ハジマリの星〈中〉

 頭の奥が鈍く痛んで、わたしはぼんやりと目を開ける。

 頬を打つ水音はたぷたぷと平和で、首から下は冷たく痺れている。降り注ぐ太陽光が弱いせいだ。

 不時着だ、と絶望的な気分で瞬きを繰り返す。カプセルは水の上に浮いていた。つまり、宇宙船から排出されたということだ。乗員がカプセルごと脱出するなんて、宇宙船によっぽどのトラブルが起きたに違いない。

 仲間は、どこだろう。わたしのカプセルだけが排出されたとは考えられない。カプセルが単独で宇宙船を離れるのは、カプセル内の人間が死亡したときだけだ。

 わたしは水に頬をすりつけるように視線を巡らせる。

 茶色い大地とくすんだ灰色の岩と、ところどころに盛られた緑の植物群。宇宙船や仲間のカプセルは見当たらない。

 でも、とわたしは少しの安堵を覚えて息を吐く。

 調査通りだ。人間が生身で生命活動を維持できる大気と大地が備わっている。わたしたちの宇宙船が目指していたRD2新惑星そのものの光景だ。宇宙船から排出されるというトラブルはあったものの、無事に目的地に到着したのだ。

 いや、と瞬間的に背筋が冷えた。拍動が凍る。おかしい、違和感がある。事前調査の資料と、なにかが違う。

 わたしは腕を突っ張って、体を少しだけもたげる。髪から鼻先から滴った水が岸辺に波紋を広げていく。

 わたしたちが目指していたRD2新惑星の空の下には、湖などない。あるのは分厚い岩盤の下に潜む、地底湖だけだ。にもかかわらず、わたしの体は今、冷たい水に洗われている。

 じゃあ、ここはどこだというのだろう。

 頭の中が真っ白になって、同時に熱を帯びてくる。働きすぎたコンピュータみたいだ。思考を巡らせる速度がどんどん落ちていくのがわかる。

 腕が震えて体を支えていられない。崩れるように頬を水に落とした。眼に泥が入ったのか、涙と洟がいっしょくたに流れてきた。

 たぶんわたしたちの船は、行程の途中で別の惑星への不時着を余儀なくされたのだろう。RD2以外に居住可能な惑星があったなんて、と驚きながら、でもこの大きな発見を誰にも伝えられないことも、どこかで覚悟していた。

 だって、わたしは一人で、ここに横たわっている。周囲には仲間のカプセルも見当たらない。もちろん、母船である宇宙船の残骸だってない。母船から排出されたカプセルは自動的に救難信号を発するはずだ。それなのに、誰もわたしを助けにきてくれていない。母船とはぐれてしまったのか、母船自体が地表に激突してしまって身動きがとれないのか。どちらにしろ、身一つのわたしは地球へ戻る術を持たない。

 これは罰だろうか、と酸欠気味の頭でぼんやりと考える。叶わない恋ごとセンセを地球へ置き去りにした、身勝手なわたしへの罰だ。

 そんなはずない、とすぐに否定して、少しだけ笑う。

 だってセンセは、わたしがいなくなっても悲しんだりはしない。研究室にずかずかと入り込んでくる小娘が消えて、せいせいしているかもしれない。

 そんな自虐的な想像をしかけたとき、水音にまじる奇妙なさえずりに気がついた。

 きょろきょろ、ひょろひょろ、と小学校の授業で作った水笛を少し高くしたような音だ。水を飲んだせいでまだ鼻の奥から脳の中心にかけての痛みが引かないわたしの耳には、痛く刺さる。

 危機感よりも好奇心から首をもたげて音源を捜しかけて、思わず硬直した。

 水面から、灰色の腕が無数に生えていた。例の水死体の群れだ。溺れたわたしの鼻先に現れた無惨な容貌を思い出して、それがみっしりと沈んだ水底を想像してしまう。吐き気が喉を突きぬけて、でも半冷凍睡眠から解放されたばかりのわたしが吐けるものなどなく、おくびだけが出た。

 ふやけた水死体の死臭が自分を包んでいるような気がして鼻を鳴らしたとき、わたしは気づく。腐臭がしないことに、じゃない。水死体の灰色の腕が、元気に動き回っていることに、気がついた。

