水底の二人〈中〉
びょう、と喉が鳴って、粘膜が引き吊れるように痛んだ。むせたら、金属臭い自分の息が鼻に抜けた。体をくの字に曲げようとして、今度は額をぶつける。
散々なのに、オレはどこかで安堵していた。だってオレは明かりの下にいる。コンピュータの仄明かりじゃない。眼底を射るような強烈な白が、一人きりのオレを照らしている。オレは八歳になっていて、妹はもういない。
「大丈夫かい?」
男にも女にも聞こえる声が、降って来た。生温かい掌がオレの背を撫でる。
一瞬だけ、白いドレスの女を思い出して、忘れる。
同時に、ここは母や妹からも遠く離れた宇宙船の中なのだと思い出してもいた。先ほど嗅いだ金属臭は、体液が凍り付かないようにオレの細胞の隅々にまで浸透させられた不凍液のそれだ。
狭苦しいカプセルの中で寝転がったまま体を捻って、背をさすり続ける手から逃れる。
だってこれは、母の手でもあの白いドレスの女のものでも、ましてや人間の掌ですらない。
顔の半分だけで振り返る。不気味なくらい整った、男とも女ともつかない顔がオレを見下ろしていた。
――オレの半冷凍睡眠を管理する、アンドロイドだ。
地球に残った者たちが体感する客観時間で十四年をかけて、この宇宙船は片道切符で新惑星に到達する予定だ。その間、光速の三倍で進むこの船に乗るオレたちの主観時間はほとんど止まっている。旅のほとんどを眠って過ごすオレたちに、時間という観念はなきに等しい。凍る寸前まで冷やされたオレの体は、だから地球を脱したときと変わらず、八歳のままだ。
頼りなく未発達な自分の体を、ひどく重たく感じながら起こす。
半冷凍睡眠状態にある間、オレたちの体は無重力下で管理されている。意識が目覚めていようといまいと、無重力に馴らされ体は船に満たされた〇.八Gに圧せられるのだ。
アンドロイドの逞しい腕が容赦なくオレの体を抱き起こす。くるぶしの下に突き刺さった太い針が抜かれるのを横目に、オレはアンドロイドの整い過ぎた容貌を見下ろす。
起床適温にまで暖められた循環体液が針からこぼれるのにも、アンドロイドの表情は変わらない。
いつだってオレの睡眠管理担当アンドロイドは薄笑いを浮かべたままだ。
ニカが死んだときだって、と思い返して苦々しい気分になった。
そうだニカは――あの暗くて寒い部屋の扉を開いたドレス姿の女は、死んだのだ。
ニカは夢の中から還ってこられなくなって、死んだ。その事実をオレに告げたときも、このアンドロイドは決して笑みを絶やさなかった。
オレならもっとマトモな情動プログラムを組めたのに、と反射的に思ったオレも、たぶん相当マトモじゃないんだろう。
でも、それにしたって、このアンドロイドはどこかおかしい。
オレは処置を終えた足首を宇宙服の裾に仕舞ってから、連結型の靴を履く。オレたちが眠るカプセルは緊急時に非常脱出艇としても機能する。そのため、オレたちの冷たい眠りを包む寝間着は、薄手で高性能な宇宙服と相場が決まっていた。
ネジ式の金具で靴とパンツの裾を繋ぐついでに布地の下に指を潜らせて、針の痕を爪で辿る。
ぷっくりと盛り上がった針の痕は三つ目だ。その内の一つはニカの死を告げられたときのものだから、計算には入れない。つまり、とオレは地表を離れてからの時間を漠然と計算する。新惑星への道のりはあと三分の一ほど残っているはずだ。
まだ体の芯が凍っているような錯覚に身震いをして、オレは両足を床に下ろす。〇.八Gの人工重力に抗う脚は、まだ感覚が遠い。それでも不調を悟られないように、オレは明るい電光に晒された廊下を力強く、アンドロイドを従えて歩く。
今が昼なのか夜なのかはわからない。そもそも、太陽を背負って航行するこの船には朝も夜もない。いつでも船の照明はオレたちに降り注いでいるし、眠らないアンドロイドたちが歩き回っている。
「エフセイ」とアンドロイドが、眠気など知らぬ声音でオレを呼ぶ。「どこに行くんだい? まずは食事を」
摂ろう、と誘うアンドロイドの前で急停止して、勢いよく振り返る。
オレを押し潰しそうな近さに、前傾したアンドロイドの胸板があった。しわ一つない白いシャツの向こうに内包されているのは、オレたちのような肉の心臓ではなく電力バッテリだ。オレやニカとは違う。
だからオレは高い位置にあるアンドロイドの顔ではなく、そのシャツの向こうに答えてやった。
「食事は、人間たちと摂る」
