性的敗北

 一時期、副嶋さんという五十代の同僚がいた。一緒に働いていた期間は僅か数か月だったが、私が退職を考えるきっかけとなった人物である。


 常に人手が足りない職場だったため、何の告知もなく社員が増えていることがよくあった。反対に突然消えることもよくあった。

 職安からの紹介なのか、それとも誰かのコネなのかは分からないが、副嶋さんもある日突然会社にいた。入社当時の彼には韓国人の奥さんがいたのだが、数ヵ月後には離婚してバツイチ独身に昇格した(実際に本人が『昇格』と言っていた)。高校生の娘さんは奥さんが引き取ったそうだ。

 家庭内での彼の様子は知る由もなかったが、見た目はとても感じがよく、まさに「お父さん」といった雰囲気だった。労働者達のお父さん代わりになってくれればいいなあ、と私をはじめ他の社員もそう思っていた。

 しかしながら、皆の期待とは反比例して彼の仕事ぶりは散々なものだった。


 パソコンを使った基本的な作業ができないだけでなく、週に一度はほぼ欠勤することや(『お腹が痛い』、『頭が痛い』、『腰が痛い』と当日の朝電話をかけてくるのである)、出す書類すべてに不備があること(労働者の氏名とパスポート番号を手書きで記入するだけの簡単な書類なのになぜか自分の名前を書いてしまったりパスポート番号の部分に郵便番号を書いたりという理解不能な不備であった)など、挙げればキリがないほどに仕事ができなかった。

 彼にできることは車の運転しかないという結論に至ったのだが、後日、警察署に書類を提出しに行った際に警察車両用車庫の入り口に横づけで駐車し、それを見ていた警官に移動するように言われて焦ったのか、パトカーのバンパーに思いっきりぶつけてしこたま怒られるということがあったのでその結論は誤りだと判明した。


 それでもある時を境に副嶋さんは熱心に仕事をするようになった(とは言え仕事の質はそのままである)。

 ほぼ週四勤務だったのが、他の社員と同じ週五勤務になり、何なら自主的に土日も会社に顔を出すようになった。


 しかし様子がおかしい。

 副嶋さんが熱心に指導しているのはベトナム人のリンさん(当時19歳)だけなのだ。指導というよりただのおしゃべり。華奢なリンさんの肩に手を回したり、膝と膝が触れ合うほどの至近距離に座ったりする様子は単なるおしゃべりというよりセクハラと言った方がいいかもしれない。


 その時期、労働者はリンさんの他に四人いた。そのうち三人が男性で、もう一人はリンさんと同じベトナム人女性。しかし副嶋さんはその四人などどうでもいいといった様子で、常にリンさんに付きまとっていた。ある時、副嶋さんが彼らを近くのスーパーに連れて行ったことがあるのだが、後で男性労働者に聞いたところ「私たち四人はいないのと同じ」と言っていた。


 それからも副嶋さんはリンさんにべったりだった。勤務時間中はもちろん、終業後にも彼女の傍を離れようとはせずそのまま寮に上がり込むということもあった。また、休日に二人が会社から遠く離れた郊外にいるところを見たという社員もいた。

 リンさんの身を案じた私たちは何度か副嶋さんのいないところで、何か困っていることはないか、誰かに嫌な事をされていないか、というようなことを聞いた。要するに「副嶋さんにセクハラをされているのではないか」という確認である。その度にリンさんは笑顔で「大丈夫です」と繰り返すのだった。


 それから一週間後、リンさんは県外のサツマイモ農園に就職した。会社からそこまで高速を使って片道四時間はかかる。これで彼らの縁は切れるだろうと安心した。

 が、彼はめげなかった。リンさんが旅立った翌日、わざわざ四時間かけて彼女の仕事場である畑まで押し掛けたのだそうだ。ところが対応したのは農園の社長の息子さんだった。

「本当はずっと嫌だった」「もう会いたくない」「これ以上付きまとうならベトナム大使館に訴える」といったような拒絶の言葉を息子さんの口から聞いた副嶋さんはすっかり意気消沈して帰ってきた。


 帰ってきた彼はしきりに「もう新しい男がいた。僕じゃダメなんだろうか」とぼやき続けた。

 そもそも前の男としても認識されてはいないだろう。彼女が会社で顔を合わせる日本人の中で副嶋さんが一番年上だったため、立場も一番上だと思ったのだろう。だから嫌な事をされても何も言えなかったのだ。

 農園という新たな後ろ盾を得たリンさんはそこでやっと拒否できたのである。

 しかし、そこでもまた同じような事が繰り返される可能性は十分にある。結局のところ、リンさんの平穏が保障されたというわけではない。


 その後の副嶋さんはと言うと、リンさんにフラれた翌週に入国したカンボジア人の女性(当時19歳)を気に入ったようだが、きっぱりと「国に彼氏がいる」と言われしばらく落ち込んでいた。それから数人の若い労働者にフラれた後、退職した。

 噂では隣の市の日本語学校に就職したとか。


 ニュースでは在日外国人による犯罪がよく取り沙汰されているが、公にならない程度にじわじわと労働者を虐め、搾取する質の悪い日本人も多い。

 名ばかりの国際協力に嫌気がさしたのは、そこで働き始めて三年経った頃だった。

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