さよなら、ライカ〈後〉

 汚れた地球の、それも彼女がいる宇宙を見ることすら叶わない地下都市に取り残された僕は、それでも意外とまっとうに彼女のいない時間を生きた、と思う。

 病院の女性スタッフと結婚して、二人の子供をもうけて、二人ともを成人させてから、離婚した。その間もずっと彼女のことを忘れなかった、と言えば嘘になるだろう。僕が想像していたよりもずっと仕事と結婚生活と育児とは忙しかった。

 だから彼女の宇宙船が還ってくると噂になっても、正直にいえば他人事のように感じていたのだ。帰還式典への招待状が届いたときには心底驚いたりもした。彼女の親類でもない僕が出席するのはおかしい、と言い訳して辞退したけれど、本当は行きたくなかっただけだ。

 僕には、順当にやつれて皺だらけの老人になってしまった僕を彼女に見られることが、耐えられなかったんだ。


 いつも通りの勤務を終えて研究所からの帰路をとぼとぼと独りで歩く僕を、傾いた人工太陽が照らしていた。秩序立ってそびえる鉄塔の影が道をストライプ模様に染める辺りで、僕はふと足を止める。

 影で描かれた一本目の鉄塔を、几帳面に磨かれたローファーが踏んでいた。

 顔を上げることが、できなかった。心臓が大きく脈打って、冷や汗が額に浮かぶ。

「センセ」

 少し拗ねたような、それでいて芯の強さを帯びた、甘えるように語尾を上げる、彼女独特の、懐かしい呼び方だ。

「センセ」

 再び、彼女が僕を呼ぶ。すっかり老いてしまった僕を、あのころと同じように、呼ぶ。

「わたし、帰ってきたよ」

 恐るおそる、視線を這わせる。黒光りするローファー、黒いハイソックス、コロンとした膝とあの頃より少し細くなった太股、そして翻るプリーツスカートと重たそうなダッフルコート。

「……どうして、制服なんだい?」

「ひどいよ、センセ。久し振りに逢った第一声が、それなんて」

 ふふ、と斜光を背負った彼女が笑う。とても楽しそうに、今にも泣き出しそうに。

「もう、とっくに卒業していると思ってたから」

 制服からも僕からも、とは言葉にせず、僕は僕の年齢にふさわしい落ち着きを強く意識して、ようやく逆光の中の彼女の顔を見る。

 変わっていなかった。髪が短くなっているせいか、あのころよりも幼く見えたくらいだ。やっぱり僕より彼女のほうが、魔法使いじみている。

「他に言うことがあるでしょ、センセ」

「おかえり」と言うべきだとわかっていた。彼女がそれを望んでいることも。けれど、素直にそれを口にするには僕はまだ幼くて、老いていた。だから僕は精一杯の意地悪で逃げる。

「君のほうが先に、僕に言いたいことがあるんだろう? 僕は覚えてるよ」

「うん、そうね」彼女は目を細めて、頷く。「わたしも、ちゃんと覚えてるよ。還ってきたら言うって、そう約束したから。だから」

 彼女は胸に提げた一眼レフカメラのストラップから首を抜くと、それを僕の眼前に恭しく掲げた。

「今度はセンセの番だよ。同時に、わたしの番でもあるの」

「……どういう意味かな?」

 僕は僕を見据えるカメラのレンズに首を傾げる。レンズに映り込んだ僕はひどく歪んでいて迷子の子供みたいだ。僕の不安を反映したのか、ストラップまでが所在なさ気に僕と彼女との間で往き来している。