オレのわがままに、アンドロイドは目を眇めるだけで咎めようとはしない。前に起きたときもそうしたから、学習したのだろう。アンドロイドと二人きりより、たとえ死体であったとしても人間と過ごすほうがよっぽどいい。
ずくり、と指先がうずいた。まだ半冷凍状態から解けきっていないのかと思うほど、体のあちこちが薄ら寒くて、しもやけみたいに熱をはらんでいる。早くプログラムに触りたくて、無限に続く二進数に溺れたくて、それしか生存証明を知らないオレの本能が飢えているんだ。
寝呆けた脳を叩き起こして、踵を返した。眠りに就く前の記憶を辿る。
以前目覚めたときに案内された部屋を――ニカの死を見せつけられた部屋を探す。あそこには死体が入ったカプセルがある。
早く、はやく、と小走りに船内に張り巡らされた廊下を進む。早々に息切れがした。鼓膜の内でどくどくと血が脈打っている。半冷凍されていたせいで、体がエネルギーの消費加減を調節できずにいるのだろう。
この船に納められている人間たちは凍る寸前まで冷やされ、眠っている。目覚めるのは、五年ごとと相場が決まっている。もっともそれは、地球に残された者が数える客観時間による換算だ。
地球での五年は、ここでの一晩でしかない。
それでも眠る度、オレたちの体が冷やされているのは、宇宙船の壁を透過してくる宇宙線によって体内のバクテリアだの細胞だのが破壊されたり汚染されたりすることを防ぐためだ。地球を発つ前の講習でそう教えられた。けれどそのあたりの事情はオレの専門外だから、正直よくわからない。体内環境を凍ることで守ったって、夢から醒めなければ意味がないじゃないか。
永遠に続くかと思われた白い廊下は、ようやく終点を迎えた。行き止まりがそびえている。大きな回転式ハンドルを持ったエアロックだ。新惑星に到着し、全ての人間たちが冷えた眠りから目覚める日を待つ、硬質な輝きが沈黙している。
その手前、廊下側の壁の一面が窓になった部屋が、オレの目的地だった。
早鐘を打つ胸に両手を当てて、数秒呼吸を整える。そっと窓に歩み寄って、部屋の中に誰かがいたとしても気づかれないように注意深く、壁と窓の境目から顔の半分だけを出す。
かくれんぼの真似事なんて、廊下に設置されている監視カメラにアクセスできるアンドロイドたちにかかればまったく無意味だ。それでも、堂々とその部屋を覗く勇気は出なかった。
白々しいくらい広い部屋の中央に、ぽつんと半冷凍睡眠用カプセルが据えられていた。ニカがそうであったように、今回も一基きりだ。
高い台の上に乗せられたそれの傍らに、少女が佇んでいるのが見えた。足首まであるスリップドレスが部屋の床と混ざり会い、少女まで部屋の一部であるような錯覚を抱く。
肺の奥底から、それこそ細胞が潰れるんじゃないかと思うくらい、息を吐く。そうしないと、あの少女が妹だと錯覚してしまいそうだった。
あれは妹じゃない。妹は、地球に残してきた。
あの少女は、と窓越しに白いスリップドレスの裾を睨む。あの少女は、遭難船から救出された少女だ。体に合うサイズの宇宙服がなかったのか、前に逢ったときと同じく無防備な素足を曝している。
寒さに凍えていた妹と同じ色の肌を眺めながら、妹の亡霊を前に唇を噛む。
妹は、オレがプログラムを解き損ねたせいで、飢えて、凍えて、あの倉庫じみた部屋から出る前に、オレの傍らで息絶えていた。だから妹は、永遠に二歳のまま地球の土の下で眠っている。
オレがプログラムを解けていれば、今も妹はオレの隣にいてくれたのかもしれない。
ぴくりと指先が跳ねた。悔恨が本能を刺激して、プログラムを求めはじめている。
もう室内の少女を気にかけている余裕はなかった。オレは大股に扉へ近づく。オレの存在を感知したセンサが扉を開く間ももどかしい。オレは開ききらない扉の隙間から体をねじ込む。
驚いたように少女が振り返った。不意の侵入者から柩を――そこに納められた半冷凍睡眠状態から目覚め損ねた人間の死体を守るように、細い両腕を緩く広げている。昨夜――地球時間では何年前になるのだろう――ニカの柩に寄り添ってくれた折と同じように、追悼の歌を歌っていたのかもしれない。
対峙は一呼吸、少女もオレのことを思い出したらしい。「ああ」と少女の吐息が、迷う。
「えっと……前に」
会ったよね、と少々訛った発音で言う少女を押し退けて、オレは柩に両手をつく。すっかり室温に馴染んで凍っていたことなど忘れてしまったようなガラス蓋の下では、男が眠っていた。
