溺れる箱船〈中〉

 わたしたちは、果てのない宇宙を旅する宇宙船で暮らしていた。『セオドア号』というのが船の名前で、わたしの他に二十八人の子供がいて、わたしは幼い方から二番目だった。二番目といっても一番幼い子は三つ子だったし、わたしだって六つ子だったから、それほど下だと感じたことはない。

 その日はちょうど、わたしたち六つ子が七歳の誕生日を迎える日だった。

 セオドア号では七歳から仕事が貰えることになっていて、わたしたちには生物プラントで泳ぐメダカの餌やりと観察が課せられるはずだった。

「さあ、競争です!」とママが両手をぽん、と合わせたのが合図となった。

「この船のどこかに生物プラントの扉を開く鍵を隠しました。一番早く見つけられた人には、メダカの卵の観察も任せちゃおうかな」

 わたしたちは沸き立った。メダカを間近で観察できるというだけでも凄いのに、命の源である卵だなんて重大すぎる任務だ。

「行くよ、ジークフリート!」と元気よく壁を蹴った妹が、無重力空間を横切った。光学フィルムの翼と長い手足を持った馬型の学習支援素体が、慌てた様子で追いかける。

 他の妹たちも銘々、自分の学習支援素体を連れて船内へと散っていった。

 この船に住まう子供たちはみんな、十六歳になるまで『学習支援素体』と呼ばれる自立行動型のぬいぐるみを伴って生活している。それぞれが自分の好みに合った形状のぬいぐるみを指名して、それに学習支援プログラムをダウンロードするのだ。学習支援素体はわたしたちの友であり相談相手であり、先生だった。彼らの中には母星や宇宙やこの船にかんする厖大な知識が詰まっている。

 わたしの相棒は、直立二足歩行をするクマだった。妹の一人は、よりクマの生態に近い四足歩行タイプの素体を選んで、なにを考えたのか「アレクサンドラ」なんて名前を付けていた。

 ネーミングセンスのない妹に指名された不運な素体たちを見送っていると、ズボンの裾を、くい、と引かれた。視線を下ろせば、二本足で虚空を踏んだクマのぬいぐるみ――わたしのテッドが、短い手の先に装備した三本爪でわたしを抓んでいた。

「リイナは行かないのですか?」

「行くよ」とテッドの手をつかんで、わたしもまた妹たちを追って床を蹴る。

 廊下と部屋とを隔てる感応式スライド扉が閉まる一瞬だけ、わたしはにこにこと笑うママとパパと、仲間の子供たちを振り返る。今思えば、あれが虫の知らせというやつだったのかもしれない。

 けれど楽観的だったわたしは手を振り返して、妹たちのはしゃぐ声から離れるように壁を蹴った。

「みなさんと一緒に行かないのですか?」

 テッドが尖った鼻先をひくつかせながら言う。

「テッドは、ママがどこに鍵を隠したのか知ってるんでしょ?」

「お教えすることはできませんよ」

「わたしよりママのほうが命令の……えっと、順番?」

「優先度のお話ですか?」苦笑したらしいテッドが、器用に片目だけを細めてわたしの言葉を補う。「確かにお母さまのご命令は、リイナのわがままより優先されます」

 少しむっとして、わたしはテッドとつないでいた手を放す。しゅん、と小気味のよい音がした。テッドの四肢の先に生えた三本爪が推進剤を噴射する音だ。体勢を整えたテッドは、わたしなしでも難なく廊下を泳ぐ。

「リイナ。あなたに鍵の場所を教えないのはお母さまからの命令だからではなく、それがルールだからですよ。ご姉妹すべてが平等に、自らの頭脳と体を使って船を探索することこそ、立派な大人になるための訓練なのです」