「今度は、わたしがセンセを俟つの。センセが還ってきたら、言うわ。今度こそ、ちゃんと言うの」

「僕はどこにも往かないよ」

 往けないよ、と機械化もできず地表の大気汚染に怯える肺を、服の上から撫でる。

「往けるよ、センセ」

 カメラから離れた彼女の右手が、生まれたままの心肺を隠す僕の手を引き剥がす、寸前で引っ込んだ。

 彼女に触れてもらえなかった僕の掌が少しだけ、晩秋の温度に近付くのがわかった。

 だからきっと、僕に触れることを躊躇した彼女の指が震えていたのも同じ理由だろう、と僕は僕を納得させる。

 二人ともが、この再会に緊張しているのだ。そうでなければ、この地下都市でこれほどの寒さを感じることなどあり得ない。

 彼女はひどく繊細な手つきでライカを握り直して、もう一度「往けるよ」と繰り返す。

「今度は、センセが宇宙に往くの。わたしが往った惑星RD2まで、往復四十年の旅よ。センセが乗る船は大半が一般の、宇宙旅行に対する特別な訓練を受けていない研究者なの。だから、センセみたいに体を機械化していない人でも耐えられる船体設計と旅行計画がなされているわ。片道で十七年もかけるのよ」

「……こんな年寄りの、研究者でもない僕なんかが往っても仕方ないよ」

「仕方なくないよ。わたし、往ってみてわかったの。宇宙船はすごく閉鎖的な空間だから、絶対にカウンセラーによるメンタルケアが必要なんだって」

「ずっと眠ってるのに?」

「半冷凍睡眠状態っていっても、着くまでそのままってわけじゃないのよ。定期的に起きて健康チェックを受けて、ついでに船内整備とか周辺状況の調査とか、通信の中継器を放出したりもするんだから」

「ついでに、のほうが重要な任務に聞こえるよ」

「だって」と彼女はいつかのようにつま先で回って、スカートで円を描きながら僕の指摘に背を向けた。

「センセの仕事は、船員の健康チェックのほうだもの。ついでの任務のほうは、専門家に任せて」

「それはつまり、君に任せるって意味かな?」

 彼女はまた反転して僕に向き直ると、俯いたまま首を振った。でも、鉄塔の影へ落ちる声は弾んでいる。

「わたしは、俟つ側。センセが還ってくるのを俟ちながらお婆ちゃんになるの」

「四十年後の君はまだ、せいぜいオバサンだよ。どう考えたって、僕は還ってくるのが先か寿命が先かって話だよ」

「今のままじゃ、わたしはセンセを看取ってから自分の寿命が来るまで、ものすごく長い時間を一人で生きなきゃいけないじゃない」

 そんなことを恐れるくらいなら、どうして僕を捨てて宇宙になんか往ったんだ! と瞬間的に叫びたくなった。けれどそれは彼女が、そして僕が費やした三十年に対する疑問でもある。だからそれだけは、口にできなかった。

 僕は喉に閊えた衝動を、ため息で解く。

「僕が四十年の宇宙旅行に往っている間、君はどうするの?」

「もちろん地球で暮らすの。センセが半冷凍睡眠と超光速で歳をとらない間に、わたしは同年代の人と恋をして結婚して、子供を産んでお母さんになって、お婆ちゃんになるの。センセと同じくらいに歳を取るの。そうしたら、還ってきたセンセと寿命まで生きるの」

「四十年の宇宙旅行の内、僕が君と同じ時間軸にいるのは何年になるかな。任務次第じゃ僕の寿命のほうが先に尽きてしまうよ。それでも」

 それを望むの? と問う僕を、「わたしはね」彼女がやや強引に遮った。カメラを握る指先が白くなっているのは、力を入れ過ぎているせいだろう。

「今度はセンセに、ライカになってほしいの」

「宇宙で孤独に死んで、空から君を見守る犬かい?」

 彼女は、笑った。皮肉にも寂しそうにも見える不思議な角度で唇の端を吊り上げている。穏やかに流れた風が乱した彼女の髪の隙間から、彼女の表情が垣間見えた。

 その半瞬だけ、軽率な冗談を悔いる。

 けれどカメラを胸元まで下げた彼女はもう、いつも通りの微笑をたたえていた。

「記録するほうのライカよ」彼女はカメラを僕の胸へと近付ける。「センセが乗る宇宙船とか地球の色とか、新しい惑星や半冷凍睡眠中の仲間も面白そうでしょ。いろいろ撮って、還ってきたらわたしに見せてよ、センセ」