昨晩、アンドロイドに叩き起こされたとき、ここに横たわっていたのはニカだった。地球で、あの冷たい倉庫で死んだ妹と入れ替わりに現れた、オレの姉。オレが生れる前に父に連れ去られ、プログラムのことも倉庫の冷たさも知らずに生きた、幸せな女。
けれど今は似ても似つかない男が、死体となって封じられている。
心のどこかで安堵しながら、けれどオレの意識から離れた指先はカプセルの側面にあるタッチパネルを探っていた。半冷凍睡眠状態にある人間の体調を監視記録するコンピュータが、省エネモードで起動していた。
別にこの男の死に様に興味があるわけじゃない。男のカプセルをモニタしているコンピュータから先、この船に張り巡らされたネットワークプログラムに、興味があるのだ。いや、興味なんて言葉じゃ生温い。オレにとって電子プログラムは、酸素や水と同じだ。
二進法の岸に触れた途端に、呼吸が楽になった。死体を前に、それでもオレはどこまでも自由な気分だった。
管理コードを入れて、男のカプセルから船へとアクセスする。秘匿されているプログラムにだって、オレはセキュリティなどないに等しい容易さで忍び入ることができる。なにしろ、この船のプログラムの六割はオレが手がけたのだ。
いくつかの回路を遮断して、この部屋を見つめる監視カメラの映像をループ状態に陥らせる。船のすべてを監視しているメインコンピュータは、あっさりとオレを見失う。
そうして、オレはようやく少女を振り返った。オレに押し退けられ、力なく床に座り込んでしまった少女に、タッチパネルに触れていないほうの手を伸べる。
柔らかい少女の手が、重ねられた。
あれ? と小さな、けれど見過ごせない違和感が背筋を走った、気がした。じっくりと、少女と自分の手を観察する。
なんの変哲もない、八歳にふさわしい肉付きをしたオレの手と、少しばかり骨の目立つ同じくらいの大きさの少女の手だ。少女の肌は灰色がかっていて、オレのほうは青白い血管が目立っていた。二人ともが寒々しい不健康な色彩だ。
妹も、無事に生き延びていればこうしてオレと手をつないでくれただろうか、と考えかけて、やめる。妹を守れなかったオレにそんな妄想をする資格はない。
オレは先ほど覚えた違和感の正体を探りながら、緩やかに少女を引き起こす。
「えっと……さっきは押し退けたりして、ごめん。君、この前会ったよね」
少女はいまいち確信を得られていない様子で首を傾けて、それでも頷いてくれた。
「リイナ」と自らの胸に手を当てて名乗った少女は、次いでその手で足下を示す。
小汚い毛玉が転がっていた。いや、クマのぬいぐるみだ。地球を闊歩していた野性味なんて欠片も見あたらない、太り気味の人間みたいなぽっこりお腹と丸い瞳を持っている。
「こっちは、テッド。わたしを守ってくれる王子さまなの」
「王子さま……」
思わず失笑しそうになって、危ういところで口元を引き締めた。
妹の王子さまになり損ねたオレが他人の王子さまを笑っていいはずがない。王子さまなんて職業には、確かにクマのぬいぐるみが似つかわしい。妹一人救えなかったオレよりはよっぽど、少女を――リイナを守ってくれるだろう。
オレは歪んだ唇をごまかすように、笑みを作る。
「君、ニカに歌を贈ってくれた子だよね?」
「ニカ?」
「オレの姉だよ。この船に乗っていた、唯一の歌手だったんだ」
でも今はリイナがいる。
オレは苦く、ニカが死んだのだと告げたときのアンドロイドの暴言を思い出す。
他でもない、オレの半冷凍睡眠を管理しているあのアンドロイドだ。あいつは、ニカがもう無価値だと言ったのだ。笑いながら、リイナが歌えるのだからもうニカは死んでもいいと。
「いたっ」と小さな悲鳴がして、我に返る。知らずリイナとつないだ手に力を込めていたらしい。慌ててリイナを離したけれど、リイナのほうがオレの手を追いかけてきて、つなぎ留められる。
薄い皮膚に骨と血管が浮いた、生よりも死に近しい雰囲気の手だ。スリップドレスから生える足も首も、同じくらい痩せ細っている。
こんな体を半冷凍状態にしたら二度と目覚められないんじゃないだろうか、と不安になって、思わず傍らの柩を覗き込んだ。
自分が納められているカプセルのシステムをオレに乗っ取られていることも知らず、男は平和に眠り続けている。
ニカも、そうだった。
息絶えたニカは、この部屋で七十二時間放置された。うっかりカプセルを宇宙へ放棄してから実はまだ死んでいなかった、なんて事態を避けるためらしい。
