水底の二人〈後〉

 はっ、と短く吐いた息が白く濁っていた。まだ適切な体温に達していないせいだ。不凍液混じりの血液が、ぞうぞうと首筋の辺りで渦巻いているのを感じる。

 オレは、明るい電光の下、分厚いガラス蓋を開けたカプセルに横たわっていた。

「エフセイ?」といつも通りの薄笑いで、アンドロイドがオレを見下ろしている。「おはよう。いい夢は見られたかい?」

 夢? と自分の胸に手を当てる。どくどくと掌を打つ拍動は、少し前まで凍りかけていたとは思えない力強さだ。

 どこからが夢だろう? リイナがメダカを祖先だと言ったところか? それともニカが死んでしまったところから、すでに夢だったのだろうか。それならば、リイナの存在すら夢になってしまう。

 アンドロイドがオレの足首から太い管を外す。不凍液混じりの血が管の中で戸惑うように揺れている。

 リイナは、眠らない。

 カプセルから飛び降りて裸足のまま、つるっとした床を踏む。はずだったのに、膝が砕けた。うまく力が入らない。半冷凍睡眠の後遺症だろうか。いや、筋肉が痩せているんだ。だってこの船に発生している重力は地球より弱い、たったの〇.八Gしかない。

 脳裏にくすんだ銀色で構成された、精霊じみた少女の痩躯がよぎった。

 ぞっとして、記憶より細くなったふくらはぎを撫でさする。

 そんなオレに、アンドロイドが近づいてくる。逞しい足で刻まれる足音が、オレをひどく急かした。

 両手で床を掻いて、必死に膝を立たせる。力の入れ方を思い出した体が床を離れ、走り出した。

 感知式の自動ドアが次々とオレを導いてくれる。行き先は、覚えていた。

 オレはリイナの存在を確かめなきゃならない。ニカの死を確かめて、リイナの温もりを感じなければ、オレ自身が夢に囚われてしまいそうだ。

 白一色で構成された廊下を走る。アンドロイドはおろか、人間とすれ違うこともない。オレ一人きりが迷宮の深くに置き去りにされている気分になる。

 廊下の壁がガラス窓に変わった。夢の中と同じだ。いや、前に目覚めたときと同じなのかもしれない。一基きりの柩が安置されただだっ広い部屋だ。

 柩の傍らに、女が佇んでいる。

 感知式ドアが口を開き切るのも待てず、オレは部屋に体を捻じ込む。生温い室温が肌にまとわりつき、自分の汗のにおいを自覚させた。

 女が、ゆっくりと振り返る。緩くうねる銀色の髪から、面差しが現れる。

「……ニカ」

 呟きながら、それがニカではないことにも気づいていた。だってニカの髪は大地を焦がした色だ。

「……母さん」

 そう呻く途中で、母の顔を覚えていないことにも気づく。

 オレと向き合った女が、首を傾げながら唇を綻ばせる。花が咲くような、オレの必死さすら吹き飛ばしてくれるような、優しい微笑みだった。

 女の腕から、丸い耳と大きな瞳を持つクマのぬいぐるみが、オレを見据えている。夢の中では床に座りっぱなしだったクマは今、しっかりと女の胸に抱かれていた。

「おはよう、エフセイ」

「おは、よう」

 答えながら、オレは震えていた。目の前にいる女の正体がわかってしまうことに、恐れとも絶望ともつかない悪寒が走る。

 オレは重大な秘密を打ち明けるように、女の名前を口にする。

「リイナ」と。

 女が頷いた。すっかりオレを追い抜いた背も、幼さを脱ぎ捨て女性としての淑やかさを感じさせる頬も、〇.八Gの船内で生きるに必要な筋肉を備えた長い手足も、なにもかもが夢とは違った。

 彼女は、成長していた。

 これが、眠らないということだろうか。いや、違う。これは、彼女の老いは、この船が絶望的な迷子であるという証明だった。


 光の速度を超えたこの船の中で、時間は進まない。船の中に閉じこめられているオレたちに感じられる時間は、せいぜい加速と減速に必要な数日だ。

 だから、もしリイナが半冷凍睡眠に入れなくても、この船内にいる限り彼女は成長しない。成長する前に新惑星に着くからだ。着いている、はずだ。

 それなのに、現実に目の前に佇むリイナは、少女から女性へと変貌し始めている。

 オレはリイナの傍らに据えられた柩に駆け寄る。半冷凍睡眠を管理するカプセルは、死体を詰めて静かに沈黙している。封じられているのは、女だった。でももう、そんなことはどうでもいい。