 どれもが活発に、はしゃぎまわる子供のように生きいきと、虹色に輝く非常食のパックだの医療キットだのを投げあっている。わたしの緊急脱出カプセルに備え付けられていたものだ。それを奪われた。いや、奪ったにしては扱いがぞんざいすぎる。おそらく水死体もどきは、あれがなにかを理解していない。

 わたしは息を殺して、水面と同化するように姿勢を低くして、水死体もどきの腕を観察する。

 人に近しい五指の間で膜がひらめき、針のように尖った爪が指先から伸びていた。腕を覆う灰色の皮膚はぬめっているようで、まぶしいくらい太陽光を反射している。

 鱗が見あたらないから魚類でもは虫類でもなく、たぶん両生類だろう。でも、地球での生物分類を当てはめられるのだろうか。

なにしろ相手は異星人だ、と考えてから、現状での異星人はわたしのほうか、と失笑しそうになった。極度の混乱状態でうまく感情がコントロールできなくなりつつあるようだ。その危うさを自覚できる冷静さを手放さないように、いろんな疑問で気を紛らわせようと試みる。それすら体をひたす水温も相まって恐怖に収束しようとしていた。

 じりじりと、水の中でわたしの荷物を弄んでいる生物たちに気づかれないように、腕でにじって岸へと這い上がる。

 はずだったけれど、灰色の腕の一本が振り回しているものを認めた瞬間、反射的に飛び起きてしまった。わたしが脱ぎ捨てた、宇宙服だ。

「返して!」

 叱られた子供が逃げるように、いっせいに腕が引っ込んだ。もちろん腕が捕まえてい宇宙服も水中に引きずり込まれる。攻撃的に陽光を反射する水面の下を、人より少しばかり大きな影が沖へと滑っていくのが見えた。

 急に放り出されて所在なさげに浮かぶ医療キットや手袋をかき分けて、「返して!」と灰色の生き物の残像を追いかける。

「ほかは全部あげるから、それは返して!」

 水面はもう、静けさを取り戻していた。灰色の腕はおろか、影すらない。散乱した脱出カプセルの荷物だけが漂っている。まるではじめから、ここにはわたしいなかったようだ。

「返して」と懇願するわたしの声だけが、風音めいて空しく渡る。

 どうしてこんなことになったんだろう、とわたしは腰まで浸す水を握り締める。指の間をすり抜ける冷たさが、センセと別れたあの地下都市の気温と同じだ。

 センセを諦める代償は、こんなにも大きいものなのだろうか。こんなことならばセンセに想いを告げて、振られておけばよかった。そうすれば、ひょっとしたら今も、歳の離れた妹のような顔をしてセンセの傍にいられたかもしれないのに。

 苛立ちが募っていく。臆病に逃げ出した過去の自分に向けた感情は消し去るには強すぎて、わたしは感情のままに流れてきた医療キットを掴んで、水面に叩きつける。顔に水が跳ねた。波紋が灰色の生物たちを追いたそうに広がって、消えた。そのとき。

「お困りですか?」

 唐突に男とも女ともつかない声がした。思わずまじまじと水面を覗きこむ。灰色の生き物が戻って来てくれたのかという期待は、容易く霧散した。

 澄んだ水の中にはボクサーパンツから伸びたわたし自身の足だけが寂しく生えている。魚の一匹だって見あたらない。

 幻聴か、と嘆息したとき、「彼らは」とまた、声がした。

「照れ屋ではありますが、良き隣人ですよ」

 ゆっくりと、周りを見回す。一面の水のずいぶん先に、転覆したわたしの脱出カプセルらしきものが浮かんでいた。緊急通信システムが内蔵されていたはずだけど、とうてい声なんて届かない距離だ。あの灰色の生物の正体がわからないうちは、泳いでいくのも危険だろう。

 素足の踵でぬるっとした泥の感触を削りながら、振り返る。灰色の、粒子の小さな砂が堆積した大地が広がっていた。ところどころに覗く岩肌と頼りなく揺らぐ草が、場違いに牧歌的な雰囲気を醸している。

