さよなら、ライカ

藍内 友紀

第1話 さよなら、ライカ〈前〉


「今日、言うって決めてたの」

 明日には脱いでしまう高校の制服を翻して、彼女は僕にそう宣言した。

 彼女を照らすオレンジ色の斜光が眩しくて、僕は彼女のダッフルコートの裾から覗くプリーツスカートのひだを無心に数えてみる。彼女には明るい色がよく似合う。似合いすぎて、直視できないくらいだ。

 いじけた僕を、彼女の胸元から一眼レフのカメラが確固たる輝きでもって見据えていた。彼女の首に提げられているそのカメラは、いつだって持ち主たる彼女の瞳と同じ強さを有している。

 逆光に表情を隠した彼女が笑っているのか泣いているのか定かにはわからなくて、わかりたくもなくて、僕は夕日に埋没する鉄塔たちの骨組みへと視線を逃がす。

 前時代の、まだ人間の重立った生活圏が地表にあったころの、遺物だ。かつては無数の鉄塔同士をケーブルで繋ぎ、地方で作った電力をはるか彼方の都市まで届けていたらしい。

 それも宇宙からの無線給電を実現した地下都市にあっては無用の長物だ。そのくせ飾り物の鉄塔は地上にあったときと同じ姿で行儀よく電線を張り巡らせ、地下都市の端から端までを裁断している。

 汚染された大気と強すぎる宇宙線から逃げたこの地下深くの町で、低い人工の空に迫る身長を維持している鉄塔は、もはや未練というより執念と呼ぶべきだろう。人類が地上を覆っていた証として残された繁栄の形見であり、墓標だ。

 僕はちらりと彼女の学生鞄を窺う。そこに吊るされた小さなトラのぬいぐるみが、×印の両目で僕を牽制している。彼女が纏う高校の制服やコートのきれいさに反して、そのトラは随分とくたびれていた。