ここは、死を確定するための部屋だ。
そしてオレにとって、この部屋に置かれたカプセルこそが唯一、プログラムに触れられる場所だった。
だからあのときのオレは無意識に、ニカの死に顔を見るよりも早くカプセルのタッチパネルを探っていた。ニカの屍が横たわるカプセルのシステムを通して、メインコンピュータにあふれるプログラムの海に潜ることを優先した。
そんな薄情なオレの代りに、リイナは歌ってくれた。夢から醒めきれない舌足らずな発音で、たどたどしく聞き取り辛い公用語で、それでも精一杯ニカへ葬送歌を贈ってくれた。
思い帰した刹那また、喉の深いところに違和感が走った。
なんだろう、と首を傾げながら、ディスプレイ越しのプログラムよりも掌に感ずるリイナの柔らかさに注意を向けている自分に気づく。こんなこと、初めてだった。瀕死の妹の隣でだって、オレはプログラムに没頭できたのに。
緩やかにリイナの指先に力が込められて、弱まって、また強く握りしめられる。
心拍みたいだ。その優しいリズムに、強く不安を掻き立てられる。理由もわからぬ焦燥感に、オレの不凍液混じりの血液が震える。
「えっと……エフ、セイ?」
不安そうに呼ばれて、「うん」と惰性で頷く。
「一晩ぶりだね」
不思議そうに首を傾げて、リイナは「一晩?」と呟いた。
他の船から保護されたリイナにとっての「一晩」は別の基準で語られるものなのかもしれない、と思い直して、オレは曖昧に笑って見せる。
「これまで他の誰かと目覚めるタイミングが合うことなんてなかったから、君とまた会えるとは思ってなかったよ」
「わたしも」呟くような、弱い声音でリイナは話す。「誰かと一緒に起きたりはしないよ。わたしはいつもこの部屋で、こうやって」リイナはゆっくりと体を折って、柩のガラス蓋に額を預けた。「眠っている人たちに歌ってあげるだけ」
「……寂しくない?」
「テッドがいるし」とリイナはクマのぬいぐるみを撫でる。「それにレフもいてくれるから」
「レフ?」
誰だっけ? と考えたき、カプセル越しに船内カメラを操っていたオレの指先が警告を寄越す。
アンドロイドが、来る。オレを起した個体だ。手にトレイを持っていたので、オレの食事を運んで来たのだろう。
即座に機能を停止させていたこの部屋のカメラを復旧する。アンドロイドがこの部屋を見回す大きな窓をゆったりと横切るのを、横目で確認する。
スライド式の扉が開くまでの二秒間で、オレとリイナが話している映像から音声データを消去し、記録を中断して間の画像をつなぐ。部屋の監視カメラ映像を再起動させる間も、オレは何事もなかったようにリイナと並んで死者を見下ろしていた。
アンドロイドが入ってきたときにはもう、優秀なオレの端末と化していたカプセルはただの柩に戻っている。
つい、とリイナ指先が上がった。アンドロイドを示す。そして一言。
「レフ」
そうか、オレの眠りを管理しているイカレたアンドロイドは、リイナの眠りもまた管理しているのか、と穏やかではない心地になる。そのとき。
「ただいま」とアンドロイドが、リイナに微笑んだ。「待たせてごめんね、僕の歌姫」
――僕の歌姫。
その言葉に、目の前が真っ赤になった。半拍遅れて、オレはそれが怒りだと気づく。久しぶりの感情だった。妹が死んだ日だって、母を捨てたニカが身勝手にオレを迎えに来たときだって、ニカの死を受け入れたときですら、これほど感情が高ぶったりはしなかった。
それなのに、オレはアンドロイドのたった一言で落ち着きを失う。
その理由を自分の内に探るオレに、レフは平然と黄色いゲルが満ちたパックを差し出した。反射的に受け取ってしまって自分に、憤りが羞恥心へと変換された。
顔を伏せたオレの隣で、レフは少女にも食事を手渡す。
驚いたことに少女に出されたのは、固形物だった。薄黄色くて四角い、この船では初めて目にする食料だ。トレイに載せられたそれを、スプーンですくって食べるらしい。オレがこの船で口にしたものはすべて、パック詰めにされていたのに。くすんだ少女の顔色から考えれば、療法食の類なのかもしれない。
前に会ったときからわかっていたけれど、リイナは足が弱い。顔色だって白というよりも灰色に近しい。長い髪だって色素が抜けてしまっている。
彼女が乗っていた船は有害な宇宙線を防げない欠陥品だったのかもしれない。だからリイナも、満足に食事すらできない体なのだ。