「はいはい」と適当に受け流して、廊下を曲がる。テッドは少し遅れて、それでも推進剤と手足を巧く使って、わたしに追いついた。

「教えてくれなくてもいいよ。わたし、ママがどこに鍵を隠したか知ってるもん」

 え? と小首を傾げたテッドに意地悪するように、壁の手すりをつかんで急停止する。ばふっと背中にぶつかってきたテッドを腕の中に閉じこめて、わたしはテッドのお腹に顔をくっつける。仄かに機械オイルの甘苦い香がした。

 くすぐったそうに身を捩るテッドの毛皮に、わたしは「昨日」と声ごと息を吹き込む。「ひゃあ」とテッドが甲高い悲鳴を上げた。

「ママが救命艇のハッチから出てくるところを見たの。緊急救命艇のチェックは月に一回でしょ? 前のチェックは先週したばかりだから、ママがあそこから出てくるってことは、なにか特別な用事があったってことよ。つまり」

 鍵はそこ、と顎を上げたわたしに、テッドはお腹の毛を爪の先で整えながらため息代りのノイズを吐いた。

「仕方のない子ですね」

「情報戦は基本よ」

「本当に」

 仕方のない子、とテッドは両目を細めて、それでもどこか誇らしそうに、笑ったのだ。

 連れだって緊急救命艇の入口にきてみれば、やっぱりハッチは開いていた。普段はきっちりと固まっている回転式ハンドルは惚けたように弛み、今までに一度しか見たことのない救命艇の内部が細く覗いていた。酸素のない宇宙と〇.八気圧の生存最適環境に調節された救命艇とを出入りするときに通る、狭いエアロックだ。

 電光に照らされた内部に誘われてふわりと泳ぎ入ったわたしを、けれどなぜかテッドの小さな爪が留める。

「……テッド? ここじゃないの?」

「いいえ」と即答したのに、テッドは鼻をひくつかせるだけで言葉を続けてくれない。

 こんなことは初めてだった。不安になったわたしは宙でくるりと前転して、テッドの両脇に手を差し入れる。

 刹那、テッドがわたしの手首に縋った。そう認識するより早く、わたしは背を丸めた不安定な姿勢のまま激しく振り回される。

 ごん、と重たい音をたてて開け放たれた救命艇のハッチの扉が、廊下の壁にぶつかった。その隣を、わたしは物凄い速さで飛び抜ける、寸前で肩が外れんばかりの衝撃を感じた。なぜか、眼前に救命艇のハッチの丸いハンドルが迫っている。反射的に腕を絡ませた途端、今度は背中を殴られた。あまりの痛みに呼吸が止まる。

「リイナ!」

 テッドの怒声が、なぜか頭上から降ってきた。テッドが怒鳴るなんて、わたしの短い人生の中で初めてのことだ。

 ふらふらする頭を振って、必死に首を持ち上げた。霞む視界に、丸く口を開いた救命艇が覆い被さってくる。違う、救命艇の縁に片手を引っ掻けたテッドが、もう片方の手でつなぎとめたわたしを引き寄せてくれているんだ。

 皮膚に食い込んだテッドの爪が、今にもわたしの手首をちょん切りそうなくらいの力を発揮していた。テッドに架せられている安全装置が、外れているんだ。

 なにが起こったのか、わからなかった。風がわたしの鼓膜を破らんばかりに暴れているせいか、鼻の奥から額にかけて金属を突っ込まれたような痛みが走っている。

 みちみちと、わたしを引き留めるテッドの油圧式筋肉が悲鳴を上げていた。本当はわたしの手首が千切れかけているのかもしれないけれど、どちらにしても同じことだ。

 わたしの足先が、ぐらぐらと宙を彷徨っている。切り立った廊下がわたしを待ち構えている。テッドかわたし、どちらの腕がダメになったとしても、わたしはこの廊下に吸い込まれるしかない。

 わたしは救命艇の入り口を天井にした廊下に、ぶら下がっていた。

 テッド、と喘ぐことすらできない。息苦しいのか寒いのか怖いのかもわからない。ただただ、わたしを支えるテッドの三本爪が外れないように指一本動かさず、指一本動かせず、身を硬くする。

