溺れる箱船〈後〉
テッドに手伝ってもらって、わたしは宇宙服に身を包んでいた。艇には相変わらず不吉な軋みと衝撃が断続的に届いている。
これまでいた居住区画とは違う、無骨な計器と無表情な壁しかない狭いエアロックは、それだけでわたしを圧迫してくる。
ここに来るのは二度目だ。あの日、ママたちが宇宙に吸い出されるのをここからただ見送った。
すっかり治ったはずの小指が痛んだ。薬指ともども内側へ歪んでしまうほど叩いてもびくともしなかった窓は、今も平然と死が満ちた宇宙空間からわたしを護っている。
ママたちと同じトコロに行くんだ。
その覚悟を、テッドが乱した。手の甲を軽くつつかれる。無自覚に組み合わせた両手の爪が食い込んでいたらしい。
「緊張、していますか?」自分のほうが余程緊張している面持で、テッドは赤く爪痕が刻まれたわたしの手の甲に囁く。「大丈夫、私がいます」
きつく顎を引いたわたしに頷き返して、テッドはわたしの背中に回る。上衣と下穿きがひとつながりになった宇宙服の、背中側の三重のチャックを閉めてくれるためだ。お腹側のそれは、わたしが自分で引っ張った。
救命艇に備えてある宇宙服は大人用だけなので、手足の先がずいぶんと余る。手首と足首をマジックテープで絞めて丈を調節してから、もう一度テッドとわたしをベルトでつなぎ直した。蹴るべき壁もない宇宙では、テッドの推進剤だけが頼りだ。うっかりテッドを手放してしまって、散りぢりになるお互いを見送るなんて絶対にごめんだった。
三度、テッドとのつながりを確認してから、ようやく靴と手袋を装着する。かち、と連結が噛み合う音がした。
「準備はいいですか?」
わたしにヘッドギアを被せつつ、テッドが目を細める。宇宙空間にも対応できるテッドに宇宙服は必要ない。ふわふわの毛と硬質な爪が、いつも通りわたしの頬に触れる。
ヘッドギアから遮蔽バイザを展開してしまえば最後、二度とテッドの柔らかさを感じられない。
そう気付いたわたしは大慌てで手袋を外す。テッドの両脇に指を入れて、その体を捕まえる。仄温かさと繊細な油圧式筋肉のうねり、そしてチタン骨格の堅牢さに触れる。
「痛いですよ、リイナ」
「うん」
うん、と何度も頷きながら、わたしはテッドのお腹に顔を押し当てる。乾いた布地に忍ぶ、甘い機械油の匂いが胸を満たしていく。
「テッド」
「どうかしましたか? リイナ」
「ずっと、一緒にいてね」
「ええ」
約束です、と囁いたテッドが、けれど、わたしとの別れを急くようにヘッドギアのヘルメット作動ボタンを押し込んだ。
空気が破裂する小さな音とともに、わたしの頭が三層構造のガラスバイザに覆われる。自分の呼吸がひどく近くでした。
宙に浮いていた手袋を回収したテッドが、装着し直してくれる。宇宙服の内側から余分な空気が排出されて、袖や裾のダブつきが改善されていく。
眼前のバイザを、テッドが二度、叩いてくれた。大丈夫、苦しくない。背中の生命維持装置は正常に働いている。
バイザの四隅に淡緑色の文字列が現れた。小難しい文言を一文字ずつ追っている途中で、勝手に文面が変わっていく。テッドがアクセスしているのだろう。その証拠に、わたしの前に佇むテッドはまた、ぬいぐるみに戻ってしまっていた。
複雑な設定だか調整だかをテッドに任せて、深呼吸をする。喉の奥にへばりついた鼻血の残滓を小さな咳で呑み下してから、胸を押さえる。
折り畳んだママの手紙が、宇宙服の下にある。虹を冠した青い惑星と母船と、姉妹たち。そして、わたしに託された大きな植物の種。
わたしの体を苗床に芽吹いてくれるだろうか、と考える。宇宙空間を彷徨うわたしが大きな木になれば、わたしを探す犬も先に逝った姉妹たちも、わたしを見つけやすくなるはずだ。
それに、わたしにはテッドがいる。
