第2話 溺れる箱船〈前〉

「そろそろ眠りましょう、リイナ」

 壁に設置されたスピーカから届くテッドの声に促されて、わたしは素直に壁を蹴る。掌に包んだテッドの柔らかい手足は無重力の中を力なく揺れるばかりで、そのくるっと丸まった四肢の先に生えている体の割に大きな爪も、項垂れた首も、寂しいくらい従順にわたしを追随するばかりだ。

 すっかりぬいぐるみと化してしまったテッドの体を引き寄せて、ほわほわとした毛皮に覆われたお腹をぎゅっと抱きしめる。

 テッドの体を、大きな丸い耳と可動関節を有するクマのぬいぐるみを、両腕で抱きしめる。


 テッドを胸に、わたしは頭からベッドに潜り込む。ベッドといっても床に穿たれた縦穴だ。無重力状態のここでは上も下もない。頭上には半球形の窓があって、体を固定するベルトの位置によっては漆黒の宇宙を周囲に見ながら眠ることだってできる。うまくすれば、この救命艇が発する救難信号に気付いて近付いてくる宇宙船を、テッドより先に発見できるかもしれない。

 でも、今のわたしが望んでいる光景は違う。

 わたしは浅く首を傾けてこの救命艇から伸びる翼を見下ろす。受ける宇宙線の種類や濃度によって色を移ろわせる発電フィルムが、この瞬間もわたしを生かすために羽ばたいている。

 魚のヒレみたいだと思う。母船にいたパック詰めの水を泳ぐメダカなんかじゃなくて、母星の広大な水を自由にどこまでも泳ぐ美しい魚たちのそれを、夢想する。

 もっとも、わたしは母星を知らない。わたしのママも、ママのママも、あの母船にいた全員が、もう母星のことを3D映像や数値や文字でしか知らない世代だった。

「テッド……」

「はい、リイナ」

「テッド」

「……どうしました?」

 どうしてテッドの声は壁に埋め込まれたスピーカからしか聞こえなくなってしまったのだろう、とテッドの体を引き寄せて、その頭頂部に口元を埋める。丸い耳がわたしの頬の両側に触れたけれど、以前のように耳を動かしてわたしをからかってくれたりはしない。その小さな手と爪でわたしの髪を梳くことも、短い足で壁を蹴って必死にわたしの後を追いかけてくることもない。

 この救命艇に入ってからのテッドはぬいぐるみ然と、ともすれば死んでしまったかのように、無反応だ。

 唯一テッドの声だけが、変わらずわたしに寄り添ってくれていた。

「テッド」

 わたしはテッドが無重力にさらわれてどこかへいってしまわないようにベルトでわたしの腰とつなぎながら、中綿が詰まった丸い頭に囁く。

「お話して」

「眠りたくないのですか? リイナ」

「テッドの声を聞きながら眠りたいの」

「では、眠り姫のお話をしましょうか」

「ううん」わたしが首を振るのに合わせて、テッドの頭もくらくらと揺れる。「人魚姫がいい」

「昨日も人魚姫でしたよ? 同じ話ばかりでは厭きてしまいませんか?」

「いいの。あれが、いい」

「リイナは水に憧れているのですか?」

「ううん」

 宇宙を泳ぐ救命艇のヒレに憧れているの、とは言わなかった。わたしはテッドの頭に唇を触れさせたまま呼吸を繰り返す。

 虹色に輝く薄いヒレをまとって漆黒の宇宙を泳ぐ自分を、想像してみる。定員五名のこの小さな救命艇の表面を舐めるように、球形の救命艇を護るように、淡い螺旋を描きながら泳ぐのだ。ひんひんと頬を掠めて飛び交う宇宙デブリだって、あのヒレさえあれば難なく避けられる気がする。

 そうしてヒレを得たわたしは家族を捜して、テッドと無限の宇宙を旅するのだ。ひょっとしたら、わたしが産まれるずっとずっと前からわたしたちの船が探し求めていた新惑星にだって辿りつけるかもしれない。