オレはそっと少女の手を離して、ゲルパックを両手で握り締める。生温く指が沈み込む感触が、オレの苛立ちを呑み込んでいく。誰かの首を絞めているような手応えの中にレフを想像した。
大丈夫、連中は、船内備品だ。なにを言われようと、無視すればいい。
「なんかさ」とオレは栄養食を吸い出しながら、リイナにともレフにともつかない半端な位置に顔を向けて言う。
「リイナって……」
死体じみてるね、とはさすがに口にできなくて、曖昧に言葉を切る。口腔内のゼリーを舌でぐだぐだとかき回してみても適切な言葉が見つからなかったから、オレは諦めて「前に会ったとき」と白状する。
「異星人みたいだって思ったんだ」
意外にも、リイナは怒らなかった。それどころか小さく笑って、頷いた。
「わたしも、最初にレフと会ったときは、宇宙人だと思った」
人間を模したアンドロイドが宇宙人ならオレだって宇宙人だ、と眉を上げたら、リイナは「だって」とくすくす息を漏らしながらトレイを持ったまま両肘を広げた。
「ずんぐりしてるんだもん」
「君に比べたら、この船のみんな、それこそアンドロイドだって太ってるってことになるよ」
リイナは唇を尖らせるとトレイを床に置いて、膝くらいの背丈があるクマのぬいぐるみを引き寄せた。胸と太股の間にぬいぐるみを挟んで、直接床に座る。背凭れと化した死体入りカプセルの設置台では、オレが弄っていた操作パネルがまだ遊び足りない様子でバックライトを点灯させていた。
リイナは膝を引き寄せて、華奢な顎と胸の間で彼女の王子さまたるクマのぬいぐるみを押し潰す。拗ねたリイナを宥める術を持たないクマは、困ったようにも諦めたようにも見える表情になっていた。
「うん。宇宙に投げ出されたわたしを迎えに来てくれたレフは、こんなに大きい」リイナの骨ばった両腕が顔の周囲に大きな円を作る。「頭をしてて、それが宇宙服だなんて知らなかったから、すごくびっくりしたの」
「君の宇宙服のヘルメットはもっと小さいの?」
「うん。ヘッドギアをつけたら、ガラスバイザが頭の周りをくるっと囲んでくれるの」
「へえ、ハイテクだね」
オレはリイナの船で採用されていた宇宙服の規格を知らない。宇宙船の所属国が違ったのだろう。だってリイナはオレたちと同じ公用語を話してはいるけれど、端々に妙な訛が混じっている。
「君は、どこの国の子なの?」
「くにって?」
「船籍だよ。乗ってた人たちの出身地でもいいけど」
戸惑ったように、リイナは眉を寄せて首を傾げた。スプーンを大儀そうに動かしてトレイに盛られた薄緑色の固まりを切り刻みつつ、クマのぬいぐるみの耳先を唇でついばんでいる。
「リイナ」と口を挟んだのは、彼女がレフと呼ぶ、オレの管理アンドロイドだった。「君の船には、どんな人たちが乗っていたの?」
「ママと」ぱっとリイナが顔を上げる。ぬいぐるみから離れた口元が綻んで、でも、すぐに声量ごと萎んでいく。「きょうだいが、たくさんいたの。メダカも、たくさんいて……船が壊れた日、わたしたち姉妹は誕生日で、メダカの世話をさせてもらえるはずだったのに……」
呟くようなリイナの言葉は脈絡がなくて、だからこそ彼女が失ったものの大きさとか大切さとかが伝わってきた。
こういうときはどうすればいいのか、なにを言えばいいのか、わからなかった。
そんなオレを差し置いて、アンドロイドは優しい声と手つきで彼女の頭を撫でた。
おもしろくなくて、オレはくわえたゼリーパックをベコベコと膨らませたりへこませたりを繰り返す。
だって仕方ないじゃないか、とオレはパンパンに膨れたゼリーパックの曲面を睨む。オレには慰めるべき相手なんていなかったんだ。記憶の中の妹は傍にいるオレよりも母を求めて泣くばかりだったし、母はといえば少量の嘘くさい笑みと大量の怒鳴り声で形成されている。こんなに弱々しく、オレになにかを期待したりもせず、オレの相手をしてくれる人なんて、地球にはいなかった。誰も、オレに他人の慰め方なんて教えてくれていない。
オレをあの倉庫から助け出してくれたニカですら、オレが地球脱出計画の一翼を担えるだけの頭脳を有していると知っていたからこそ、オレと一緒に暮らしてくれていたんだ。オレは、ニカが滅び逝く地球から脱するための手段にすぎなかった。
だからオレは地球に残してきた妹と母を、そして死体となって広大な宇宙に棄てられたニカを、心から追い出してしまえるのだ。でも……。