 不意に暴風が弛んだ。その隙に、テッドがわたしを救命艇に放り込む。けれど衝撃はない。戻ってきた無重力状態が、わたしに姿勢を立て直す間を与えてくれる。

 わたしが救命艇の底に辿りつく前に、テッドがハッチに取りついた。四肢から噴射される推進剤がその小さな体に不釣り合いな力を生み出し、大きく分厚い隔壁を閉ざしていく。

 いやに、静かだった。テッドの爪から断続的に噴き出される推進剤の音が、わたしの心拍と同調して忙しない。

「テッド?」

 いつもなら必ずわたしに応えてくれるテッドは、黙っていた。わたしの方を見もしない。ただ分厚い扉を睨み据えて、回転式のハンドルで救命艇を密閉していく。

 ここには、わたししかいないのに。

「テッド」

 少し強めに呼んだ。

 ハンドルを締め終えたテッドはそのままの姿勢で、項垂れていた。

 泣き出しそうな背中だ、と感じてから、そう感じた自分に、ぞっとする。

 足先から這い上がる予感が怖くて、わたしはテッドの体を乱暴に両手でつかみ締めた。テッドの体を反転させて、鼻先が触れ合わんばかりに引き寄せる。それなのに、テッドの瞳は、わたしを捉えていなかった。

 え、と声が漏れた、かもしれない。耳障りなブザーがすべてを塗り潰す。おっとりとした抑揚のアナウンスが流れていたけれど、うまく内容が理解できない。

 唐突に、ハッチの横に開いた丸窓の中を、白い物が横切った。平和に見送っているうちに一枚、また一枚と平べったいなにかが飛んでいく。

 船のバンパだ。そう気付くのに数秒かかった。宇宙デブリや彗星の塵から宇宙船の内部を護る、強靭な防護パネルだ。ママと姉妹たちを護る船の鎧が、剥がされている。

「どうして……」

 わたしはハッチにとりついて、丸いハンドルを力一杯回す。予想した手応えはなかった。勢い余って自分の体ごと回転しそうになる。船に戻るためのハンドルは完全に遊んでいた。

「どうして!」

 両足を壁に突っ張って、ハンドルを引っ張ってみる。

「どうして! テッド! ママ! どうして……」

 手が滑った。足の力を抜き損ねて勢いよく背中から吹き飛ぶ。エアロックの終りが強かにわたしを受け止めた。

 でも、そんなことにかまっている余裕はない。隔壁一枚を隔てたところで、船との接続金具が外れる気配がした。

 わたしだけを乗せた救命艇が、船から切り離される。ママや姉妹たちを残して、わたしだけが……。

 そのとき、窓の外を一際はっきりとした塊が通り過ぎた。

 ひょう、と喉が鳴る。見間違えるはずがない。後ろ姿だったけれど、わかる。ついさっき、笑顔で手を振ってくれたばかりなんだから。生まれてからずっと、一緒にいたんだから。

 あれは、ママだ。

 窓に顔を張りつけて、ママの行方を追う。見えない。無数のパネルが流星の尾みたいに伸びている。

 船の巨体がすぐ傍に聳えていた。救命艇を失ったばかりの丸い連結部分が未練がましくわたしを見詰めている。その縁が、崩れた。

 巨大な宇宙船のあちこちから、パネルや骨組みが吸い出されている。これまで、わたしたちを護ってくれていた全てが、指先のサカムケでも引き剥がすように散っていく。

 きらきらと美しい輝きになって、メダカたちを閉じこめた水槽のパックが流れ出すのが見えた。わたしが世話するはずだった命が、わたしのずっとずっと前の世代の人々が築いてきた命の連鎖が、失われていく。