「昔むかし」とテッドがおとぎ話を紡ぎ始める。テッドの声に触れることができるのならきっと、それはとても温かいのだろう、と思える話し方だ。

 昔むかし、それはわたしたちの曾曾おじいさんの、そのまた曾曾おじいさんの、そのまたずっと昔の人たちがまだ、母星の土を踏み締めて生きていたころの物語だ。

 何度も何度でも、わたしが望めばテッドは繰り返し語ってくれる。


 穏やかな双子太陽に照らされた母星の半分は人間が住まう土の大地で、残りは水に覆われた人魚の棲家だった。土の上でしか生きていけない人間と、水の中でしか呼吸ができない人魚。本当なら、顔を合わせることなく一生を終える種族同士だった。

 ある日、人魚のお姫さまは水に落ちて死にかけている人間の男を見つけてしまう。

 人魚は初めて人間という生き物を見た。自分には存在しない二本の足とふくよかな唇と、瞳を隠す瞼に一目惚れをした。自分の肌が焦げてしまうほどの熱を有する人間に、いつまでも触れていたいと願った。その生き物のすべてに、心が痺れた。

 人魚は早速、男を自分の棲家へ連れ帰ろうとした。けれど、水に潜るごとに男は冷たく青白くなっていく。

 だから人魚は、男を土の上に送り届けてあげた。人間を自らの手で壊してしまうのが怖くなったからだ。

 無事に蘇生した人間は、自分を助けてくれた相手を捜し求めた。人魚を見たことがなかった男は、助けてくれた相手もまた自分と同じ人間という種族であることを疑いもしなかった。

 それもそうだろう、とわたしは姉妹たちと観た物語の3D映像を思い出す。長く伸びた胴の先に半透明のヒレを持ち、鈍色の肌に覆われた顔はのっぺりとしていて瞼もない。そんな生物が自分を助けてくれるなんて、考えもしない。

 人魚も同じ考えだった。だから人魚は、人間と同じ容姿を求めた。人魚は自分の声を魔女に差し出し、代りに人間になれる薬を手に入れた。もう一度、あの人間の温度に触れたかったのだ。

 それなのに男は、人間になった人魚に気付かなかった。あろうことか、自分こそが命の恩人だと名乗り出た人間の女の嘘を信じ、その女を自分の妻にしてしまったのだ。

 男のために人魚であることをやめて声まで失ったのに、土に上がった人魚に居場所はなかった。

 それでも人魚は男の傍にい続けた。

「気付いてもくれない相手のために自分の声を捨てるなんて」わたしは首を深く折ってテッドの後頭部に息を吹き込む。「絶対におかしい」

「恋をしていたからですよ」テッドは殊更ゆっくりと、物語の延長めいた語調で応えてくれる。「人魚は人間の男に恋をしたのです。だから人間の男が誰に心を寄せていようとも、傍にいたがったのですよ」

「自分の声を犠牲にしても?」

「私だって、リイナの傍にいるためならば、なんでもしますよ。そういうものです」

 ふうん、と吐息で相槌を打ったけれど、何度聞いたって理解できない。わたしはわたしの声のほうが大切だ。

 そんなわたしを、テッドはスピーカの内から笑う。

「リイナも、もう少し大人になれば、そう願うお相手ができますよ」と。

 露骨な子供扱いへの不満を示すために、テッドの耳に噛みついた。もちろん、歯を立てたりはしない。唇で力いっぱい挟む。母船にいたころならば、くすぐったそうに身を捩っていたのに、今のテッドはされるがままだ。