そっと指先を伸ばして、恐るおそるリイナの裸の足先に触れる。オレと違って靴を履いていない彼女の小指は、冷たかった。
驚いて、指を引っこめる。
そんなオレを、リイナは笑う。声もなく、唇の動きだけでオレに言う。
――ありがとう、って。
泣きたくなった。ニカが死んだと聞かされたときと同じように息が苦しくなって、胸の中心が熱を持つ。今、家族を思って泣きたいのは、リイナであるはずなのに。
だからオレはこれ以上リイナに気を遣わせないように、洟をすすって「メダカって」と話を変える。
「どんな風に世話するの?」
ぱっとリイナの頬が紅潮した。ぬいぐるみの頭くらいの幅まで両の掌を広げて「これくらいの」と示してくれる。
「パックの中に水が入っていて、そこに七匹ずつ飼ってるの。メダカにご飯をあげるのは年少者の仕事で、七歳になったらできるの。それでね、よく目を凝らして卵を探すんだよ。透明だから見落さないように注意して、見つけたら回収担当の姉さんたちに報せるの。そうしたら、スポイトで卵を吸い出して、別のパックに入れていくの。そうしないと親メダカがご飯と間違って卵を食べちゃうんだよ。メダカの卵はね、金色で透き通って、きらきらした親メダカのヒレと同じ色なの。目玉が黒いだけで、体は全部透明で光ってて、とってもきれいなの」
知ってる? と小首を傾げて、リイナはぬいぐるみに微笑む。立て板に水のごとき演説だった。よほどメダカが好きらしい。
メダカについては知っている、気がしたけれど、確証はなかった。メダカという存在は見たことがある。あの倉庫から保護された後、オレはニカと父とともに地下施設に引き取られた。そこではいろいろな教育を受けたし、実際に研究施設で飼われていた実験用のメダカたちを観察したりもした。けれど、それがきれいだったかと問われれば、答は否だ。
狭苦しい箱の中を漂うメダカたちは、艶の乏しい灰色の体も相まって、まるで倉庫に閉じこめられていたオレや妹のようで気が滅入ったものだ。リイナが飼っていたメダカとは、別の品種だったのだろう。
「やっぱりリイナは、オレとは別の生き物なんだね」
「え?」
眼を瞬かせたリイナに首を振って、オレは「オレのメダカは」と呟くように答える。
「金色じゃなかったし、じっくり観察したこともなかったよ。君は、メダカが好きなんだね」
「うん」無邪気な笑みで、リイナは頷く。やっぱり、クマのぬいぐるみに向かって。「わたしもいつか、メダカみたいに泳げるかな」
「新しい惑星に着いたら、たぶん泳げるよ。地表は土ばかりだけど、地下にはかなり広い湖があるって話だし」
「メダカも、いるかな?」
「さあ……? 微生物の反応はあったらしいけど……」
「別の船が」と、唐突に、これまで置物みたいに立ち尽くしていたレフが割り込んできた。「先に到着していれば、あるいは繁殖させているかもしれないね」
「メダカはわたしたちのご先祖さまだから」
なにを言われたのか理解するまでに、たっぷり三秒もかかった。「へ?」と間抜けな声が漏れる。
その間にもリイナの口は、まるでそれが世界の共通認識であるかのごとく、滑らかに回り続ける。
「どの船にもメダカが泳いでいるのかと思ってた。ママもそう言ってたし。でも、この船にはいないんだね」
「え?」と再び意味のない声を発したオレに、リイナもまた「え?」と頓狂な顔でオレを見つめ返す。
「え?」とメインコンピュータの厖大な情報を引き出せるはずのアンドロイドまでが、妙な表情を作っていた。
「えっと……」とオレはゼリーを一口含んで、それを飲み込むまでの短い時間で、リイナの妄言を咀嚼する。
生命は水から発生した。確かに、オレだってそう習っている。でも、メダカの遺伝子を積んでいる船が多いのは、メダカが実験生物として優れているからだ。丈夫で飼育しやすく、繁殖が容易だからだ。だから新惑星の水質調査と調整のために、数ある水棲生物のなかからメダカが採用された。断じて、メダカを崇拝してのことじゃない。
それなのにリイナは、彼女自身がクマのぬいぐるみを従えている理由みたいにあっさりと、人間がメダカから発生したと言った。彼女の母も、そう主張していた、と。新種の宗教だろうか? と考える。
「メダカが人魚になって、土の上を歩くことを選んだ人魚が人間になったんだよ。エフセイは、知らないの?」
「知らないっていうか、それは……」