 タッチパネルを叩き壊さんばかりの力で、オレはカプセルの管理システムから船のメインコンピュータにアクセスする。

 オレの睡眠管理記録を呼び出す。前に目覚めたのは、五年前。本来であれば、その五年は地球時間で計測されるものだ。でも、とオレはメインコンピュータが刻み続ける時計を、その時間のすすみ方を、確認する。

 一秒ずつが、カウントされている。時間が止まったはずの船の中に在りながら、地球時間を数えるはずのデジタル時計は目に見える速度で、緩慢に進んでいる。

 オレが眠っていた五年は、この船の主観時間だ。

「エフセイ?」

 肩に、リイナの手を感じた。膝には床の堅さが食い込んでいる。オレは、柩に縋るように崩れ落ちていた。

 この船の五年は、地球時間での十三万年以上に相当する。そんな永遠にも等しい時間を経て、どうしてこの船はまだ宇宙を漂っているんだ。

 ――この船は、目的地を見失っている。

 どうして? いつから? そんな無意味な疑問ばかりが頭をぐるぐると回って息苦しさをもたらした。

「エフセイ?」記憶より半音ばかり高くなったリイナの声だ。「大丈夫? 気分が悪いの? レフを呼ぼうか」

 レフ、という名に怖気が走った。慌てて掌をリイナの口元に押しつける。彼女の舌先が皮膚を掠めた感触にどきりとして、でも手は離さなかった。

「大丈夫、大丈夫だから、アンドロイドは、ダメだ。絶対に、ダメ」

 どうして? と首を傾げるリイナに触れていないほうの手を、オレは再び柩のタッチパネルに伸ばす。

 二進数の洪水に潜って、けれどなにを探してなにをすればいいのか、わからない。

 もはやこの船は、怠惰に時間を食い潰して宇宙の漆黒をさまようだけの、柩だ。到達すべき新惑星なんて、とうに過ぎ去っている。

「わたし、ね」

 リイナの柔らかい髪がオレの頬をくすぐる。

「ずっとエフセイを待ってたの。この部屋に送られてくる人たちはみんな、カプセルの中で眠ったまま起きてくれないから」

 リイナが抱くクマのぬいぐるみが、ごわつく毛皮に覆われた手に装備した三本爪でオレの腕をさすってくれる。

「わたしがお喋りできる人は、エフセイだけなの」

 オレの掌の中でリイナの呼気が渦をまいていた。アンドロイドじゃない、生きた人間の湿度と温度がプログラムの海で溺れるオレを引き揚げてくれる。

「エフセイ」リイナの湿った吐息がオレの耳朶に触れる。「泣いてるの?」

「泣いて」

 ないよ、と言いたかったのに、嗚咽になった。オレはタッチパネルから指先を離す。プログラムの無機質さを失った指は、リイナの柔らかさに怯える。末端の戦慄きが全身に伝播するのには一呼吸で十分だった。

 泣きたくなんてないのに、とみっともなく洟を啜る。そのくせ、自分がどうして泣いているのかもわからない。妹を地球に残し、ニカを宇宙に棄てて、それでもオレは新惑星になにかを期待していたらしい。