なにも怖くない、と自分に言い聞かせたとき、テッドの体が生き返った。軽く身を震わせてから、三本爪でわたしの手を強くつかむ。テッドの右手がわたしの左手を、わたしの右手がテッドの左手を、まるでダンスを踊る紳士と淑女のように互いの体をくっつける。
楽しくなって、わたしは吐息で笑う。それなのに、テッドは表情を変えなかった。
無に近しい真剣さで、テッドはわたしのヘルメットバイザにくっつけた額から直接、声の振動を送ってくる。
「リイナ、忘れないでください」
ヘルメット内の空気が、テッドの低い声を増幅させた。
「あなたは多くの人に愛されていました」
「テッド?」
「あなたは、とても多くの人に、本当に愛されていました」
ヘルメットディスプレイの数値が目まぐるしく変化している。エアロックの気圧が宇宙空間と等しくなりつつあるんだ。温度計が人間の生存可能温度を下回ってなお、下がり続ける。それでも寒さは感じない。優秀な宇宙服の銀色がわたしを護ってくれている。
「あなたのお母さまは、あなたの誕生と成長をなによりも慶んでいらっしゃいました」
テッドの向こうでゆっくりと円形ハッチがスライドしていく。薄く切り取られた漆黒の虚空が、わたしを待っている。
そろりと太り始めた闇を横目に、テッドが笑った。目を細めて、白くて小さな歯を見せて、これまでに見たどの表情よりもきれいに笑う。
「私も、ですよ。あなたの幸せこそが、私の幸せなのです。あなたが生きて、笑っていてくれることが、私の願いです。リイナ」
わたしと両手を絡めたまま、テッドが離れる。両足の先から推進剤を小刻みに噴射して、わたしの背中をエアロックの壁から引き剥がしてくれる。
そして、テッドの口元が音もなく、告げる。
――あいしています
ど、っと背を衝かれて息が止まった。視界が激しくぶれる。頬が痙攣して瞬きすらできない。
宇宙服の両肩と左右の臀部にある推進装置だ。遊泳訓練をしたことのないわたしには、これがどれくらいの出力なのかはわからない。それでも、テッドの手足とは較べものにならない力強さだってことはわかる。
この先にママや姉妹たちが待っているんだ。
テッドの爪に縋って、わたしは噴射に耐える。たぶん、十秒にも満たない短い時間だったはずだ。
背に伝わってくる振動が消えたことで、ようやく推進装置が停止したことを知る。
「びっくりしたぁ」
素直に大きく息を吐いた。ヘルメットバイザに阻まれて、わたしの耳にしか届かない。でもテッドになら唇の動きだけでわかる。そのはずだ。それなのに。
テッドは応えてくれなかった。口を半開きにしたまま黙っている。
わたしは竦んでいた両肘を伸ばして、テッドを顔の高さまで持ち上げる。緊張からか寒さからか、関節がぎこちなく痛んだ。それでも直接声の響きを届けるために、ヘルメットバイザをテッドの額にすり付ける。
「テッド、急に引っ張るんだもん。びっくりした」
おどけた調子で詰ったのに、ごめんなさい、という謝罪はなかった。宇宙に溶けだしそうなテッドの黒い瞳は、わたしを捉えたまま微動だにしない。
「テッド?」
怖くなってテッドとつなげた指に力を込める。いつもならすぐに返ってくる力が、ない。
「テッド、どうして……」
救命艇に逃げ込んだときと同じだ。テッドはまた、ぬいぐるみに戻ってしまっている。
「誰か……」
周りを見回す。当たり前だけど、誰もいない。テッド答えてはくれない。
テッドから片手だけを外して、両手と両足でがむしゃらに空を掻く。泳ぐ、なんて優雅なものじゃない。海で溺れる人間のように、ただもがく。水のないここでは、人魚の助けだってないだろう。
遙か遠くに白い星が散っていた。救命艇は見当たらない。わたし独りが取り残されている。
「誰か、テッドを」
助けて、と言う声が潰れた。
ぞっとするくらい遠くに、朱色の火球が咲いたからだ。
