第5話 ハジマリの星〈前〉

 ごごん、と頭の中で低い金属音が轟いて、目が覚めた。それが頭痛だと理解するまでに二呼吸もかかる。多重に響く金属音が脳内を巡る血流に唱和して激しさを増していく。

 風邪をひいたのかもしれない、と額に手をあてる。瞼越しの自分の影が、やけに濃い。

 いつかの夏の日、空調の壊れた研究室で熱中症を起こしたことを思い出す。うなされるわたしを悪夢から引きあげてくれたのは、センセの大きな掌だった。

 だから今日も、センセがわたしを起してくれるんじゃないかと心のどこかで期待して、手を伸ばす。

 でも、わたしの手は冷たく硬い板に阻まれた。頭が痛くて、息苦しくて、肘すら満足に伸ばせない狭い空間でのたうち回る。

 どうして誰も来てくれないんだろう、と思ってから、どうして誰かが来てくれるなんて思ったんだろう、とも考える。だって、わたしにはもう家族なんていない。とうの昔に地球の土の下に埋められている。

 ――地球? ああ、そうだ。わたしは地球を発って、宇宙の彼方に浮かぶ惑星を目指す旅に出たんだった。

 ならここは宇宙船の、半冷凍睡眠用カプセルの中だろう。新惑星に着いて解凍されている真っ最中なのかもしれない。

 それにしたって、こんなに頭痛がするものだろうか? 事前の短期冷凍睡眠体験では少しの寒気と喉の渇きくらいしか症状がでなかったのに。こういう場合はどうするんだっけ?

 苦痛よりも恐怖に追い立てられて闇雲に自分の体をたどっていた指が、柔らかいものに触れた。

 腰に吊した、トラのぬいぐるみだ。小学校への入学を控えた弟へのプレゼントに、とわたしが作ったストラップだ。もっとも、このトラを渡す前に、弟は地下都市へと流れ込んだ土砂に呑まれて死んでしまった。

 だからこのトラはずっと、わたしの忠実な従者だ。

 トラを握り締めて、わたしはようやく瞼を持ち上げる。白だ。まばゆい光が容赦なくわたしを焼いている。宇宙船の人工灯にしては明るすぎた。半冷凍睡眠を管理するアンドロイドが光量設定を間違えるとは思えないから、ひょっとしたら窓から入って来る新惑星の太陽光かもしれない。

 両腕を顔の前にかざして、自分の輪郭からこぼれる光の中にわたしが置かれた世界の断片を探す。

 赤い光が帯になって流れていた。寝惚け眼を瞬かせてみれば、赤い帯は文字の羅列へと変じていく。

 わたしの顔の真上、わずかに湾曲したガラス面を這うのは、警告文だ。

 内容を理解するよりも早く、体が動いた。何度も繰り返してきた訓練の通り、体の脇に設置されている緊急ボタンのカバーをめくって、三つ並んだそれを同時に押し込む。

 ひん、と空気が漏れる鋭い音がした。わたしを守る密閉カプセルの一番外側、第一層のガラス蓋が外気を取り込んだ音だ。宇宙でならば真空中の微粒子を探索し、カプセルが大気中にあるならば成分を把握し、コンピュータが最適行動を提案してくれるはずだった。

 宇宙船に異常が出た場合には脱出カプセルにもなるこの半冷凍睡眠用カプセルは、三層構造のガラス蓋を持っている。緊急ボタンを押してもわたしが解放されるまでにはいくつかの手順があって、決して間をすっ飛ばしたりはできない。焦ってカプセルから出ようものなら、呼吸ができなかったり有害な大気に肺を焼かれたりして死体になってしまう可能性が高いからだ。

 宇宙旅行というのは、ほくそ笑む死神を傍らに歩める者にしか向いていない。

 優秀な安全装置は、けれど警告文に急かされている今となってはもどかしい。目が眩むほどひどい頭痛のせいで、カプセルが開いた先が真空でもいいから、とにかく解放してくれという気分になる。