 ママやメダカたちだけじゃない。ふかふかとした食用モルモットや植物プラントの緑色、一緒に七歳を迎えるはずだった姉妹たちまでもが、宇宙に呑まれてしまう。

「やだ」

 力いっぱい、窓に拳を打ちつける。

「一人は、いや」

 反動で窓から遠ざかってしまった。わたしはでたらめに宙を掻いて、窓枠をつかんでまた、叩く。

「一緒に、連れてって」

 何度もなんども、窓が自分の皮脂で曇って、茶色い血がわたしの手形を残しても、叩き続ける。小指が痺れた。骨が折れたのかもしれない。それでもよかった。わたし独りが生き残るよりは、いい。

 息苦しくて喘ぐ。いつの間にか声が嗄れていた。泣いてるのかもしれない。無重力を嫌った涙が頬を伝って、わたしの鼻や口を覆っているんだろう。このままわたしの呼吸を止めてくれればいい。そう本気で思う。そう、願う。

 それなのに、柔らかな毛皮がわたしの呼吸を解放してくれた。

 テッドが、わたしの肩に触れている。思わず振り向きざまにテッドの体を鷲掴む。

「どうして!」


 どっ、と腹の底を揺さぶる衝撃に飛び起きた。と思ったのに体が動かない。世界が真っ白い布に覆われている。縦穴ベッドの中だ。

 テッドを詰問していたはずなのに、と思ってから、ああ、あれは夢だった、と理解する。

 あのときのテッドは、ただわたしを宥めるだけで、わたしを助けた理由を教えてはくれなかった。感情のままにテッドを罵倒し罵り、果てには壁に投げつけたわたしに、根気強く「生きていてくれてよかった」と語るだけだった。

 そして、あれが、テッドが動いた最後だった。

 わたしはぼんやりと目の前を塞ぐ白を見廻す。ママたちを護れなかった無能なバンパと同じ色だ。宇宙船に衝突する物の全てを受け止めるはずだったのに、あれは結局役割を果たせなかった。

 はっとした。今、わたしを包んでいるものの正体を知る。

 ベッドなんかじゃない。衝撃吸収バッグだ。

 息苦しさが襲ってきた。パニックを起こす前兆だ。衝撃吸収バッグが寄越す圧迫感の中に、テッドを探す。わたしの腕と腹の間に挟まっている。テッドの毛皮に意識を集中させて、緊張で冷たくなった指先を強く握り込む。

「テッド!」

「大丈夫です」

 全然大丈夫とは思えない、即答だった。

「テッ……」

「喋っては」

 いけません、というテッドの声がくぐもって聞こえた。耳の奥が痛んで、強烈な寒気に足首をつかまれる。鼻水が溢れて、鼻腔が塞がれていた。早く洟をかまないと溺れてしまう。それなのに、わたしを拘束する衝撃吸収バッグは萎んでくれない。

 ふっと足元の冷たさが消えた。耳の詰まりも和らぐ。

「テッド、洟が……」

 ひどく舌足らずな発音になった。それでもテッドはわたしの声を聞き漏らしたりはしない。

「大丈夫ですよ、リイナ。吸引しましょう」

 うん、と頷きながら、わたしは縮んでいく衝撃吸収バッグの内に潜り込む。体をベッドにつなぎ止めているベルトを解く間にも、洟が唇や喉の奥に広がっていく。

 息苦しい、額が痛い。全然大丈夫じゃない。船にいたときなら、テッドがわたしの手を引いて吸引器まで連れていってくれた。ふわふわの手から生えた三本の爪で、器用に吸引ノズルを操作してわたしの洟を取り除いてくれた。

 それなのに、今のテッドは「吸引しましょう」と言うだけで爪の一本だって動かしてはくれない。

 涸れ果てていたはずの感情が湧き上がってきた。喉を塞ぐ悲愴感ごと、すすった洟を飲み込む。のっぺりとした生温かい粘液が舌の付け根に絡まって、苦い。

 のたりとベッドから這いだしたわたしが見たのは、隔壁だった。

 銀色の分厚い壁が、すぐそこで部屋を閉ざしていた。

 指先まで冷えた。どうしてこれが、今、ここで作動するんだろう。

「テッド、なにが、起きたの……?」

「大丈夫で」

「大丈夫じゃないよ!」

 叫びが、赤い霧になった。見馴れない鮮やかさに伸ばした指先が、水滴を吸い寄せて同じ色になる。恐るおそる自分の口元を拭う。また、赤が舞った。くるくると小さくて赤い球体が、わたしから溢れている。