「どうして?」と問う声は義務的な抑揚になった。彼女とは違う時間軸で老いてしまった僕は、彼女が過去にこだわる理由をひどく恐れていた。

「どうして、僕が撮らなきゃいけないんだ。君が、そのカメラで、撮っただろ?」

「わたしが見る景色と、センセが見る景色は違うよ」

 彼女は、笑っていなかった。いつの間にか、怖いくらいに真剣な顔になっている。迫る夕闇は僕と彼女を平等に包み始めていた。すっと寒気が骨の芯まで滑り込む。

「だから、センセ。絶対にわたしのところに還ってきて。そうしたら」

 そう、揺るぎのない瞳で僕を見据えて、彼女は彼女によく似た輝きを宿すレンズに僕を映しだす。一眼レフの、宇宙を目指した犬と同じ響きを名に冠したカメラを、僕へと託そうとする。

 僕は彼女に手を伸ばす。カメラを受け取るために、彼女の温もりを覚えておくために、彼女に触れる。

 はずだったのに、僕の指は硬いガラスに阻まれる。彼女はまだ真摯に僕を見詰めている。それなのに、僕は彼女に触れられない。

 僕の爪は虚しく、ディスプレイの表面を掻く。

「今度こそちゃんと、話すから」

 再生された記録映像の彼女は、あのころのままの美しさで、はにかんでいた。


   ◆ ◆ ◆


 静まり返った宇宙船の通信指令室で、僕はただ独りコンソールに向き合って座っている。ディスプレイに囲まれた薄暗い部屋は、まるで僕と彼女が別れたあの地下都市みたいに無表情で、無慈悲だった。

 僕が地球を離れてから地球時間で二十年目、新惑星での調査も終盤に差し掛かったころに、その報せはもたらされた。

 地球が小惑星の衝突によって滅びの危機に瀕している。

 最初は誰も信じなかった。通信誤差である三年と少しの時差を計算し損ねた地球のクルーがうっかりエイプリルフールの冗談を送ってきたのだろう、と一蹴して、僕らは調査を続けた。

 異変を感じたのは半月ほど経ってからだ。あの質の悪い冗談からこっち、ぱたりと地球からの通信が入ってこなくなった。それでも僕らはまだ、楽観的だった。たぶん、信じたくなかったのだ。

 きっと通信の中継器がどこかでイカレたのだろう、と地球への帰還日に向けて準備を進めた。

 そして調査終了日、地球からの通信が回復しないまま、それでも僕らの宇宙船は強引に新惑星を離れて帰路に就いた。

 けれど通信誤差である地球時間での三年が過ぎ、さらに三年が経っても、地球は沈黙を続けた。

 そしてようやく僕らは悟ったのだ。その事実を受け入れざるを得なかった。

 ――僕らは、還る場所を失ったのだ。

 輪番で起きるはずの半冷凍睡眠状態の仲間たちを一斉に目覚めさせ、僕らはこれからどうするべきなのかを話し合った。

 一年の月日と搭乗員の二割、ついでに船体や半冷凍睡眠を管理するアンドロイドの数体を失う暴動の末、僕らは新惑星に引き返すことにした。もし本当に地球がなくなっていたら、燃料の尽きた僕らも地球と心中するしかなくなってしまうからだ。少なくとも新惑星でならば、地球からの連絡を待っていられる。

「センセ」

 不意に背後から女性に呼ばれ、僕は反射的にディスプレイの電源を落とす。名残惜し気な残像を残して、彼女が掻き消えた。

 振り返る前から相手は知れている。この船の搭乗員はみんな、船の外に広がる無限の新惑星の大地へ散っていた。動揺する必要なんてなかったのに、と自分の小心具合に苦笑しながら僕はゆっくりと椅子を回す。