 豊かな大地と湖の境に、ぬいぐるみが転がっていた。人のすねほどの背丈の、ずんぐりとしたテディ・ベアだ。脱出カプセルから投げ出された、誰かの持ち物だろう。ぬいぐるみが喋るはずもないから、わたしは幻聴をきくほど切羽詰まっている、ということだ。

 自分の精神状態を分析することで正気を保とうと努力しつつ、わたしは広々とした湖に背を向けて、テディ・ベアの待つ岸へと戻る。

 少なくとも、わたし以外の誰かが――ぬいぐるみの持ち主が、この惑星に到達しているのだ。それが死者か生者かはともかく、わたしは一人ではない。灰色の生物から宇宙服を取り戻すための知恵が借りられるかもしれない。

 脚にまとわりつく水が地球のそれよりも重たく感ずるのは、長い宇宙旅行で衰えた筋力のせいだけではないだろう。

 たぶん水の成分が、もしくは比重やこの惑星を覆う大気の重みが、違うのだ。

 風が砂を巻き上げているのか、すぐに濡れた体のあちこちがざらざらとしてきた。気持ち悪い。

 両掌を擦り合わせて違和感を削ってから、転がっているテディ・ベアを片手で抱き上げる。はずだったのに、びくともしなかった。

「え?」と間抜けな声が漏れる。ぬいぐるみの両脇に手を入れて再び挑戦してみたけれど、あまりの重たさに危うく腰の筋を違えそうになった。

「なにこれ」

 鉛でも入ってるの? と呟いたわたしを、テディ・ベアの黒い瞳が捉える。ぐん、と眼球を動かして、そのぬいぐるみは意志を持って、わたしを見た。

 悲鳴にならない声が変なところに入った。むせながらも必死で後退り、水に足をとられて尻餅をつく。

 わたしに投げ出されたぬいぐるみは、泥に埋もれた姿勢を正そうともせず尖った鼻の下にある口らしき部位を、かぱっと開けた。

「こんにちは」なめらかな、けれど妙な訛がある共通語が流れ出る。「僕の体はテッド、中身はイサイと呼ばれていた『クドリャフカ号』の半冷凍睡眠管理アンドロイドの人工知能です。」

 クドリャフカ号? 人工知能? と水の中に座り込んだままオウム返しに呟く。

 クドリャフカという名は耳にしたことがある。地球の衛星軌道に人類に先駆けて送られた初めての生物、犬の名前だ。ライカと呼ばれていたとする説もあるし、わたしにとっては後者のほうが馴染み深かった。

 無意識に、胸元を探っていた。地球にいたころはいつも、首からライカという種類のカメラを提げていたからだ。でもあれは地球に、センセに、残してきた。万が一わたしが帰還できなかったとき、センセがわたしを忘れてしまわないように、呪をかけて置いてきた。

 だからこうして、わたしは今、罰を受けようとしている。

 カメラの幻影ごと拳を握って、わたしはテッドだかイサイだかと名乗ったぬいぐるみを睨み下ろす。

 確かに、わたしの宇宙船にも人工知能は搭載されていた。アンドロイドはまだ実験段階だったけれど、このぬいぐるみの中身が全て機械なのだとすれば異様な重みにも納得がいく。

 それにしたって、これほど流暢に話せる人工知能が、子供に添い寝するぬいぐるみサイズの機体に収まるとは考えにくい。クドリャフカ号という船名からして、わたしとは別の国が開発した人工知能だと見当がつくけれど、尋常ならざる開発力が発揮されたと考えるよりも、これが本体ではなく母船と情報ネットワークでつながれた端末だと考えるほうが妥当だ。