「なに、これ……」

 ずず、と音を立てて洟をすすり上げる。鼻血だ。姉妹たちと追いかけっこをしていたときに、顔から壁にぶつかって出したことがあるから知っている。でも今はただ眠っていただけだ。それなのに、どうして血が出ているんだろう。

「リイナ。まずは吸引してください。そのままでは溺れてしまいます」

「でも……」

 どうすればいいのかわからない。吸引器はすぐ傍の壁にある。でもテッドが動かない。その柔らかい手でわたしの髪を撫でて宥めてくれない。弾力のある爪でわたしのおでこをコツンと叩いて叱ってもくれない。

 わたしはただ、ベッドから這いだしたときの姿勢で無重力の中に浮かんでいる。

「リイナ」

「だって……」

 どん、とまた重たい衝撃音がした。瞬きする間もなく背中から壁にぶち当たる。息が止まった。赤い血が驚いたようにわたしから離れていく。

「なにが、起きてるの?」

 逡巡するような間があった。ひょっとしたら、別の演算にメモリの容量を割いているせいだったのかもしれない。その間にも、救命艇のあちこちから不気味な金属音が轟いている。

 無限にも思える沈黙のあと、テッドは「落ち着いて聞いてください」と初めて耳にする前置きをした。

「宇宙(スペース)デブリと交錯しました」

 宇宙デブリ、とその言葉を繰り返す。宇宙を高速で飛び交う、ゴミだ。隕石だったり氷の塊だったり先駆者の残骸だったりが、宇宙には無数に散らばっている。宇宙を旅する誰もが最も恐れる襲撃者だ。母船を覆うバンパを突き破ってママや妹たちを連れ去った、金属片の嵐だ。

 この救命艇の壁は、船のそれよりも薄い。

「艇の前方区画の気密性が失われたために、隔壁を閉鎖しました」

 つまり、とわたしは自分の鼻を濡らす血に触れる。すでに壁の一部は破られている。この出血は急激な気圧の変化によるものなんだ。

 短く喘いだわたしに、けれどテッドは容赦なく言葉を続ける。

「酸素供給装置も機能を停止しました。さらに大型デブリの接近も認められます。推進装置の二つが反応しません。おそらく回路のどこかが切断されたのでしょう」

「わたし、死ぬの?」

「……死なせたくありません」

 死なせない、という決意でもなく、護る、という誓いでもなく、テッドの答えは願望だった。

 テッドが願望を口にするなんて、初めてだ。それが、否応なく状況の深刻さをしらせてくる。

「わたし、死ぬんだ……」

 死ぬんだね、と三度繰り返した自分の声が、戦慄いた。簡単にめくれあがる母船のパネルと、漆黒の虚空に吸い出されていく姉妹たちとが、鮮明に瞼をよぎる。

「できる限りのことはしてみます。出力不足は否めませんが、可能な限りデブリの飛来軌道から」

「いいの!」

「リイナ?」

「いいの」悲鳴じみた制止を、鼻血をすすり上げることで囁き声に抑え込む。「もう、いいの。このままで……このままが、いい」

「よくありません!」

 わたしを叱るテッドの電子音声を見回しながら、テッドをつなぎ留めるベルトを引く。ふわりと、無反応なテッドが腕に納まった。

「一人は、いやなの。人魚みたいに、一人で泡になって死ぬのはいや。でも今なら、テッドがいる。いて、くれるでしょ?」

「私は、あなたを守るために、いるのですよ。決して、あなたと死ぬためにともに在るわけではありません」

「一緒にいてくれるって言ったじゃない!」

「ええ、私は」

「ずっと、ずっと一緒って、約束したでしょ!」

「ええ、けれど」

「なら!」息苦しさごと、吐き出す。「最期まで一緒にいてよ!」

 みっともない泣き顔を隠したくて、わたしはテッドのお腹に顔を埋める。ねっとりとした血がわたしの唇や頬を伝ってテッドの毛皮に広がったけれど、気にする余裕なんてなかった。わたしはそのままテッドの体に直接声を送り込む。