おとぎ話だよね、と無粋な台詞を危ういところで噛み殺す。家族を失って、さらに愛する人に教えてもらった話まで否定されるなんて、オレにだってあんまりだとわかる。
「えっと……人魚ってあの、上半身が人間で、足が魚のシッポになってるやつ?」
「そう!」リイナは破顔する。「水の中に棲んでて、泳ぐのが上手で、瞼のない灰色のお姫さまたちだよ」
「……灰色」
瞼のない人魚というのは、お姫さまというよりも怪物じみた外見になるんじゃないだろうか。
オレはリイナの首筋のあたりを眺めて、彼女の白というよりも灰色に近い肌とプラチナブロンドの色彩の向こうに、彼女が語る水底の世界を夢想する。
確かに彼女は人魚から分かたれた種族なのかもしれない、と思えてしまうくらいには、彼女を構成する色合いはくすんでいた。
「オレの知るメダカは、確かに銀色だったけど……」
リイナは少しばかり顔を斜めにしてから、膝のぬいぐるみを見下ろした。頷いたのかもしれない。
「わたしが育てるはずだったの。七歳の誕生日に、きょうだいたちみんなで、メダカのお世話係になるはずだったの。でも……」
宇宙に吸い出されちゃった、と呟いたリイナの指先が震えて、ぬいぐるみの手をつかみしめる。ついさっきまで、オレが握っていた彼女の手はぬいぐるみのものになっている。
それが面白くなくて、オレはそっと、でも有無を言わせずぬいぐるみからリイナの指先を取り戻した。
「君は」囁き声で、リイナを慰める。「メダカみたいに宇宙を泳いで、この船にたどり着いたんだろ?」
リイナはぬいぐるみの頭に口元を埋めて「うん」と呻いた。
彼女の壮絶な遭難を知らないオレは自分で振った話題を早々に悔いながら、ゼリーの最後の一口を飲み下す。
リイナは宇宙を飛び交うデブリに家族を奪われた。
宇宙へ放り出されたニカの柩も、いつか誰かの救命艇を襲ったりするのだろうか。その前にどこかの惑星に引き寄せられて一体化するか、燃え尽きてくれればいい。そんなことを願うオレはやっぱりニカを、あの倉庫の暗さも膨大なプログラムの残酷さも知らない姉を、憎んでいるのかもしれない。
「エフセイは?」
「え?」
「エフセイはどんなところから来たの? 人魚はいた?」
「人魚は……おとぎ話のなかにしかいなかったけど、メダカはいたよ。たぶんね」
「たぶん?」
リイナが顔の下半分をクマと一体化させたまま話すものだから、まるでクマと喋っている気分になって、苦笑がもれた。
「……本当のところ、水槽で管理されてるメダカしか見たことがないんだ。オレの国は寒くて、たいていの魚は分厚い氷の下に隠れてたから、メダカ以外の生き物だって、野生のものはほとんど知らないんだ」
空になったゼリーパックを捻って、レフに投げつける。完全に死角に入れたはずなのに、当のレフはオレのほうを見もせずパックをバックハンドで受け止めた。休むことなく船の隅々まで監視しているアンドロイドらしく、この部屋のカメラとも同調しているのだろう。
オレが柩のタッチパネル越しにプログラムに触れれば、すぐに遮断してしまえるのに。
ずくり、と指先が熱を持った。対照的に首筋が冷えていく。自分がプログラムから離れているという事実を忘れるために、オレは強くリイナの手を握りしめる。
リイナの爪が、オレの手の甲に小さな三日月を作った。オレもリイナの、力加減を間違えれば簡単に突き破ってしまいそうな薄い皮膚に、爪を立てる。
お互いに何度も手をつなぎ直して、オレたちはお互いに爪痕を重ねていく。なんだか楽しくなってきた。それなのに。
不意に影がオレたちを覆った。レフの、大人の男を模した威圧的な体が、目の前にそびえている。分厚い胸板も擬似筋肉で太った腕も、オレにはまだないものだ。
「リイナ」レフの冷たい手がオレたちの掌を包み込んで、引き剥がそうとする。「エフセイも。手を傷つけてはいけないよ。雑菌が入ってしまうといけないからね」
そんなアンドロイドに反発して、オレは爪の先でリイナの皮膚を突き破る。はずだったのに、やけに弾力のある指がオレの指を絡めとった。
レフだ。いつもの薄ら笑いをそのままに、声音だけが半音だけ低くなる。
「エフセイ、リイナが眠れない理由を知っているかい?」
眠れない? と半眼でレフを睨み上げる。なにを言っているんだろう。この船にいる人間はみんな、ほとんどの時間を眠って過ごす。起きているのはアンドロイドだけだ。たとえこの船の主観時間が短くても、船の防壁で防ぎきれない宇宙線から体の細胞を守るために眠りは必須だ。それなのに。
