリナム(公用語はオランダ語)、アフリカ大陸のケープ植民地(オランダ語の方言が使われている)、南アジアのオランダ領セイロン、そして東南アジアのオランダ領東インドです。
特にオランダ領東インドからもたらされた莫大な富がオランダ本国に与えた影響は大きく、オランダ人の体格が良くなったのは、東南アジアに植民地を持ってからだ、という都市伝説があるほどです。
そのオランダ領東インドを植民地化した組織がオランダ東インド会社、略称VOC(ヴォック)ですが、そのトップは「提督」と呼ばれました。
その中でも異彩を放つ人物が、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンです。
この人物の肩書を調べると、日本語では「提督」と出てきます。
ところが、英語やオランダ語で検索すると「koopman」(商人)「boekhouder-generaal」(会計総長)「directeur-generaal」(総合指揮者)「gouverneur-generaal」(提督)という言葉で紹介されています。
商人で会計総長というとビジネスマンのようですが、この人物は商売もすれば戦争もするといった大変に興味深い人物です。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは1587年にオランダで生まれました。
厳格なカルバニズムの家庭に育った彼は、ローマで会計を学びます。
20歳の時、下級商人としてオランダ東インド会社に入社。
そして商売のため、マレーシアのバンダ海まで出向きます。バンダ海にはモルッカ諸島があり、そこはナツメグ・クローブといった香辛料の宝庫でした。
またモルッカ諸島のアンボン島にはオランダ東インド会社の根拠地があり、ここでイギリスと香辛料の貿易権をめぐって争いました。
そこでクーンは、地元のバンダ人たちと様々なトラブルに直面し、オランダ人数名が殺害されます。
この経験がクーンの、東南アジアの人々に対する態度を決定させました。
一度オランダに帰ったクーンは、会計責任者として再び東南アジアにやってきます。
そしてジャカルタとバンデン(ジャワ島の最西端)の責任者となります。
バンダムの地元勢力と緊張関係にあったVOCはより安定した食糧供給基地と貿易中継地点を求めて、ジャカルタ島中部に領土を持つマタラム王国と戦争をしました、
そして現在のジャカルタ周辺を占領すると、そこに城塞都市を作ります。
それが、バタビアです。
『バタビア』という名は、オランダ民族の祖とされるゲルマン民族の名から採用されました。バターウィー民族の事ですね。
クーンはもともとバタビアにあった城塞を10倍近くも巨大化し、貿易と戦争の拠点としました。
それらの功績を認められて、クーンはオランダ東インド会社の提督に就任。故郷に凱旋します。
その後、アンボイナ事件(オランダとイギリスの紛争)の責任を問われ失脚しますが、再び東インド会社の総提督に就任。タイオワン事件(オランダ人と日本人の紛争)が起きるとその調停のために日本に特使を送っています。
バタビアは1628年と1629年の二回に渡り、バンデン王国のスルタン・アグンによって包囲されました。
そしてクーンは第二回の包囲中の1629年に病死します。42歳でした。
まるで戦国大名のような生涯ですが、活力に満ちた大航海時代を象徴する人物としてその名は後世にまで語り継がれています。
余談ですが、1621年にクーンの行ったバンデン王国との戦争においては日本人傭兵がたくさん出てきます。バダビア争奪戦において、バンデン人の有力者20人がクーンの命令で殺されていますが、その際手を下したのは日本人傭兵ですね。
1621年は日本での元号は「元和」。
日本じゅうで戦争が終わったことを宣言する元和偃武の時代です。
そんな時でも、外国で戦争をしていた日本人傭兵はいたのですね。
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