 テッドの無反応具合が寂しくて、わたしは唇を開いて、柔らかい耳朶に少しだけ歯を食い込ませる。

 それにも気付かない、気付けないテッドは、おとぎ話へと戻っていく。

 人魚を人間に変えた魔女が、平凡な日々に警告を寄越すのだ。

「もし、あの男と結ばれなければ、人間のフリをしているだけのお前は人魚に戻ることもなく、泡になって死んでしまうよ」

 人魚は恐怖した。自分が地上では生きていられない生き物であり、人間とは違う存在なのだと思い出して、今さら震えた。

 怯える人魚に、優しい魔女は生き残る術を教えてあげた。

「恋した相手を殺せば、お前は人魚に戻れるんだよ。また水の中で幸せに生きていけるようになるのだから、迷うことはない」

 魔女に励まされ、人魚は短刀を手にする。それなのに人魚は男を殺せなかった。殺さなかった。

 人魚は、男が幸せに生き続けることを願って、人間の身のまま水に沈んで泡となる。

 結局、なにも知らない人間たちだけが土の上で幸せに暮らしたそうだ。


 別段、この救いのないお話が好きなわけじゃない。船にいたときは、3D映像で再現される水棲生物や大地に心が躍ったけれど、自分からこのお話を強請ったことなんてなかった。でも今は。

「わたしはあと何日、生きていられるの?」

「何日でも生きていられますよ。エネルギーは永久に作り出せますし、備蓄食糧もまだまだあります。リイナは心配せずともよいのですよ。リイナは、私が守ります」

 テッドの優しい嘘に頷きながら、わたしは瞼を閉じる。

 生存環境をほぼ永久に維持できることは事実だ。けれど食糧はそうじゃない。この救命艇には、定員五名が三ヶ月食いつなげるだけの食糧しかない。もっとも想定されている五人は大人だから、子供のわたし一人しか乗っていないこの救命艇ならばもっと生きられる。でもそれだって永遠じゃない。

 そしてわたしは、自分がすでに八歳になっていることに気がついている。

「ねえ、テッド」

「はい、リイナ」

「どうして人魚は、人間を殺して人魚に戻らなかったの?」

 この艇に閉じ込められる前から、何度も繰り返してきた質問だ。

「人を愛していたからですよ」

「自分が死んじゃってもいいくらいに?」

「自分がどうなろうとも、愛する相手が幸せであれば、それだけでいいのですよ」

 ふうん、と曖昧に頷いたわたしに、テッドは喉の奥がガサガサとする低音で、いつも通りの言葉を続けるのだ。

「リイナも、もう少し大きくなればわかるようになりますよ」と。

「わたし、もう……」半秒だけ言いよどむ。「七歳よ」

 テッドがわたしに七歳のままでいて欲しいと願っているのなら、八歳のわたしはいつまでも七歳でいてあげようと思う。傍にいたいと願うのが恋で、相手を幸せにしたいと望むのが愛なら、わたしのこの気持はなんと表現するのだろう。

 微睡みに沈み始めたわたしを、「リイナ」とテッドが優しく呼ぶ。

「大丈夫、リイナは私が守ります。リイナを泡になど、しません」

 守らなくていいよ、と言いたかった。テッドの庇護が欲しいわけじゃない。わたしが今欲しいものはただ一つで、その一つをテッドはくれない。

 薄ぼんやりとした意識を総動員して、瞼をこじ開ける。黄金に輝く救命艇の翼が視界の端に引っ掛かっていた。宇宙という海を泳ぐ、魚のヒレだ。

 魔女は人魚のことが好きだったのだろう。だから人魚の無茶な願いも叶えてあげたいと思った。その先にどんな残酷な結末が待っていたとしても、その瞬間だけは二人ともが幸せに浸れるのだから。

「……テッド」

「はい」

「手を、握って」

 沈黙が、応える。

「ねえ、テッド」テッドの体を強くつよく抱きしめる。「ぎゅってしてよ」

 ごめんなさい、とテッドが弱々しくスピーカを揺らした。まるで、わたしが意地悪を言っているような気分になる。

 やっぱりテッドは、わたしが欲しいただ一つをくれない。ただ一つ、わたしは以前のように、テッドにぎゅっと抱きしめて欲しいだけなのに。

 生温い眠りに引きずり込まれながら、わたしは、テッドの短いふわふわの手足がわたしに触れてくれていたころの夢を探し求める。


   ◆ ◆ ◆

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