「リイナはね、宇宙をさまよう船の中で産まれた子なんだ」
なにを言っているんだ、とオレは鼻白む。新惑星へ向かう宇宙の旅に、妊婦は参加できなかった。オレたちの血中に流し込まれる不凍液が胎児の細い血管を詰まらせ、細胞分裂を妨げ、母子ともに腐ってしまうからだ。体中の血液を入れ替える装置は巨大で重たいため、不凍液の処置は地球でしか行えない。
だから、宇宙で子供は生まれない。そんなこと、この旅の参加者ならば誰だって、それこそアンドロイドだって知っている。
それでもレフは、リイナが宇宙の落とし子だと妄信している手つきで、オレの爪痕が刻まれたリイナの手を撫でていた。
「ほぼ無菌状態の無重力下で生きてきたリイナは、不凍液に含まれる化学物質に耐えられない。大気中にたくさんの微生物が浮遊する地球で育った君にはなんてことのない傷も、リイナにとっては猛毒の菌に感染してしまう危険なものなんだよ」
わかるね、と噛んで含めるように語るレフを、オレは見ていなかった。
再会したときからずっと抱いていた違和感の正体が、輪郭を表し始める。
初めて会ったとき、彼女の細すぎる手足は彼女自身の重みを支えることすらできていなかった。ニカの柩を杖に、辛うじて立ち上がれるくらいだった。それは彼女が無重力で生きていたからだ。
でもこの船には〇.八Gの人工重力が張り巡らされている。今の彼女は、頼りないながらも一人で立っていられるほどの筋力を手に入れた。彼女はこの船で、孤独な起床時間をアンドロイド人間の死体とともに生きている。
いや、でも、なにかがおかしい。おかしいことはわかる。なのに、なにがおかしいのかがはっきりとしない。違和感の芽だけが深い霧の向こうで揺れている。リイナの細すぎる体とか不凍液への不適合とか、そういうことじゃなくてもっと根本的ななにかだ。
「リイナは」オレは彼女の手の甲に散った三日月を指の腹で辿る。「宇宙で産まれたの?」
「エフセイは、土の惑星で産まれたんだよね?」
羨ましい、と目を細めたリイナが、遠ざかった。いや、オレが、遠ざけられたのだ。
レフがオレを抱き上げている。自分の体重が、わきの下に入ったレフの腕に食いこんで、痛い。両足をバタつかせたけれど、とっくに床は靴底から離れていた。
「放せ! なんなんだよ! オレはまだリイナと」
「検査の時間だよ」
優しい声音で、そのくせ暴力的な強引さで、レフはオレを強制的にリイナから引き剥がす。
リイナとつなげていた指先に力を入れる。でも、彼女はレフに唆されるまま、あっさりとオレを手放してしまう。
見た目よりずっと強靭な機械の体はオレを片腕に、もう片方の手でリイナの頭を撫でた。まるで、人間に執着しないリイナを、アンドロイドに素直に従う人間を、誉めているようだ。
視界の端に、柩が引っかかる。男が眠っているはずだ。いや、あの中で死んでいるのは、ニカかもしれない。
オレは、いつニカを喪ったのだろう。あそこで冷たくなっていたニカは、本当に死んでいたんだっけ? オレは、確かめなかった。オレに残された最後の家族に、触れなかった。
だってレフが、この船のすべてを管理するアンドロイドが、ニカは死んだと告げたんだ。疑う余地なんて、ない。
大股に歩き出すレフの振動が、オレから柩を隠す。
「ニカ」と呼んだ。「リイナ」を求めたのかもしれない。未発達なオレの声はオレ自身の鼓膜の底にも届かず、虚しく萎んでいく。
意識が、定まらない。ひどく眠たい。首の後ろが、不凍液と同じ温度に冷えていく。
ああ、また、あの冷たい倉庫に戻されるんだ。
戻される? いつに? まだ、妹が生きていたころだろうか。それともオレが、その優秀さでもって母を養えていたころか。
オレが母の望み通り、母さんが必要とするだけのお金をネットバンクから盗み出せていたら、妹はあんな倉庫で死なずにすんだのに。いや、産まれずに、すんだのに。
オレは、母さんを養うための存在だったのだから。
「大丈夫だよ、エフセイ」アンドロイドの、子守歌代りの囁きだ。「僕たちは君を必要としている。君たち人間こそが、僕たちの存在意義なんだから」
寒さに震える脳のどこかで、かちり、とピースがはまった。その硬質な音は、プログラムを強制的に終了させるオレの指先に似て、ひどく冷徹だった。
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