第15話 海賊王に俺はなる! 多国籍貿易集団・倭寇
昔から創作物として人気のある海賊モノ。
古くはウィリアム・キッドの伝説から「ワン・ピース」まで、『海賊』と聞くと大海原を船で渡りながら大冒険した英雄たちの印象を持つ人たちは多いでしょう。
日本で海賊というと瀬戸内海を拠点とした村上海賊や、伊勢湾で暴れ回った九鬼水軍が思い出されます。
ですが16世紀においてもっとも注目すべき海賊は、なんといっても倭寇でしょう。
「倭」という漢字は日本人の蔑称であり「寇」は『強盗団』といった意味合いがあります。
現代語訳をすると「日本人強盗団」といった語感でしょうか。
ではこの倭寇、実態はどんな集団だったのでしょうか。
中国の明王朝で書かれた書物、「洋防輯略(ようぼうしょうりゃく)」には
嘉靖三十一年(1552年)、倭が初めて漳(福建省)、泉(福建省)を犯せしも、僅かに二百人。その間、真倭は十の一、余は皆、閩(福建省)、浙(浙江省)の通蕃(がいこくにつうじていた)の徒。
とあります。
倭寇と呼ばれる人々が浙江省(中国南部の海岸線)に侵入したが、そのうち真倭(本当の日本人)は10人に1人だと明記されています。残りは地元浙江省の人間だったのですね。
それに倭寇の構成員には、朝鮮王朝の被差別階層の人々や、東南アジアの諸民族、それにポルトガル人やオランダ人も混じっていたのではないかと言われています。
その猛威は明王朝滅亡の一因となったほど強烈であり、『北虜南倭』という言葉がつくられました。
倭寇の指導者はどういうわけか明国人だった場合が多く、福建出身の鄭芝竜は「日本甲羅(かしら)」と名乗って、平戸ちかくの川内浦に壮麗な豪邸を建て、日本人女性と結婚して家庭を持っていました。その子、成功(せいこう)こと福松(ふくまつ)は、後に鄭成功(ていせいこう)として明王朝復興のためにオランダを台湾から追い、国姓爺の名前を受けて清と徹底抗戦をしました。
鄭成功は、中国の歴史において孫文、蒋介石と並ぶ、三大国神として崇められています。
また、鄭芝竜より少し前に日本にきた福建省出身の顔思斉は「日本甲羅(かしら)」を名乗りながらも温厚なインテリで、地元の日本人に学問を与えました。
一番有名な倭寇の親分は王直(五峰)で、科挙に落ちたこの人物は日本に渡って倭寇の大親分になり、当時イエズス会領だった長崎に大邸宅を構えて、倭寇たちの指揮を執りました。
では倭寇たちの仕事とはどんなものだったのでしょうか。
もちろん海賊働きもしましたが、その他、傭兵、私貿易、密貿易、武器の売買、偵察などです。
倭寇の指導者に明国人が多かったのも中国の地理や市場動静をよく知っていたかもしれません。
また末端の倭寇たちは、日本や朝鮮、そして中国の貧しい階層の人々です。まさに「喰っていくため」に海賊働きに身を投じたのでしょう。
16世紀の日本は明らかに大航海時代の中にあり、世界史の一部に組み込まれていたのです。
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