 そう検討をつけて、わたしはぬいぐるみ――便宜上、テッドと呼ぶことにする――を砂の上に座らせてから、カメラが内蔵されているであろうテッドの瞳に自らの眼を近づけた。

 テッドの向こうにいるはずの宇宙船の乗員にも、わたしの網膜が判別できるように瞼を精一杯開いて、ゆっくりと一音ずつ丁寧に自分の所属コードを告げる。

 テディ・ベアの愛らしい外見を最大限に利用した角度で、テッドは小首を傾げた。母船からの回答を待っているのだろう。その数秒が、いやに長く感じた。

「それは……」テッドがおどけたように眼をぐるりと回す。「なにかの暗号ですか?」

「なにかのって……」

「残念ですが、テッドのデータにもイサイのそれにも、該当するものは」

「わたしの!」荒げた声は、すぐに震えに変わる。「わたしの、所属コードよ。わたしはRD2調査隊の、第二部隊。お願い、照会して。きっと登録があるから」

 くまの口が妙な形に歪んだ。笑われたのかもしれない。沈黙が数秒停滞して、「RD2第二調査部隊は」と急に平淡な調子になった電子音声が応える。

「イサイが搭乗していたクドリャフカ号より百三十二年も前に地球を発ち、新惑星の調査を終えて無事に帰還しています」

「……なにを」

 言ってるの? と問うわたしをまた、きょろきょろと水笛めいた鳴き声が遮った。

 はっと湖を振り返る。腕はない。かわりに水面を切り裂くヒレが翻っていた。

「ああ」テッドが、無感動な電子音声を出す。「戻ってきてくれましたね。彼らに、なにか盗られたのですか?」

 そうだ、取り返さなきゃ、と波打ち際に踏み出した一歩を、つかまれた。素足に食い込んだ硬質な感触を見下ろせば、可愛らしい外見に不釣り合いな大きく鋭いテッドの三本爪が、わたしの足首を挟んでいる。

「彼らは繊細なので刺激しないように、ゆっくりと動いてください。声も抑えて。彼らがなにかを持っていってしまったのならそれは、好奇心からの行為です。どうか責めないであげてください」

「責めたりしないから、返して!」

 テッドにとも、水中の生物にともつかない叫びを放つ。

 水面が弾けた。蜘蛛の子を散らすがごとく灰色のヒレが水中に沈んだ。波紋だけがこちらを窺うように絶え間なく広がっていく。呆れたようなテッドのため息も聞こえた。それでもわたしは、どうしてもあれをなくすわけにはいかない。

 地球への帰還が怪しくなった今となっては、あれだけがわたしに地球の存在を――地球で喪った家族を、思い出させてくれるものなのだから。

「なにを返してほしいのですか?」

「トラよ!」

「トラ? 地球の熱帯地域に生息していた、あの大型のネコのことですか?」

「違う!」

「では……」

「違わないけど!」

「どちらですか?」ふふ、とテッドが呆れたように笑う。「落ち着いてください。大丈夫、僕は決してあなたを見捨てたりしません」

 ぬいぐるみ相手に怒鳴る自分の滑稽さに、かえって冷静さが戻ってきた。素早く息を吸って、高ぶっていた感情を根こそぎ、長く吐き出す。

「トラはトラだけど、これくらいの」親指と人差し指を開いて、拳ほどの大きさを示す。「ぬいぐるみで、わたしの宇宙服の腰についてるの。服はあげるから、トラのぬいぐるみだけは返して。あれしか弟のものは、わたしの家族のものは残ってないの」

「服も必要ですよ。今は大丈夫でも、何日かすれば双子太陽によって肌が焼けただれてしまいます」

 双子太陽、という言葉を強く意識した。

 つまり、ここは調査対象であったRD2に近しい惑星ということだ。同じ双子太陽でも、RD2は保護服が必要ない程度の光線量だと教えられていた。RD2とはどれほど離れているのだろう。電波は届くだろうか。RD2にさえ連絡が取れればきっと、誰かが迎えにきてくれる。

 無意識に手首に触れて、そこにあるべき環境観測デバイスがないことを思い出す。あれも宇宙服と一緒に落としてしまったのだろう。光線量からRD2との距離を割り出せると思ったのに、それも無理そうだ。

 テッドが勢いよく両腕を振って、その反動で腹ばいになった。そのまま四肢をばたばたと動かして這っていく。

 昔観たゾンビ映画にこんな風に人間を襲う死体が出ていたはずだ。三人掛けのソファーに両親と弟とわたしとで身を寄せて、互いの手を握り合って鑑賞した記憶がある。まだ小さかった弟が途中で大泣きしてしまって、結局あの映画の結末はオアズケになったきりだ。