 僕を呼んだ女性が、淑やかに佇んでいた。

 ついさっきまでディスプレイの中で微笑んでいた、十七歳の彼女と同じ顔をした、船体管理アンドロイドだ。

 半冷凍睡眠状態にある人間の管理と、搭乗員たちが眠っている間の船体管理。彼女の時代からそれらはロボットの仕事だった。

 それを限りなく人に近しい形にするように提案したのは、僕だ。

 睡眠状態にあっても人は自らに触れてくれる相手を認識している。それが、地下都市で僕が書いた論文の一部だ。実際、半冷凍睡眠状態から正常に生還する率は、筒型で金属的な外見をしたロボットが同乗していた時代よりも格段に上がった。

 一見しただけでは人との区別がつかないし、触ってみても温かい。開発当初こそたどたどしかった言動も、地球を発つころにはすっかり滑らかになっていた。

 人間の生存は、自らを愛してくれる相手の存在抜きには成立しないのだ。

 そして僕はアンドロイドたちに、もう一つの役割も担わせていた。

 長期間、宇宙船という逃げ場のない閉鎖空間で、そして新惑星の調査隊という変化のない面子同士で、過ごさねばならない人間たちのストレスのはけ口として、僕はアンドロイドに絶対的な従属者としての振る舞いを強いた。無論、さり気なく、だ。僕は意図的に、そして他の搭乗員に気付かれないように、ヒエラルキーを形成することに成功した。

 その最下層が、アンドロイドたちだった。

 彼女の船には存在せず、また必要ともされていなかった制度だ。彼女の記した航海日誌には常に、仲間への信頼と敬愛があふれていた。それは彼女たちが宇宙へ往くために訓練された、最高のクルーだったからだ。

 けれど、僕の乗り込んだ船は違う。ほとんどまともなメンタル訓練を受けず、地球での研究を評価されただけの高慢で非協力的な連中ばかりだった。

 恥ずべきことに、僕はアンドロイドを虐げさせることで、ストレスが暴力に変換され人間同士へ向くことを防いだのだ。

 新惑星への移住が半ば強制的に完了し、宇宙船という閉鎖空間から解放された今となってはもう、ヒエラルキーだのアンドロイドだのといった存在は必要とされていない。にもかかわらず今もなお、それは僕の傍にいる。

 僕だけじゃない。船から新しい大地に根を下ろした人々の多くが、これまで虐げ見下げてきたアンドロイドを手元に置き、愛した。まるで失った故郷への思慕を埋めるように。

 そうして、彼らと同化していった。

 今、この惑星に住む人々のほとんどが、体のどこかしらを機械化している。体を丸ごとアンドロイドと取り替えてしまった人も少なくない。

 この惑星の環境が過酷だったから、という理由は聞こえてこなかった。ただなんとなく、柔らかい肉に包まれたままでは心が保てないと感じたから、という漠とした感情論で、彼らは自らの肉体を放棄していたのだ。

 最近ではめっきり子供も生まれなくなった。人としての肉体を手放した僕らは、同時にこの長い旅の目的である繁栄すら投げ出していた。

 僕は彼女のアンドロイドを見上げて、いつもと同じ質問を口にする。

「地球を出て、何日かな?」

「地球時間で一万四千四百七十五日です、センセ」

「……そうだったね」

 本当なら今ごろ、お婆ちゃんになった彼女を抱きしめていたのに、と埒もないことを考えながら、僕は自らの掌を見る。空っぽだ。

 僕は顔だけで彼女が映っていたディスプレイを振り返る。その隣に鎮座する黒い一眼レフのカメラを、見る。

 彼女の、カメラだ。

 二十四枚撮りのフィルムは、二十三枚目までが埋まっていた。彼女が望んだとおり、地球を出てこの惑星に辿りつき、二つの小さな太陽が浮かぶ鈍色の空を仰ぐまでの過程が収められている。

 最後の一枚は、とうに決まっている。それを撮る勇気が僕にないだけだ。

 僕はカメラに手を伸ばしかけて、やめる。あのころと少しも変わらない。意志薄弱な僕は、まだ迷っている。

 引っ込めた空っぽの掌に自嘲を落とした。そのとき。

「センセ!」

 緊張をはらんだアンドロイドの声と、警告音が重なった。

 あまりにも久しく聞いていなかったアラームだったから、僕は思わずコンソールから飛び退く。固定式の椅子に足を引っかけて無様に転びかけた僕を、アンドロイドが力強く支えてくれる。けれど、それに構っている余裕はなかった。

 コンソールの一点が忙しなく明滅している。

 ――CALLing.