「一人で死ぬのはいやなの。ママたちみたいに、なんの覚悟もできないまま宇宙に吸い出されるのはいやなの。ねえ、テッド、お願いだから、ぎゅってしてよ……」

 テッドは、応えなかった。怯えたように震えているのがわたしなのか、救命艇の方なのかもわからない。完全な無がわたしたちの間に横たわっていた。そのとき。

 きゅん、と微かな稼働音が鼻先に触れた。そして、無重力に遊ぶわたしの髪が、優しく梳かれる。

 テッドが、爪先でわたしの頭を撫でてくれている。

「寂しい思いをさせてしまいましたね」

 テッドの声はまだ、どちらとも知れない壁から響いている。

 それでもよかった。わたしはそっとテッドのお腹から顔を上げて、互いの額をくっつける。

「聞いてください、リイナ。私の体の制御にメモリを割いてしまうと、救命艇の運用に支障がでます」

「いいよ」

「艇内の灯を落とすことになります」

「テッドが元に戻ってくれるなら」

 それだけでいい、と告げた途端に、なにも見えなくなった。どこか遠いところで環境システムだかコンピュータだかの回転数が変わる気配がした。

 ややして、淡い緑色の非常灯が息を吹き返す。3D映像で再現された水底と同じ色合いだ。姉妹たちと観た人魚が棲む世界よろしく、ベッドの縦穴からは水草に似た衝撃吸収バッグが覗いている。

 ひどく近くにテッドがいた。大きな黒目の中心に、わたしが映り込んでいる。テッドの瞳を構成する三種類のレンズがそれぞれ収縮、拡大をして、毛皮に覆われた瞼が瞬きをした。

 上目にわたしを認めたテッドが、眉を上げてひょうきんな表情を作る。メンテナンスのための短時間の休眠状態から復帰したときのように、テッドは両腕を大きく回して欠伸をした。

「おはようございます、リイナ」

 白い八重歯が生えたテッドの口から、ようやくテッドの声が流れ出る。ずんぐりとした幼児体型に似合わない身軽さでテッドが宙返りをした。わたしとテッドをつなぐ紐が楽しそうな渦を描く。

「まずは、鼻血を吸引しましょう。ほら、こっちですよ」

 足先から突き出た三本爪のそれぞれから細切れに推進剤を噴出させて、わたしの手を握ったテッドは自らの力で壁際へと泳ぎだした。

 いつも通りの、母船でわたしの世話を焼いてくれていたテッドが戻ってくる。

 仕方のない子ですね、と言わんばかりの表情で、それでもとても楽しそうに、テッドはわたしを導いてくれる。

「痛いところはありませんか?」

 右手に持った吸引器でわたしの顔にへばりつく血を取り除きながら、テッドの左手は絶え間なくわたしの頭や髪を撫で続ける。

 テッドの推進剤が肌を掠めた。久し振りに味わうくすぐったさを、目を閉じて堪能する。

 視界を閉ざしていても、テッドの動きはわかる。吸引器のノズルを鼻腔用のそれに取り換えて、吸引器のチューブが絡まないようにわたしとテッドをつなぐベルトも解いてくれる。