 ゾンビだらけの街に取り残されたあの母子は、果たして無事に人間たちの世界に還れたのだろうか。

「テッド、わたしは」

 還れると思う? と問う言葉を飲み込んだ。そんなわたしを一瞥して、テッドは匍匐で水際に近付いていく。

「少し待っていてください」

「うん」

 ごめん、とどうして謝るのかもわからないまま、呟く。

 ざわめく水に爪先をひたして、寄せては引く波に毛皮を洗われながら、テッドは両腕で上体を起こした。ワニのようだ、と思ったけれど、わたしは本物のワニを見たことがない。でも初等教育で視た『絶滅した動物たち』のなかにいたワニの、ごつごつとした硬そうな体と大きな口はよく覚えている。あの口に挟まれたら首がちょん切れそうだと、怯えたからだ。

 無防備な首筋を撫でたわたしの足元で、テッドが口を開いた。ワニよりずっと小さいけれど、ワニに劣らない尖った牙が上下に生えている。

 単調な開閉を繰り返すだけのぬいぐるみの口から、「ひょろろ」と不似合いなさえずりが流れだした。

 地球に住んでいたころにだって、こんなに繊細な声をきいたことはない。いや、そもそも地球は汚染が進んでいて、さえずるものといえば保護研究所に飼われている鳥か、ホログラムと電子音の組み合わせで表現されたものがほとんどだった。

 本物の鳥もこんな声で鳴くんだろうか、と瞼を下ろして双子太陽の下を舞う鳥を夢想する。水色の、どこまでも続く空と、翻る翼と、雨にも負けない風切羽がRD2を自由に翔けるのだ。

 けれど、わたしの思い描く空はすぐに曇る。白い雲が沸き上がり、灰色からどす黒くなり、大粒の雨が頬を打つ。

 どうどうと大地を洗う雨が川になり、土がこぼれだし、地下都市を守る堅牢な壁を削っていく。そしてわたしの家族を閉じ込めた車ごと、押し流す。

 窓を打つ灰色の濁流を幻視したところで、目を開ける。

 まばゆい白がわたしを包んでいた。乾いた風が吹き渡る。その中に、くまのぬいぐるみが――テッドが立っていた。

 その長い爪の先に、トラのぬいぐるみをひっかけている。

 浅瀬には灰色の人間が打ちあがっていた。いや、人じゃない。人に似た上半身から続くのは、妖艶な曲線を描くヒレだ。強靭な筋肉が窺い知れる力強さで砂雑じりの水をまき散らしては、わたしより大きく太い体を岸へ寄せてくる。

 きょろろろ、とそれが鳴いた。死体めいた灰色の肢体に不似合いな、甲高く涼やかなさえずりだ。それが、腕をのばしてテッドのわき腹をくすぐる。鋭い針に似た爪は、テッドをからかうように毛皮から鼻先から、軽やかに突いていく。翻る灰色の指の間で、半透明で金にも銀にもみえる薄い水掻きがきらめいていた。

「君が求めていたものは、これ?」

 テッドが灰色の腕に支えられながら、わたしへと向き直る。灰色の生物より太く短い、それでもじゅうぶんに尖った爪がトラのぬいぐるみを抓んでいた。

 テッドの動きに同調して、灰色のそれが首をひねった。

 つるんとした頭部が、わたしに向けられた。ぎょろっとした丸い眼に瞼はなく、唇もない。肉食であることを示す小さく尖った歯が整然と二列に並んでいるのが、見えた。頭の後ろ、首筋から生えた長い藻のような繊維が、濡れた身体にへばりついている。

 ――魚人だ。

 そう思ってから、そんな発想にいたった自分の正気を疑う。

 魚人? おとぎ話じゃあるまいし。これは、この惑星で独自の進化を遂げた生物だ。やっぱり、ここはRD2じゃない。あの惑星に、こんな大型生物はいない。事前調査で確認されていたのは、せいぜい微生物くらいだった。大小多数の無人調査機が陸と空からRD2新惑星を舐め回し、その結論に達したのだ。そしてわたしたちの調査隊が派遣された。

 ならばここは、どこだろう。

 思わず自分の、素肌を曝した腕を抱いた。

 ここがRD2でないのなら、水や大気の安全は保障されていない。正体不明の生物が発生していた水が安全だとも思えない。検査キットはどこだっけ?