 当然だ。あのトラは僕が彼女に出逢う前、彼女がまだ家族というものに囲まれていたときから、ずっと彼女に寄り添っているのだから。

 彼女は二つの形見を、いつも身に着けている。一眼レフの高級カメラと、手縫いのトラのぬいぐるみだ。

 ふっと僕らをすり抜けた冷たい風に促されて、僕はようやく口元を緩める。

「今日?」

「うん、今日。ずっと決めてたの」

「ずっと、って?」

「ずっと。初めてセンセに逢ったときから、ずっと」

 はは、と笑いが漏れた。「初めて逢ったとき」と彼女の言葉をなぞる声が、冬に向かう季節に相応しく乾いているのを感ずる。

 随分と昔の、どう考えたって好ましくない出逢いを思い出しながら、僕は苦笑を深める。唇の表面がいやに引きつれて、ぴき、と割れた。

「君はまだ七つの子供だったのに?」

「七歳のわたしにとって、センセのお話は魔法の呪文だったの」

「十二時になると効果が切れるやつかい?」

「センセはずっと、いつだって、わたしを助けてくれる魔法使いよ」

「僕は、そんな荒唐なモノじゃないよ」

「今はわかってるわ。わたし、もう十七歳よ」

「まだ、十七歳だよ」

「センセが魔法を使えないってことがわかるくらいには、大人よ」

 彼女は不機嫌そうに鼻を上向かせると、高慢にも見える挙動を裏切る弱さで「もう、大人よ」と繰り返す。

 彼女のアンバランスさが愛おしくて、けれど怖くもあって、僕はせり上がる感情の全部を噛み砕くように一音ずつを舌から生む。

「三十四歳の僕から見れば、十七歳の君は充分、子供だよ」

「センセっ!」

 尖った彼女の非難が、いつも通りの発音で僕を呼ぶ。彼女は僕だけを、「先生」ではなく「センセ」と、わずかに語尾を上げて呼ぶのだ。


 実際のところ、僕が彼女の先生だったことは一度もない。彼女の主治医は僕の指導教官であり、僕はたくさんいる先生の教え子の一人に過ぎなかった。

 だから、僕の先生の狭苦しい研究室で彼女と出逢ったのは、ある意味において運命とも呼べなくもないのかもしれない。

 分厚い参考図書と雑多な書類がうず高く積み上げられた先生の部屋は要塞じみていて、たった一人で黄色いスポンジが覗く合成皮革のソファーに取り残されていた彼女は、捕虜になったお姫さまみたいだった。ソファーの足元に置かれた黒いランドセルの擦り切れ具合が、錘付きの足枷を連想させたせいかもしれない。

 その様があまりにも不安そうだったから、僕は廊下へ引き返しかけた足を止めて部屋に踏み入ったのだ。

 彼女を怯えさせないように眉を下げた笑顔を作りながら、僕は「先生は?」と首を傾げて見せる。

 ふらりと彼女の髪が揺らいだ。知らないらしい。

「困ったな」

 僕は腕に巻いた携帯端末の時間と壁時計と、手にした研修レポートとを順に眺めて嘆息する。提出期限は明日までだから、本当はあまり困らない。

 けれど、と僕は後手で扉を閉める。といっても礼儀として細く隙間を空けておくことも忘れない。小学生といっても女性は女性だ。

「僕も、一緒に先生を待ってていい?」

 彼女は肩を震わせて、ソファーの一番端っこまで大げさに身を寄せた。痩せた体がさらに縮んだように思えた。

 ショックな反応ではあったけれど、僕は努めて優しい表情を取り繕ってソファーの端に腰を下ろす。

 彼女と僕との中間地点の床に、黒いランドセルが要塞めいて置かれていた。前時代的な背嚢は、その中身を紙の教科書からタブレット型コンピュータと護身用武器に詰め替えてなお、しぶとく生き残っている。

 その側面に吊られたトラのぬいぐるみが×に刺繍された目で僕を威嚇している。やんちゃな男の子に酷使され続けたようなランドセルに負けず劣らず、トラもまた擦り切れてくたびれた様子だ

「えっと……」

 一緒に待つ、と言った手前、僕は必至に話題を探す。もっとも、小学生の女の子と接する機会など皆無に等しい僕に、切り出せる話題なんて端から限られている。

「……何年生?」

 じろり、と湿った視線で睨まれた。

 それでも諦めの悪い僕は視界に入るものを順に見廻して、一番近くにあったそれに的を絞る。

「ランドセル、黒いんだね。僕の時代は妙にカラフルなのが流行ってて、僕は白だったなぁ。よく汚して帰って母さんに怒られたっけ」

 ぐっと顎を引いて、彼女は肩を怒らせた。どうやらランドセルの話題は好ましくなかったらしい。

 難しい、と首筋を掻いて、僕は次の話題を探す。すぐに、彼女の首に添った黒いストラップが目についた。辿れば、胸元に小さな箱がぶら下がっている。

「そのカメラ、君の?」

 彼女は俯きを深くして、まるで僕にそれを奪われることを危惧するようにカメラを両手で抱き寄せた。

 確かにカメラに興味はあった。だって、今では骨董店でだって取り扱っていないようなフィルム式だ。さらに黒い筐体の上部に記されている機種名は、公務員の平均年収数年分に匹敵する。古美術に明るくない僕がわかる程度には、広く知られた貴重品だった。

 無自覚な下心を見透かされた気分で上半身だけを彼女から遠ざけながらも、せっかく見付けた話題の尻尾は手放さない。

「『ライカ』だよね? カメラの王様だ。現物なんて初めて見たよ」

 彼女の返事は、ソファーの縁にローファーの踵を引っかけて膝を抱えることだった。彼女の体と太腿とに挟まれてカメラが隠れてしまう。もっとも、引き攣れたスカートの裾が眩しくて思わず顔を伏せた僕には、あまり関係のない変化だった。僕の妙な焦りを感じ取ったのか、手にしたレポートまで項垂れ気味にしている。