 攻撃的な警告文の下に、外気が無害であることを示す緑色の文字が浮かんだ。即座に三つ並んだボタンの両端二つを押し込む。

 ここにきて、わたしはようやく警告文の内容を理解した。曰く、カプセル内の二酸化炭素濃度が危険域に達しかけている。頭痛はこのせいだ。問題はカプセルの外ではなく内にあったらしい。

 つまり、とわたしはガラス蓋の第二層が白く煙るのを睨みながら考える。ちなみにガラスが曇ったのはトラブルではなく、カプセルの外圧と内圧を調整する際に生じた水蒸気のせいだ。

 つまり、このカプセルは酸素供給を断たれ、宇宙船から切り離されている。だからといって宇宙空間を漂っているわけでもない。宇宙空間を彷徨っているのならば、宇宙線を糧に発電が行われ、半永久的に生存環境が保たれるはずだ。

 二酸化炭素濃度があがったということはカプセル自体が壊れたか、――どこかの惑星に不時着したか、だ。

 分厚いガラス蓋の第三層が緩む気配を感じて、わたしは慌てて自らの格好を確かめる。

 灰色の、雨をたっぷり蓄えた雲に似た宇宙服を着ている。でも船外活動用じゃない。

 もしわたしを焼くこの光が強すぎたら、と顔の前に再び両腕を掲げてみる。日除けとしては頼りない細さだ。ここが宇宙船の中でないことは確かだった。目的地に辿り着けていたのならばまだしも、万が一にも他の惑星に漂着していた場合、光線の波長によってはカプセルのガラス蓋が開いた瞬間わたしは火ぶくれだらけになり、ほどなく焼き殺される。

 口の中が乾いて、粘った。食いしばった歯の隙間から、浅くて早い呼吸が勝手に漏れていく。「センセ」と縋る声だって音にはならない。

 耳の奥がぼわんと鈍った。わたしを守る殻が、その密閉空間が、解けていく。

 きつく目を閉じて、力を込めすぎて痛む眼底で明滅する光に、現実を満たす明るさへの恐怖心を溶かす。でも溶かしきれずに、体が震える。

 センセ、と祈った。

 答えたのは、風だ。ごう、と渦巻く強風に煽られてカプセルが揺らぐ。とっさにカプセルの縁を両手でつかんで飛び起きた。

 その拍子に、カプセルが横転する。投げ出された体を受け止めてくれる大地は、なかった。体を支えようと出した掌が沈んで、頭から飲み込まれる。

 ――水だ。一面の、大量の水。

 どうして、と思う間もない。手足をバタつかせて浮上を試みる。でも重たい。肌と宇宙服の間に水が滑り込んで、鉛みたいにわたしを締めあげる。

 宇宙服を脱がなきゃ、とわかっているのに、焦りばかりがつのってジッパーがうまくつかめない。宇宙服とひとつなぎになった手袋まで侵入した水が、指の関節を固めていく。

 ようやく拳くらいに大きいジッパーをとらえて、一息に引き下げる。皮を脱ぎ捨てるように、水になじんだ宇宙服がわたしの体を滑り落ちていく。

 その腰に、トラがまだくくりつけられたままだった。

 慌てて手を伸ばす。細かい気泡が湧きあがって視界を覆っていく。宇宙服の端が指先をすり抜けた。

 その刹那、なにかが鼻先に触れた。ゆうらりと漂う繊維のようなものが、わたしの喉に絡みつく。

 灰色の、人の顔だった。水死体だ、と瞬間的に悟る。融け落ちた瞼の下から、縦に長い瞳孔がいやに確かな眼差しでもってわたしを観察している。そして、こけた頬をひきつらせて、にたりと笑った。