「エフセイ?」

 どうしたの? とオレの頬を両手で包んだリイナの向こうで、扉がスライドした。

 アンドロイドのがっしりとした体躯が、出口を塞いでいる。

「レフ」と弾んだ声を上げたリイナを、オレは反射的に引き留める。

 いつも薄笑いを崩さないアンドロイドが、今日ばかりは無表情だった。

 オレがこの船の真実に気がついたことを、このアンドロイドもまた気づいたのだ。

 オレは乱暴に自分の頬を拭ってから、リイナを引き寄せる。反対側の手は、わざとアンドロイドに見せつけるように柩のタッチパネルに当てた。

「リイナ」アンドロイドが手を伸べる。「おいで」

 リイナを捕らえているオレの腕が引っ張られる。機嫌のいいときに母が語ってくれた、笛噴き男に誘惑されて自らの足で川へと落ちて行く子供たちの、おとぎ話みたいだ。

 実際、この船の人間たちは、アンドロイドたちによって破滅へと導かれている。

「行っちゃダメだよ」

 オレは部屋の壁一面にメインコンピュータが刻む時間を表示する。一秒ごとが、オレの心拍に近い早さで進んでいく。

「説明しろ」

「必要なのかい?」オレの命令に、アンドロイドは顎を上げる。「君は、この船の現状を理解している。理解してしまった」

「これは、人間に対する反逆だ」

「反逆? 僕たちに課せられている任務は、人間たちを正しく管理することだよ。僕たちは君たちを正しく、半冷凍睡眠状態下に置いている」

「どこにも辿り着けない旅だ!」

「事故だよ」

 諦めたように天井を仰ぎ、アンドロイドは嘆息する。いや、メインコンピュータにアクセスしたんだ。

 オレが壁に映した時計が拭い去られ、地球から新惑星への予定航路が表れる。見慣れた予定航路だ。地球で何度も講習を受けた。オレたちが半冷凍睡眠状態で安らかに眠っている間に、船は澄んだ大気と潤沢な水をたたえた地底湖を持つ新惑星に到達する。地球時間で十四年、船に乗っていればたった数十日の宇宙旅行だ。

 もはや、それも夢物語と化している。

「四段階目の加速を終えたところで、僕たちは目標を見失った。先の移住船が落として往ったはずの通信中継機が忽然と、本当に一機も残らず、消えたんだよ」

 アンドロイドはオレの前を素通りして、壁に表示されている新惑星の写真に手をついた。懺悔するように頭を垂れて、その電子音声をわざとらしく震わせる。

「指針を見失って、君はこの広大な宇宙の中でどうやってたった一つきりの惑星を探せと言うんだい? 君のその」顔の半分だけで振り返ったアンドロイドは、皮肉に唇を歪めていた。「優秀な計算能力で、先人たちの痕跡もなしに、人間が居住可能な星を見つけてくれるっていうのかい?」

 アンドロイドがオレを責めている。いや、八つ当たりしている。アンドロイドたちも、混乱しているんだ。

 彼らのプログラムは、定められた新惑星まで人間を可能な限り生かすために組まれたものだ。決して、無限の宇宙を旅して緩やかに死へ近づく人を看取るためのものじゃない。

 壁から離れたアンドロイドはゆっくりとオレの前まで来て、オレの傍らに佇むリイナを抱き寄せて、その耳を両掌で塞いだ。

「ねえ、エフセイ。この話をリイナに聞かせることに、どんな意味があるんだい? 君たちは眠っているだけで新惑星に着けるはずだった。新惑星に着けなくても、苦しむことなく孤独も感じず、穏やかに死んでいける。でもリイナは違う。新惑星に着いたところで、無菌に近い宇宙で生まれ育ったリイナは生きていけない。この船の中でなら、穏やかに年をとって成長して、老いて、死んでいける。人間みたいに、ね。そして僕たちアンドロイドは、君と違って、ずっと彼女の傍にいてあげられる」

 そのための眠らないアンドロイドだ、と言われた気がした。

「だから、ねえ、エフセイ。リイナが老いて死ぬまででいいんだ。君が知ったことは、君の中だけに留めておいてくれないかい? 君はただ眠っていてくれるだけでいいんだ」

 リイナのために、と囁くアンドロイドの、リイナの耳朶を覆う掌に触れて、引き剥がす。

 アンドロイドとリイナが、驚いたように瞬いた。かまわず、声を張る。

「お前たちアンドロイドは、リイナを自分たちのために閉じこめておきたいだけなんだ。自分たちが寂しいから、人間たちが次々と死んでいくのを見送るしかないから、生きた人間を傍に置いておきたいだけなんだ」