 湖面に散乱する荷物を探す。大地を見廻す。それらしき影は見当たらない。精密機器を積めた重たいパックは水底に沈んでしまったのかもしれない。

 ひょろろ、と呼ばれて、わたしはのたうつ魚人に視線を落とす。落として、しまう。これは、わたしが地球へ還れないという証明そのものなのに。

 テッドがふらふらと陸へ上がりかけて、べちゃっと顔から転んだ。

 抱き起こそうと湿った土に膝をついた。でも、灰色の腕のほうが早かった。

 片手で軽々とテッドを持ち上げ、水槽からの脱走に成功してしまった魚みたいにぴちぴちと跳ねて、わたしとの距離を詰めてくる。

 反射的に「ありがとう」と口走ってたけれど、得体のしれない魚人相手に言葉が通じるはずもない。それでも魚人は、にい、とのこぎり状の歯を剥いて笑ったようだ。

 魚人は恭しくテッドを差し出す。テッドの爪で揺れるトラのぬいぐるみごと受け取ろうとして、やっぱり重たすぎるテッドを支えきれずにずり落としてしまった。

「すみません」泥に両足を埋めたテッドが、申し訳なさそうに丸い耳の先を垂れる。「テッドの体は無重力環境を想定して造られているので、重力化ではその重量を自身でも支えきれないのです」

 なら、どうしてこの星の肌にいるの? という問いが喉元まであがってきて、すぐに消えた。

 答えは一つしかないし、それはわたしの希望でもある。

「あなたの持ち主は、どこ?」

「リイナは」ぱっとテッドが顔を上げた。ふっくらとした鼻がひくついている。「僕らが乗っていた船や仲間とともに宇宙に残ることを選んでくれたのです」

「リイナ?」

「テッドと名付けられたこの体の」くまの三本爪が泥だらけになった胸の毛皮を優しく掻く。「女主人です。彼女はテッドの全てであり、僕の船で死んでしまった人間たちに歌を捧げてくれた少女です。彼女を助けるためにテッドの自己認識は消えてしまいましたが、テッドが有していた情報はこの体にわずかばかり残されています」

「テッドの情報にも、わたしの調査隊のデータはないの?」

「テッドは、人魚が棲む惑星から旅立った人々によって造られた固体ですので、地球のデータは持ち合わせていません」

 人魚、と言われて、わたしは足元に横たわる灰色の生物をまじまじと観察する。どう考えたって、これは人魚と表現されるようなロマンチックなものじゃない。つまり。

「地球以外に、高度な文明を持った惑星が存在するってことなの?」

「存在した、と僕は解釈しています。リイナは長く、それこそ彼女の何世代も前から永く、宇宙を旅してきました。居住可能な土の惑星を求めて」

「わたしたちと同じってこと?」

「RD2を早々に発見し移住計画を実行に移した地球人とは比較できません」

 居住可能な惑星は確かに存在した。けれどその星の住人も星を捨てざるを得ない状況になった。それも、わたしたちよりずっと古くに、だ。

「つまり、わたしは今、どことも知れない星で地球外生命体の造ったロボットと話してるってこと?」

 はは、と乾いた笑いが漏れた。なんて馬鹿げた状況だろう。ひどく絶望的な気分だ。それなのに、当のテッドは黒目がちな瞳を陽光にきらめかせて、ご機嫌な口調で「いいえ」と否定した。

「今、あなたと話している人格は、地球発のクドリャフカ号に搭載されていたアンドロイドである、イサイです。残念ながらテッドのメモリは小さすぎて、イサイの人格の一部と船に蓄積されていた情報の一部しかダウンロードできませんでした。けれど僕は、イサイです。よろしく」