それすら、もの凄い速度で遠ざかっていく。推進剤の噴射が止んでも、わたしの体はテッドが示した先へと流され続けている。
火球は一つだけじゃなかった。小さな炎が弾けて、収束して、爆発する。惑星の陰から太陽が出たのか、光の帯が連続する炎の上を翔け抜けていく。
――宇宙デブリが、わたしたちの救命艇を呑み込んだんだ。
目の前が真っ暗になった。テッドが死体然と無反応になってしまった理由を、察してしまったからだ。
いや、今さらだ。どうしてこれまで気付かなかったんだろう。気付こうとしなかったんだろう。救命艇に入ったテッドは、体の制御を放棄していた。そうしなければ、テッドの体に収められた小さなコンピュータでは救命艇の環境維持装置を作動させられないからだ。わたしはずっと、そんな勘違いをしていた。
でも本当は、逆だったんだ。
テッドの本体は、テッドを動かすコンピュータは、初めから船と一体化していた。母船のコンピュータの片隅に、そして救命艇の制御コンピュータの中に、テッドはいたのだ。
母船のコンピュータにはテッドの体を遠隔で動かす余裕があった。でも救命艇は、人間が生き残ることだけを目的に作られたものだ。子供向けの学習支援素体を動かすために割けるコンピュータ容量など、ありはしない。だからこそテッドは、体を動かすために救命艇の機能を低下させた。わたしの最後の願いを叶えるために。
けれど救命艇は壊れてしまった。宇宙のゴミとなってしまった。
テッドは、還ってこない。救命艇と一緒に心中してしまった。
「……嘘、つき」
どうしてテッドは約束を破ったんだろう。
ヘルメットバイザの隅に表示されている酸素残量の変化をぼんやりと見る。
残り五時間と少し。わたしに残された命の時間だ。わたしだけに与えられた、孤独な空白だ。
「こんなに、要らない」自分でも不思議なくらい平淡で乾いた声が出た。「わたし、独りで、どう過ごせばいいの、テッド……」
救命艇の残骸がどこにあるのかもわからない。なにかを探すにはこの宇宙は遠すぎるし、暗すぎるし、広すぎる。テッドを失ったわたしは、死を待つ迷子にすぎない。
「うそつきテッド」
力ないテッドを抱き寄せて、胸に強く押し当てる。宇宙服の内に隠したママの手紙が、わたしの皮膚をちくちくと刺した。
柔らかなテッドと、かさつくママの手紙とぽってりとした植物の種。その三つを抱いて、わたしは無為に酸素を消費する。ヘルメットの中に渦巻く自分の呼吸音に心臓の喘ぎが雑ざっている。ひどく耳障りで頭痛までしてきた。
それなのに、涙は出なかった。鼻の奥も喉も乾燥したままだ。泣きたくて、強く瞼を閉じる。やっぱり、涙なんて一滴も湧かない。
テッドがいない。テッドはわたしを連れて逝ってくれなかった。
どうして、と考えることすら、もう億劫だった。早く、一刻も早く酸素を使い切ってしまいたかった。それだけが、ママやテッドに再会する唯一の道だ。
ピピ、と不意に電子音がわたしの無を裂いた。とっさに目を開けてしまう。酸素残量はいつの間にか三時間になっていた。
ヘルメットバイザに赤いマークが表示されていた。目を凝らす。灰色の箱だ。一瞬だけ、テッドが迎えに来てくれたのかと思ったけれど、すぐに違うと気付く。テッドの救命艇は黄金色の翼と優しい曲面で構成されていた。
近付いて来るのは、ただ四角いだけの物体だった。柩かもしれない。船の長老が亡くなったとき、ああいう箱に入れて宇宙へ送り出したのを覚えている。でもあれはもっと小さかった。なんにしろ、宇宙デブリには違いない。わたしはあれと衝突して死ぬんだ。
そんなわたしの未来予想をくつがえしたのは、ヘルメットバイザだった。赤いマーカーの上に文字らしき羅列が流れる。見たことのない文字だけど、あれがデブリじゃないってことはわかった。