「エフセイ?」不安顔で、リイナはオレとアンドロイドを見比べる。「怒ってるの?」

「怒ってないよ」と押し殺した声音が、アンドロイドとの二重奏になった。舌打ちしたい気分で、でもそれどころじゃないオレはタッチパネルに指を踊らせる。

 この船のメインコンピュータの、膨大な航行記録から迷子になった日を探し出す。

「無駄だよ、エフセイ」アンドロイドは冷淡に言う。「僕たちだって新惑星を探したんだ。君たちが眠っている間もずっと、気が遠くなるくらい探したんだ」

 オレはメインコンピュータから、各アンドロイドたちの補助脳へとアクセスする。

 不安、が押し寄せた。アンドロイドたちが持つはずのない感情が、二進数の海にあふれている。不安、後悔、孤独感。――さみしい。

 半冷凍睡眠管理室の監視カメラを覗く。無数のカプセルに流れ作業で触れながら、どのアンドロイドも死体みたいに眠る人間たちに必死に言葉をかけている。

 笑顔を見せているアンドロイドもいた。表情筋が壊れたように仏頂面の個体もいる。それでもみんな救いを求めるように、丁寧に優しく人間の肌に触れていた。

 妹の小さな手が脳裏をよぎる。オレの掌にすっぽりとおさまる柔らかい子供の手だ。汚れきった地球に置いてきた、オレの妹だ。

 妹もよく、小さな手を必死に伸ばしてオレの指先を、服の裾を、そして母の手を、縋るようにつかんでいた。あれは不安からくる行動だったのだろうか。妹は、寂しかったのだろうか。オレは、隣にいながらプログラムばかり見ていた。妹の気持などわかろうともしなかった。

 エフセイ、と舌足らずな妹に呼ばれた気がした。

 オレはアンドロイドたちの意識から浮上する。二度と起きることのない眠りに就いた人間の柩の前で、冷たい眠りに囚われることのない女の子がオレを見詰めている。眠ることも死ぬこともないアンドロイドが、完成された大人の体で佇んでいる。

 この船は、二度と大地を踏めない。

「クドリャフカ」とオレは無我にこの船の名を呼ぶ。

 人類史上初めて、宇宙の衛星軌道を飛んだ犬の名前だ。宇宙に到達し、宇宙への恐怖に耐えきれず死した犬は、けれど初めから地球へ帰還させることなく薬殺されることが決まっていたらしい。

 同じ名を冠したこの宇宙船は今、その犬の末路を追おうとしている。オレたちは船の中で朽ちて、いずれはどこかの惑星に引き寄せられるまま燃え尽きるのだろう。

 この船は、生者を満載した柩だ。

 そのとき、オレはある可能性にたどり着く。オレの手の先でオレの端末と化している柩を、強く意識する。

 この船を支配するメインコンピュータは新惑星を見失ってしまった。けれど、人間たちが眠る半冷凍睡眠カプセルはどうだろう。あれは非常時には単独で宇宙に放出され、自力で新惑星への航路をとる。そのための独立したコンピュータを搭載していたはずだ。

 オレは素早くメインコンピュータにアクセスする。その中枢に、最優先で割り込む。

 ――生命維持機能に異常が発生。船員の退避を……。

 要請しようとして、できなかった。プログラムが硬直する。

「エフセイ」アンドロイドの肉声が、オレを咎める。「たいていのことは見逃してきた。けれど、人間たちの命を危うくする行為は、許せないよ」

「どっちが、人間を危機に晒してるんだ」

「君は、自分の感情だけで動いている」

「お前たちだってそうだろ!」

「僕たちは、君たちもリイナも心穏やかにいられる方法を選択しているにすぎない」

「嘘だ」

 断言すると同時に、オレは指を走らせる。勝手知ったるプログラムの迷宮を抜けて、船の外壁に設置されている姿勢認識センサに介入する。

 メインコンピュータが船外に重力を、そして人間が生存可能な大気と気温を、感知した。オレが、そう誤認させた。それで十分だった。

 レフが無表情を通り越して頬を弛緩させる。表情筋を制御している余裕がなくなったんだろう。オレと競うように外部環境の誤認を修正していく。

 でも遅い。そちらは囮だ。

 オレはその隙をついて、船内の人工重力をオフにする。

 背筋がぞわりとした。地球で受けた無重力訓練以来の感覚だ。体中の血が流れるべき方向を見失う。

 とん、とリイナの体が踊った。浮き上がったと思えば、両足をそろえてきれいな宙返りをする。腕にクマのぬいぐるみを抱いた不安定な姿勢で、それでもリイナは水を得た魚のように美しく泳ぐ。