 対話型ロボットの見本みたいに、テッドはびしょ濡れの毛皮に包まれた手を差し出した。

 疲れた気分でその手を握り返してあげながら、わたしも礼儀正しくなのることにした。

「わたしはナナイ。ナナイ・スギサキ」

「ナナイ?」急にテッドが声量を大きくした。目をぐるりとまわしておどけた顔を作りながら、そのくせ歯をかちかちと鳴らして動作不良を起こしている。

「そう。七つの依代と書いて、七依。今さらなんなの? わたしの所属コードは登録されていなかったんでしょう?」

 我ながら厭味ったらしい口調になった。それを誤魔化すために膝を抱えて座り込む。テッドと視線がそろう。必然的に、灰色の魚人のぎょろ目とも近くなった。敵ではないとわかっていても瞼もなく唇の肉もない容貌は怖くて、わたしは顎を引いて魚人を視界から追い出す。それなのに。

「ナナイ・スギサキ!」

「はいっ」

 テッドの叫びに直立不動の姿勢をとってしまった。わたしが勢いよく動いたせいか、魚人がばたばたと跳ねて水へと戻っていく。その先に、無数の顔が待っていた。魚人たちが仲間を案じていたらしい。きょろきょろ、と何事かを囁き交わすのが聞こえた。

「ナナイ、スギサキ……」

 呆然と繰り返すテッドに苛立ちが募って、わたしはまた、勢いよくしゃがみこむ。

「だからっ」

 なに、と怒鳴りつける寸前で、テッドの爪がわたしの掌に食い込んだ。わたしがした適当な握手などではない。叛乱者を確保する警備ロボットみたいな力強さだ。

「ナナイ・スギサキ。ヨシユキ・ヒヨリをご存じですか」

 センセだ。センセの名が、どうしてわたしより百三十二年も後に地球を経ったと自称する人工知能の口から出てくるのだろう。

 わからないまま、わたしは無我に頷いている。何度もなんども、頷いている。嗚咽が喉をせり上がった。慌ててテッドを払い除けて、両手で口元を覆う。一度泣いてしまえば、なにもかもを投げ出してしまいそうだった。

 そんなわたしに構うことなく、テッドは「ああ、やっぱり」とはしゃいだ抑揚だ。

「ナナイは七つの依代という意味なのですね。ナナは七。どうして人間の半冷凍睡眠を管理するアンドロイドの試作機が七番シリーズなのか、わからなかったのです。ナナイ、あなたを模したアンドロイドたちはみんな、七七-Eシリーズだった。あなたの名前だったのですね。ドクター・ヒヨリは、死んでしまったあなたを忘れられず、アンドロイドにその名と面差しを移植したのですね」

 なんて素敵な、と恍惚と喘いだテッドに、わたしは呼吸を止める。

「わたしが、死んだ?」

「ええ、ドクター・ヒヨリの手記に、第二調査隊に所属していた女性を亡くしたことをきっかけに、RD2移住計画への参加を決意なさったとあります。けれどその女性の名は決して明かされませんでした。ドクター・ヒヨリがRD2へ発ち、その地で生涯を終えるまで」

「センセは……」

 わたしを忘れたりしなかった、わたしのために計画に参加してくれた、わたしが望んだとおりあの息苦しい地下都市を捨ててくれた。RD2の空の下で、センセはなにを見たのだろう。わたしのカメラを持って行ってくれたのだろうか。

 次々と想いが浮かんでは、その大きさに耐えきれず自壊して、潰れていく。

 わたしより百三十二年後に誕生した人工知能の妄言を信じてしまう。たとえわたしがセンセと再会できない未来だとしても、信じたい、とわたしが願っているからだ。わたしを忘れず地球を捨ててくれるセンセを、わたしは信じたい。愛されているのだと、思っていたい。

 だってわたしは、本当はずっと地球に、センセの傍にいたかったのだ。たとえセンセに子供扱いされようとも、わたしはセンセと一緒に同じ惑星で同じ時間を過ごしたかった。

 けれどわたしは、国によって育てられた。両親を亡くしたわたしを治療し教育を施してくれたのは国だ。センセと出逢った病院でかかった費用だって全て、国が負担してくれていた。だから国がわたしを選んだのなら、わたしは新惑星へ往かねばならなかった。

 選択肢がなかったのだとは思いたくなかった。わたしはわたしの意志で宇宙を目指すのだと、自分に言い聞かせたかった。

 だからわたしはセンセを捨てて、センセを諦めるために、調査隊に入ったのだ。だから。

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