第30話 アフリカ人? インド人? 日本にいた黒人砲兵部隊

第29話では日本にいた黒人の侍について書きました。

こういった人間は例外的な存在ではありません。


日本の戦国時代は世界史において大航海時代。

世界中の人々が日本にやってきました。


のちに著作を残した人物だけでも、イエズス会の東インド管区長だったアレッサンドロ・ヴァリャノリーノ(日本巡察記)、そして日本について大量の報告書を残したルイス・フロイス(日本史)がいます。




1584年に九州で『沖田畷おきたなわての戦い』が起こりました。


肥前ひぜん国の竜造寺隆信りゅうぞうじたかのぶ薩摩さつま国の島津家久しまづいえひさの合戦です。


この合戦で竜造寺隆信りゅうぞうじたかのぶは戦死。

竜造寺軍は総崩れになりますが、逃げずに戦場に残り、島津軍に大量の砲弾を打ち込んだ砲兵部隊がいました。



「ところでその場には砲手がいなかったので、一人のアフリカのカルフ人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火していた。そうした厄介な操作にもかかわらず砲は見事な協力のもと発射を始めた。何分にも敵兵は大群であったから弾丸が当たり損ねることがなく、敵の一群が木端微塵に粉砕されると……」

(中公文庫 ルイス・フロイス著 日本史 第五三章 松田毅一・川崎桃太訳 P284)


立派にの役目を果たしたことになりますね。


では「アフリカのカフル人」とはいったいどんな人でしょうか?

澁澤龍彦「太陽と月の王」には、

「カフルとはアラビア語起源の言葉で、アフリカ東南岸モザンビク周辺の住民を漠然とさしている」

とあります。

「マラバル人」とはインド南西地域の呼称で、当時の東西貿易の拠点だったカリカットがあった地帯です。

いまの言葉では「インド人」と言ってよいでしょう。


竜造寺軍には、モザンビークの兵士とインドの兵士が参加していたのですね。


しかも特別な知識の必要な砲兵部隊所属ですから、貴重な人材だったのではないでしょうか。


モザンビークにもマラバルにもポルトガルの拠点があったので、ポルトガルの船に乗って極東の日本までやって来たのだろうと思います。


戦国時代の日本はやはり世界に開かれていたのですね。

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