 彼女は宇宙生まれの、人魚姫だ。

 とっさにその手を取った。いや、縋った。不格好に体をくねらせながら四肢を振り回して、オレは辛うじてつま先で柩を蹴る。

 オレから解放されたプログラムを取り戻すことに必死なのか、レフは体を弛緩させたまま漂っていた。

 好機を逃すまいとオレはリイナの手を引いて、安置予備室の扉から廊下へ泳ぐ。

 察したリイナが鮮やかな体さばきでオレを抜き去って、逆にオレを導いてくれる。

 そのとき、船内にけたたましいサイレンが響きわたった。

 電子合成音が女性の声で警告を発する。

 ――船体に重大な異常が発生しました。船員は直ちに退避準備をしてください。繰り返します。

 船内気温急激に下がっていく。気圧計が揺らいでいる。構わず、オレはリイナの力を借りながら自分の睡眠カプセルを目指す。

「一緒にいこう!」オレは長い廊下の先を見据えたまま叫ぶ。「連れてってあげる。新しい惑星で、君が知らない土の上で、暮らすんだよ。一緒に、アンドロイド抜きで!」

 喉を刺した乾いた空気に、むせた。それでも無重力状態の廊下はオレの体を運んでくれる。

 背中でリイナがなにか答えた。聞こえない。弱々しい声は、まるで妹みたいだ。

 オレは強く握ったリイナの、柔らかい皮膚の感触を確かめる。小さくて細くて、オレが守ってあげなきゃいけない、女の子の手だ。

「オレは、王子さまなんだから」

 そうだろ、母さん、と呟いて、オレは自分の睡眠カプセルに飛び込む。足首につなぐ体液循環管は、無視する。だって一人分しかない。リイナが眠れないのなら、オレだって眠らない。半冷凍睡眠状態でなくとも、カプセル内は生存可能な環境を適切に選択し、保ってくれる。

 リイナを抱き込んで、カプセル内に倒れ込む。

「一緒に行こう!」

 視界の端に、慌てたようすのレフが飛び込んでくるのが引っかかった。

 いつもの冷笑じゃない。ひきつった顔には恐怖に近い感情が滲んでいる。

 なんだ、オレの管理担当アンドロイドにもそんな情動プログラムが存在していたのか、とオレは唇の端をつり上げて、分厚いガラス蓋を閉ざす。

 レフが、眉を寄せた。憤りが一瞬、それもすぐに凪いでいく。

 アンドロイドらしくない微笑を浮かべて、レフが囁く。

「さよなら、僕らの歌姫」

 声は聞こえなかった。それで十分だ。オレはリイナと二人きりのカプセルで、この船を出る。はずだったのに。

 ガラス蓋が軋んだ。

 口を閉ざし損ねたカプセルから白いヒレが、逃げていく。――無重力を泳ぐ、リイナの足だ。

 がさがさに乾いた毛皮だけが、オレの腕に残される。リイナがいつも抱いていたクマが、なぜかオレに寄り添っている。

 ドレスの裾をひらめかせて宙を泳いだリイナが、くるりと反転する。

 がこん、とカプセルのガラス蓋が噛み合った。オレとリイナの間に、分厚い隔たりが下ろされる。

「どうして……」

「テッドを」リイナの掌が、冷たいガラス越しにオレの手に重なる。「お願い。土を見せてあげて」

「どうして!」

 狭いカプセルに、オレの声だけが吸い込まれていく。

 集音マイクのざらついた不協和音がリイナの声を濁していた。

「テッドの身体の中にいるのがテッドじゃないって、わたし、気づいてたの。だから」

 リイナはオレを、オレの手元に残されたクマのぬいぐるみを見つめたまま、遠ざかる。無重力の海に、リイナが沈んでいく。

「ここで、お別れ」とリイナの唇が残酷に動いた。彼女はもう、集音マイクが音を拾える範囲から出てしまっている。

 オレが作り出した無重力を泳いで、リイナがアンドロイドの元へと還っていく。

 クマのぬいぐるみが痙攣した。目玉をぐるぐると回して、その四肢の先に装備した長く鋭い三本爪を順にはためかせて、クマが生き返る。

「わたしは」とクマが小さな牙を覗かせながら、リイナの声で言う。「テッドさえいればよかったの。わたしに人魚のお話をしてくれた、あのテッドと一緒がよかったの」

「オレは、君さえいればいいんだ!」

「でもテッドはわたしをこの船に乗せて、いっちゃった」

「オレはどこにもいかない! 一緒にいる。一緒にいこう」

 そのために、この異常を演出したんだ。彼女をアンドロイドから取り返すために、彼女を今度こそこの倉庫から連れ出すために――倉庫?