 ぽかん、と口を半開きにして立ち尽くす。惑星外からの通信だ。

「センセ」

 アンドロイドが、僕を促している。でも動けない。こんなことがあっていいはずがない。だってもう地球はないんだ。彼女は来ない。それなのに。

 アンドロイドのしなやかな指が通話ボタンを押し込んだ。人間に逆らわないはずのアンドロイドが、僕の躊躇を無視して回線を開く。

 ざ、とディスプレイに砂嵐が走った。断片的に色が差し込まれ、画像が結ばれる。寸前で、僕はアンドロイドの腕を振り切ってコンソールの下にへたり込む。

『……ち、は……』

 死角となった通信ディスプレイから女性が切れぎれに呼びかけてくる。

 その声に、思わずアンドロイドを振り仰いだ。違う、僕のアンドロイドじゃない。けれど頭上から降ってくるのは聞き覚えのある、聞き間違えるはずもない、彼女の声だ。

 僕は両手で口元を覆う。息を殺して、万が一にも彼女の声を聞きもらしたりしないように耳を澄ます。

『こちらは、地球脱出艇MK弐式です。現在、本船はRD2を目指して航行中であり』

 彼女の声が降り注ぐ。ざらざらと雨みたいなノイズが彼女を彩っている。地球を脱してなお、彼女は僕に地表を思い出させてくれる。

「彼女こそ」僕は掌の中で呻く。「魔法使いだ」

「いいえ」

ぎょっとした。アンドロイドが僕を見下ろしている。その背後ではまだ、彼女がなにかを話し続けている。

「わたしは」

『我々の船では』

「魔法使いなどではありません」

『二千五百名が半冷凍睡眠状態で』

「センセこそが」

『生きています』

「わたしたちに命を吹き込んだ」

 どちらが僕のアンドロイドで、どちらが彼女の声か、わからない。美しく共鳴した彼女の声が、僕の頭に反響する。

 唐突に通信が、送られてきていた彼女の声が、ぶつりと切れた。気が付けば、僕の拳が通信機の電源ボタンを叩き割っていた。

 やや驚いたように沈黙したアンドロイドが、瞠目する。

「センセ?」

「僕は、魔法使いなんかじゃない」

 アンドロイドが、体ごと僕に向き直る。いや、彼女が、僕を見ている。同じ顔と同じ声と、十七歳のまま老いない体の、彼女だ。

「センセが、わたしたちに命をくれたのですよ。彼女の命を、わたしたちにわけ与えてくださったのです」

 覚えておいででしょう、とアンドロイドは僕の拳を柔らかく退け、再び通信ディスプレイを起動させる。

 再び現れた彼女が、『あの』と少し恥じらうように俯いた。

『センセはまだご存命でしょうか。お逢いできると信じて、楽しみにしています』

「わたしたちはみんな、無条件にセンセをお慕いしているのですよ。センセがそう、わたしたちにプログラムしたのですから」

 ぐらりと世界が揺らいだ、気がした。僕はコンソールに手をついて体を支える。その指先に、カメラが触れた。冷たい筐体が、けれど僕から遠ざかる。

 アンドロイドが、それを胸の前で握り締める。あの日、宇宙から還ってきた彼女がそうしたようにカメラを僕に――いや、違う。あれは彼女じゃない。だって。

 彼女は、還ってこなかった。

 僕は震える手で映像の再生ボタンを探る。息を吹き返したディスプレイが、地下都市の夕闇を背負って微笑む彼女を蘇らせる。

「これは」アンドロイドが、彼女と同じ表情で告げる。「彼女を演じた、わたしですよ、センセ」

 そうだ。そうだった。忘れていた。忘れたいと願って記憶の奥に封じていた。

 彼女は還ってこなかった。カメラを僕に届けたのは、移住計画に携わっていた女性スタッフだ。

 彼女が飛び立ってから十四年目の夏、僕には彼女の死の報せと遺品たるカメラが届けられた。彼女はカメラを、万が一自分が還ってこられなかった場合に備えて地球に置いて往ったのだ。