そして箱の前面が、切り取られる。白い電光が灯っていた。その中に、誰かが立っている。灰色の宇宙服を纏った、大柄な人間だ。
テッドの背に隠れるように身を縮める。もちろん、灰色の箱はおかまいなしに迫ってくる。
――犬が迎えに来てくれるのですよ。
テッドの声が聞こえた気がした。でもあれは犬なんかじゃない。人だ。
箱から人が出てくる。推進剤の噴射が四方へ散っている。
人が、両腕を広げた。宇宙服の操作方法を知らないわたしは、逃れようもなく捕えられてしまう。身動きもできない。
わたしとよく似た宇宙服なのに、ヘルメットだけが不格好なくらい大きかった。宇宙色のヘルメットバイザが、その人の風貌を染めている。怯えたわたしの顔が映り込んでいるだけだ。
鏡みたいなヘルメットバイザが近づいてきて、丁寧な衝撃とともに触れ合わされた。
「君が」バイザ越しの相手が、男の声でわたしを震わせる。「リイナだね」
どうして知っているんだろう、と訝る気配を察したのか、男の人は幾分慌てた調子になった。
「ハッキングしたわけじゃなくて、救難信号を拾ったんだよ。救命艇の支援プログラムが君のことを」
「テッドを!」叫んだつもりだったのに、掠れた風音にしかならなかった。「プログラムだなんて呼ばないで」
「え? ああ、君の船はテッドって名前だったのかい。……ごめんね。僕の船にはそういうシステムがないから、どう呼べばいいかわからなかったんだ」
「テッドを、助けて……」
ごめん、と再びその人が言う。
「彼を救うにはデブリに入らなきゃならない。それは無理なんだ。だから……テッドは君だけを放出した。君だけなら助けられるからだよ」
「わたしは、テッドと一緒にいたかったのに」
「テッドは君を助けたかったんだよ。なにを犠牲にしても、君にだけは生きていてほしかったんだ。君は彼の希望なんだよ。君が」
生きていてくれてよかった、と呻くように告げて、その人はわたしを強く抱きしめた。骨が折れてしまいそうだ。息苦しい。
これが、ほしかった。
わたしは、テッドにこうしてほしかったのだ。
そう感じた瞬間に、喉が引きつれた。つんと鼻の奥が痛む。ヘルメット内の呼吸音が消えて、避難警報みたいな悲鳴が響きわたる。
わたしは、泣いていた。声を上げて、みっともなく両腕を振り回して、その人とわたしの間に挟まれたテッドの体とママの手紙をもみくちゃにして、泣いた。
無重力下の液体は物体の表面に張り付く。だから泣くときは、吸引器で呼吸を確保しながらじゃないと窒息してしまう。そんな初歩的なことも忘れて、わたしは涙に溺れる。
「さあ、還ろう。じきに僕らの船が追いつい来る。クドリャフカ号は、君を歓迎するよ」
クドリャフカ。それがテッドの言っていた、宇宙を見守る犬なのだろうか。わたしの舌に馴染まない難しい発音だ。その船が、テッドに生かされたわたしを助けてくれる。
後頭部が浮き上がる感じがした。男の人が灰色の箱とつながったワイヤを巻きとっている。口を開いたままのエアロックが、わたしを呑み込もうとしている。
テッドといた救命艇は、柩だった。でもこれは、わたしを救う箱船だ。
こんなもの、要らなかったのに。そう、心の底から思う。
わたしはただ、テッドに傍にいてほしかったのだ。あの沈み逝く柩の中でテッドといられるならば、この命すら要らなかった。
わたしはテッドに恋をしていた。ただ、傍にいたかった。テッドにも、わたしに恋をしていてほしかった。
けれど、テッドはわたしを愛してくれていた。
わたしは、虹色に広がる救命艇のヒレを求めて手を伸ばす。
ママや姉妹たち、船のみんなが何世代もかけて求めた黄金色の大地の幻影に、わたしは薄情にもテッドだけを想う。
――光の先
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