 ごぼん、と鼻の奥で空気が潰れる音がした。

 しまった、と思う間もない。眉間の奥に釘を打ち込まれたような激痛が走る。驚きのあまり水を吸い込んでしまったのだ。

 お姉ちゃん、と弟の声がした。地球の雨に呑まれた弟が、死の間際に発した声だろうか。

 わたしの周りを楽しげに水死体が泳ぐ。色素の抜けた髪の隙間から、トラのストラップが沈んでいくのが見えた。×印に刺繍されたトラの目は、虚ろに水底を彷徨っている。

 弟の名を呼んだ。でもひょっとしたら、薄情なわたしが求めたのは、センセだったのかもしれない。


   ◆ ◆ ◆


 センセは、わたしが失語症になったときにお世話になったお医者さんの、教え子だった。

 まだ、わたしが地球の地下都市に暮らしていたころの話だ。汚染されきった地表を洗うためなのか、やけに豪雨が続いたことがあった。

 その日は小学校への入学を心待ちにしていた弟の五歳の誕生日で、弟は四か月も前からずっと「ランドセルを買ってもらうんだ」と言っていた。だから、わたしと弟を車の後部座席に乗せた両親が三区画先のデパートを目指したのも、当然の成行きだった。

 当時、地表と地下都市を隔てる隔壁は核爆発にだって耐えられる絶対に安全なものだと信じられていたから、地表の天気を調べるなんて考えもつかなかった。

 でも残念ながら、地表に溢れた雨は隔壁の弱いところを見付け出してしまった。手抜き工事だか老朽化だかでできていた細いヒビに殺到した水は、あっというまに隔壁を突き破って地下都市の区画と区画とをつなぐ連結トンネルになだれ込んだ。

 不運にも、わたしたちの車だけが、そこにいた。

 地表から注がれる土砂と木々に押し流されたわたしたちの車はそのまま棺桶になって、わたし以外の全員が死んでしまった。

 一人生き残ったわたしはといえば、それから何年も声の出し方を思い出せずにいたのだ。心に負った傷が原因だ、とセンセの先生は診断してくれたけれど、肝心のわたしにはわたし自身の心の傷なんてものは見えていなかったし、治し方だってわからなかった。

 そんなとき、わたしはセンセと出逢ったのだ。

 当時、家族を喪い声も失ったわたしを、誰もが腫物みたいに扱っていた。そんな中でセンセが語ってくれた、容赦のない昔話はひどくわたしの心を抉ってくれた。

 ――人間が宇宙へ行っても大丈夫なのかを確かめるために、たった一匹で打ち上げられた寂しい犬の話だ。

 狭いケージに入れられて、人類史上初めて地球の衛星軌道を漂った犬は、宇宙に到達して数日後に死ぬことが定められていた。死ぬためだけにロケットに乗って、地球を見下ろすはずだった犬。

 たぶん、わたしはケージに閉じ込められた犬に自分を重ねたんだろう。

 哀れな犬の運命に涙したわたしは、それをきっかけに声を取り戻した。


 以来、センセはわたしの全てになった。

 もっともセンセはわたしより十七歳も上で、センセにとってわたしは恩師の患者にすぎなかったのかもしれない。それでもわたしにとっては間違いなく、全てだった。

 だからこそ、わたしは気づいたのだ。気付いてしまったのだ。

 センセとの十七歳の差はどう足掻いても縮められない。わたしは永遠にセンセより十七歳も下の小娘であり続ける。センセがわたしを対等に扱ってくれることなんてないのだ、と。

 臆病なわたしは想いを告げる前に勝手に失恋した気になって、センセから逃げるように新惑星への調査隊に志願した。

 わたしが新惑星へ往って、地球へ還ってくるまでの三十年間。地球で待つセンセは老いて萎びて、きっとわたしのことなんか忘れてしまうはずだ。

 わたしだって、センセと離れてすごすのは体感にしてたった数ヶ月だけど、それだけあればじゅうぶん気持の整理がつくはずだった。宇宙旅行に向けての厳しい訓練を地球で受けたりもするから、実際にセンセと逢えない時間はもっと延びるかもしれない。

 光を超える速度で宇宙空間を突き進む宇宙船の中で、わたしは年をとらない。

 わたしは十七歳のままの地球に降り立ち、六十歳を越えたセンセと再会するのだ。

 若々しいわたしと死に近付いたセンセの距離は、決定的にわたしを打ちのめしてくれるはずだ。もうセンセを自分の全てとして一緒に生きることは叶わないのだ、と目の当たりにする。

 そこまでしてようやく、わたしはセンセから、報われることのない不毛な恋から解放される。

 そのはずだった、のに――。


   ◆ ◆ ◆

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