 二十七枚撮りのフィルムは全て現像されていて、彼女の家族らしき男女と男の子が映っていた。最初の数枚はピンボケで枚数を重ねるごとに光を自在に操った美しい画へと変っていった。

 二十六枚目は、僕だった。朱色の光に照らされた間抜け面の僕だ。彼女の告白を拒んだ、残酷な僕が閉じ込められている。

 そして最後の一枚に、彼女がいた。誰かにシャッターを切ってもらったらしく、幾分ボケている。灰色の宇宙服に包まれて、腰に黄色いトラのぬいぐるみをぶら下げた彼女は、ホワイトボードを掲げていた。マジックで書かれた大きな文字が滲んだのは、写真のピントではなく僕の涙のせいだろう。

 大好き

 たった一言だった。そのたった一言を、僕はもう聞けないのだ。僕が臆病だったばかりに二度と、聞けないのだ。

 彼女は惑星への往路で、息絶えた。半冷凍睡眠状態からの復帰に失敗したのだ。

 惑星の色も知らずカプセルの中で孤独に死んだ彼女は、規定に則って柩ごと放出されてこの惑星の大気圏で燃え尽きた。彼女の最期に寄り添ったのは、両目を×印に刺繍されたトラのぬいぐるみだけだったらしい。

 僕はカメラを抱いて立つアンドロイドに、彼女の偽物に、笑いかける。

 不思議そうにアンドロイドが首を傾げた。

「彼女は、ずっとここにいたんだね」

「彼女は、わたしたち全機の中にいます」

「違うよ」僕は伸ばして、彼女の手ごと黒い筐体を撫でる。「彼女はずっと、この惑星の空から僕を見ていてくれたんだ」

 僕は彼女の手をカメラから解いて指を絡ませる。

「センセ?」

「僕を、外に連れて行ってほしい。空の下に行きたいんだ」

「……センセの体で、この惑星の重力下を歩くことは叶いません」

「そうかもしれないね」

 僕は自らの腕を眼前に掲げる。皺だらけの枯れ果てた、老人の手だ。機械化もせず無重力の宇宙で何十年も甘やかされた僕の肉体は、この宇宙船内の低重力下でしか満足に動かせない。

「それでも、答えなきゃ。いい加減、待たせすぎたからね」

「どうして」アンドロイドが、まるで人のように顔を歪めた。「どうして今なのですか。今日まで忘れて生きてこられたではないですか」

「だって、地球の生き残りが来るんだろう。彼女は、人がこの惑星で繁栄するための過程で死んだ。これでようやく、彼女の旅が意味をなす」

「わたしは……」プログラムで制御されているアンドロイドの声が尖る。「わたしたちは、センセが生きていてくださればそれで!」

「君は彼女じゃないよ」

 機械の手が強張るのがわかった。それに気付かぬふりで、僕はアンドロイドが持つ彼女のカメラにもう一方の手を添える。

「ねえ、君。シャッターを頼んでもいいかな? 最後の一枚を、埋めよう」

 アンドロイドは、なにも言わなかった。頷いたとも俯いたとも思える角度で顔を伏せ、僕の杖となるべく身を寄せてくる。

 大きなキャンバスを用意しよう。この惑星の肌いっぱいに、彼女への答を書こう。

 この惑星の空に解けた彼女はきっと、地球の青さを知らずに死んだ犬を胸に抱いて、僕を俟っているはずだから。


                          ――あの日の続き

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