 わたしを不安にさせないためか、テッドの爪や毛はわたしの肌から離れない。これまでの時間を埋めるようだ。

 ぞろぞろと額の奥の方から圧迫感が吸い出されていくのを感じながら、わたしは薄目を開けて隔壁の銀色を盗み見る。

 あの向こうには、ママをさらった真空が満ちているのだ。

 空恐ろしさに身震いしたわたしを、テッドが撫でてくれた。その表情があまりにも心配そうだったから、わたしは笑顔を作って平気なフリをする。

 きっと、テッドはわたしの虚勢に気付いている。その上で、満足そうに頷いて両腕を大きく広げてくれるのだ。

「さあ、リイナ。待たせてしまいましたね。誕生日の続きをしましょう。お母さまが隠された鍵を見つけてください」

 わたしは無情な隔壁で半分きりになってしまった艇内を見回す。

 酸素の供給は断たれた。ここにある酸素がそのまま、わたしの命の残量になる。それをわかっているからこそ、テッドはあの日をやり直してくれるつもりなのだ。

 わたしは、これまで生きてきた中で一番の笑顔を作る。テッドが、わたしがわたしの死など露ほども悟っていない、と信じてくれるように。

 わたしは自分が這い出してきたばかりの穴蔵に飛び込む。萎れた衝撃吸収バッグが真っ白い林を形成していた。それをかき分けて身体固定ベルトの収納スペースに手を突っ込んでいく。

 ハズレだ。体を丸めて方向転換してから窓を蹴って、すぐに次の穴に潜り込む。

 水草めいた白い布にわたしの影が映って、人魚みたいだ。それをかき割る指先が、柔らかいものを捉えた。あ、と思ったけれど、白一色の向こうから応えたのはテッドの笑い声だった。

「競争ですよ、リイナ」

「ズルいよ、テッド」

 動くたびに絡み付く布地やベルトはテッドの小さな体には充分すぎる障害になる。けれど。

「テッドはママが鍵をどこに隠したか、知ってるくせに」

「知っていますが」テッドは、いつの間にかわたしの背後に回り込んでいる。「今は知りません。その記憶にアクセスできなくしましたから」

「そんなことできるの?」

 共有スペースに戻ったわたしは二つ隣のベッドに泳ぎ入る。

 揺らぐ衝撃吸収バッグの先、漆黒の宇宙が覗き込める丸窓に、虹が架かっていた。双子太陽を背負った惑星が時折纏うという、多色多層の光の輪だ。

 そして懐かしい、丸みを帯びたママの字が、わたしを俟っている。

 ――わたしのかわいい子供たちへ

 ママは、わたしたち姉妹が揃ってこれを見るのだと、信じて疑っていなかった。それなのに、宇宙はわたしとテッド以外の全部を吸い出してしまった。

 虹に触れる手が震えている。電子ペーパーじゃない。半分に折り畳まれた、旧時代の画用紙だった。

 紙は、電子ディスプレイとは違って、一度書いた絵や文字を消すことができない。消耗品だ。セオドア号では紙を作れるほど多くの動植物を育ててはいなかった。だから紙は、母星から持ち出された数百枚しか存在しない。貴重な紙を、わたしたちは気が遠くなるほどの長い宇宙での漂流生活のなかで何十世代もかけて保存してきたのだ。

 それを、わたしたちの七歳を祝うためだけに、使ってくれた。

「リイナ」肩越しに、テッドが頬を擦り寄せてくる。「お誕生日、おめでとうございます。大きくなりましたね」

 テッドに促されて、わたしは二つに折られている画用紙を開く。

 青い惑星とわたしたちの乗る宇宙船を、わたしたち六人姉妹が手をつないで囲んでいる絵だった。絵心のないママらしく、描かれている誰もがひどく不格好だ。

 中央に、掌に納まるくらいの丸い透明なカプセルが貼りつけられている。透明なそれの内に封じられているのは、茶色い球体だった。てっぺんが少しだけ尖っている。

「クヌギの種ですね」テッドが爪の先でカプセルを突く。「開けてはいけませんよ。乾燥してしまえば、この種は発芽できなくなってしまうのです」

「くぬぎ……?」

「植物ですよ。土に根を張り、太くて大きな木に育ちます」

 ――あなたたちが、この種を育てられる土の惑星に辿りつけますように。

 わたしに託されたママの願いを、けれどもう、わたしにだって叶えることはできないのだ。見ているだけで優しい気持ちになれるママの字だって、これきり新しく生まれることはない。