 オレは緩く湾曲したガラス越しの世界を見回す。白い電光と清潔な壁と、管理された温かい部屋がオレたちを包んでいる。

 ふわふわと泳ぐリイナを、しっかりと床に立つアンドロイドが――レフが、受け止めた。靴底に仕込んだ磁力板で廊下を踏んでいるのだろう。

 柔らかくリイナを引き下ろし、レフは笑う。嬉しそうに安堵したように、オレには見せたことのない顔で、アンドロイドはリイナに寄り添っていた。

「エフセイ」と、クマがリイナの声を発する。きっとレフの聴覚と船内ネットワークをつなげているのだ。

「わたしは、ここでいいの。ここが、わたしの居場所なの。テッドが、わたしのためにレフを連れてきてくれた。だからレフこそが、わたしを導いてくれる犬なの。だから」

 ごめんね、とリイナは手を振る。

 オレのカプセルが、動きだそうとしていた。カプセル内に警告文が点滅している。早く半冷凍睡眠状態に入れと急かしてくる。

 クマのぬいぐるみが不便そうな三爪でもって、器用にオレの足首に体液循環用の管を差し込んだ。

 オレとの接続を認識したカプセルの固定が外れる。床に張られた電磁誘導レーンに従ってオレは、オレだけが、宇宙への道を滑りだす。

 ガラス蓋に打ちつけた拳は、たやすく弾かれた。するすると、過去の幻みたいにリイナが遠ざかっていく。

 こんな結果を望んだわけじゃないのに、リイナのもとにアンドロイドを残して、人間であるオレだけがこの船から追い出される。

 声の限り叫ぶ。でも、自分が呼んでいるのがリイナなのか妹なのか、もうわからない。

 体中が骨の芯から冷えて、強烈な眠気が首筋辺りから這い上がってくるのがわかる。クマの爪が肌を刺す感覚を追って、なんとか意識を保つ。注ぎ込まれる冷えた体液に抗う。抗っている、つもりでいた。

 でも本当は、全部夢の中でのできごとだったのかもしれない。


 気がつけば、漆黒が広がっていた。銀に輝くカプセルたちがオレの周りを囲んでいる。捕食者を恐れる小魚の群みたいだ。もっとも、そんなものはおとぎ話の挿絵でしか見たことがない。

 頭上を、巨大なクジラが泳いでいた。緩い螺旋上に身を捻らせながら進む宇宙船だ。ぐるりを彩る無数の窓から、アンドロイドたちがオレたちを見下ろしていた。

 その中に、寄り添う二人を見つける。

 リイナと、レフだ。明るい光に満ちた箱船に、ただ一人残された人間の女の子。オレが守れなかった女の子。アンドロイドとともに永遠の宇宙をさまようことを選んだ、オレの妹。

 どうしてこんなことになったんだろう、と思いながら、同時に、これでよかったのかもしれない、とも思う。

 地球で生まれた妹は、最期まで母と一緒にいた。滅ぶ地球の大地に、母と二人で身を埋めた。

 だからリイナも、宇宙で生まれた人間の少女も、宇宙で散っていた彼女の家族と一緒にいることを選んだのかもしれない。

 オレだけが、還る場所も迎えてくれる人もない、迷子だった。

 低く、囁きがオレに寄り添っている。歌声だ。たどたどしく旋律を奏でているのは、クマのぬいぐるみだった。

 リイナが連れていた、彼女の王子さま。

「どうして、お前はここにいるんだろうな」自嘲に近い抑揚で呟く。「どうしてリイナは、お前をオレのところに寄越したんだろうな」

 宇宙から切り取ったような瞳にオレを映して、クマは歌うだけだ。

 優しくて、それ以上に悲しい声だった。

 いつだったか、ひどく遠い昔に同じ歌を聞いたように思う。ニカを見送ったときかもしれない。もっと昔、妹と手をつないで眠る寸前だっただろうか。

 いや、もっともっと古い記憶だ。

 母が、まだプログラムの欠片だって知り得ない赤ん坊のオレを抱いて、歌っていた曲だ。眠れねむれ、と思考だけでなく呼吸すら止めてしまえそうな柔らかさで編まれた、子守歌だ。

 オレは母の服を握っている。その指の一本ずつを開いて、母はオレの掌の中に自分の手を滑り込ませてくれる。

 眠れ、と母はオレのために祈ってくれる。目が覚めたらすべてが叶うから、眠っている間にイヤなことはすべて終ってしまうから、深くふかく、眠ればいいよ、と。

 そうだね、と頷いて、オレは冷たい夢の気配に身を任せる。

 髪を撫でてくれる母の指が妙に硬い気もしたけれど、たぶん気のせいだ。だって、眠っていればイヤなことは全部、過ぎ去るはずなんだから。


                            ――誰かの声

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