「リイナ」テッドの両腕が、わたしの首に回る。「私がいます。あなたの傍に、ずっといます」

「うん」

 テッドの背中を撫でながら、まるでわたしのほうがテッドを慰めているみたいだな、と思う。だからきっと、ママの最後のメッセージが霞んで読み辛いのは、テッドの毛が目に入ってしまったからだろう。

 テッドを抱き返しながら、わたしは目の縁をひっかく。まだ少し滲んでいるけれど、ママの字はわたしの中に真っ直ぐ入ってきた。

 ――これを見つけたあなたの担当は、G列のメダカです。

 最初に見つけた人に卵の観察をさせてあげるなんて言っていたけれど、きっと姉妹全員にそれぞれ卵を見せてくれるつもりだったのだろう。ママは、ううん、あの船にいた人たちはみんな、そういう人たちだった。

 ぐずぐずと鼻をすすりながら、わたしはそこに記された数字の羅列を指先でこする。飼育ケージの開錠コードだ。

 金色の体と、光の加減で青にも透明にも見えるヒレを持つ、小さなメダカたち。人の祖先とされる彼らもまた、ママたちと一緒に宇宙に散ってしまった。

 虹に塞がれていた丸窓の向こうに、魚を探す。この救命艇が広げる美しいヒレを、求める。

 記録映像にあった地平線みたいだった。双子太陽が沈む母星の空の、黄金色だ。宇宙線を受けてエネルギーを得る救命艇のヒレが、これまで見たどの状態よりも大きく広がっていた。

 あのヒレを好いていたわたしへの、テッドのせめてもの心遣いなのかもしれない。そう思ったけれど、わたしから離れたテッドは、意外なことを口にした。

「泳いでみましょうか、リイナ。いつも外を見ていたでしょう? 二人で、宇宙を泳ぐのです」

「でも……」

 船外活動は十四歳からと決められているのに、と思ってから、気付く。わたしが十四歳になることはないのだ。

「怖いですか?」

 わたしは俯いた。頷いたつもりだったけれど、顔を上げることができない。怖い、のかもしれない。だって、ママや姉妹たちを奪った空間だ。

 ほの暗い穴の中で、わたしはママの手紙とテッドを掻き抱いて身を竦める。

「だって……テッドは怖くないの? 一度離れたら、二度と戻って来られないんだよ」

「私の推進剤があります。リイナを迷子になんてしません」

「内蔵分がなくなったら、終りじゃない」

「推進剤が切れたら、犬を待ちます」

「犬?」

 その生物名を、記憶の底からすくい上げる。三角の耳をぴんと立てた、鼻と口が尖ったほ乳類だ。母星で絶滅した生き物が、どうして宇宙にいるんだろう、と首を傾げる。

「遠い昔、人間より先に宇宙に出た犬がいたのですよ。その犬のおかげで、人間たちは新たな惑星を探す旅に出ることができるようになったのです」

「その犬が、今も宇宙にいるの?」

「宇宙で力尽きたその犬は今も、宇宙を往く私たちを、いつだって見守ってくれています」

「じゃあ、わたしが宇宙で迷子になったら、その犬が迎えにきてくれるの?」

「ええ。だからきっと、リイナのお母さまもご姉妹も、その犬に導かれた先にいらっしゃいます」

 テッドの優しい嘘の一つだ、と直感的に悟る。それでもよかった。わたしはテッドの言葉に縋る。

「わたしのところにも来てくれるかな?」

「ええ、もちろんです」

「犬が来るまで、テッドは一緒にいてくれる?」

「ええ、いつまでも一緒にいますよ」

「犬が来ても、テッドは一緒?」

「ええ、私はずっと、リイナの傍にいます」

 そう誓って、テッドは冷たい鼻先でわたしの額にキスをした。


   ◆ ◆ ◆

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