「……初めて衛星軌道から地球を見下ろした犬も、『ライカ』って名前だったんだよ」

 彼女が少しだけ首を伸ばした。大きな瞳を閃かせて、けれど絶対に僕に興味を抱いたことは悟られないようにと注意深く息を殺している。まるで甲羅の中に退避していた亀が外界を伺うような調子だったから、僕はそっと息を吐いて話を続ける。

「まだ人類が地表だけで暮らしていた時代だよ。人間は地球上だけじゃ満足できず、宇宙にまで活動領域を広げようとしていたんだ。でも当時のロケットは打ち上げ後に緩い放物線を描いて落ちてくる、弾道飛行だった。ボールを投げるみたいに、宇宙の裾を掠めて落ちてくるだけの低くて短い宇宙旅行だよ。だから誰も……どんな生物も、かな? とにかく、地球の丸さを体感したことはなかったんだ」

 話が進むにつれて、彼女ははっきりと僕を見詰めはじめる。もう僕への無関心を装うつもりはないらしい。胸にくっついていた両膝はソファーを捉えているし、カメラだって無防備に姿を現している。

 不意に、あのカメラは現役なんだろうか? と考える。画像を記録するためのフィルムはもう随分と前に製造を中止していたはずだ。電子データに対応できる仕様に改造している風にも見えない。常識で考えればただの飾りだ。

 でももし、と僕はそっと自らの胸を押える。彼女が記録媒体すら造られなくなったカメラを愛用しているのだとすれば、人工心肺機能を移植できず地下に引き籠るしかない僕も誰かに必要とされる存在になり得るのかもしれない。

 急に体温が上がったことを自覚しながら、僕はなに食わぬ顔で「そのカメラはね」と彼女の骨董品へ顔を向ける。

「その犬を讃えて造られたものなんだよ」

 嘘だった。犬よりもカメラのほうが先に生まれているし、そもそも綴りからして違う。彼女のカメラはそれを造ったドイツ人技師の名前を冠したものだ。一方、宇宙に往った犬の名はロシア語であり、それにしたって軍事機密扱いだったせいか諸説ある。

 けれど彼女は、僕の嘘を信じたらしい。何度も大きく頷いて、頬を紅潮させている。

「地球の丸さを知る最初の生物となるために何匹も候補犬が集められて、何ヶ月もかけてたくさんの訓練を課せられて、優秀な犬だけが勝ち残っていった。少しずつすこしずつ」僕は肩幅くらいに開いた両手をゆっくりと狭めて、掌を合わせる。「犬たちは小さなケージに移されていったんだ。狭いロケットの中でもパニックを起こさないように、閉鎖空間に慣らすためにね。最終的に一匹の雌犬が選ばれた。それが」

 彼女の靴先が黒いランドセルに当たった。不満顔でトラが身を揺すったけれど、彼女は気にも留めていない。

 だから僕は彼女が握るカメラに向かって、合せていた掌をぱっと広げる。

「『ライカ』だ」

 僕は言葉を切る。彼女の食いつきっぷりを考えれば促しがきてもおかしくはない。僕はそれを待っていた。正直に言えば、期待していた。だってまだ、この部屋に入ってから一度も彼女の声を聞いていない。

 でも、彼女はくるっとした瞳に光を湛えたまま、沈黙していた。

 三秒、四秒と壁にかかったアナログ時計の秒針だか心音だかが僕を急かす。カメラのレンズまでもが好奇心に満ちた視線で僕を苛むようだ。

 はっ、と喘ぐように息をついて、僕は早々に降参した。彼女が近づいてきた距離の分だけ尻をずり下げて、それを誤魔化すために自らの手首に巻いた携帯端末を弄りながら話を続ける。

「当時はね、未開の地の権利は先に手を付けたほうのもの、って考え方が横行してたんだ。だから大国はこぞって自国の人間を宇宙に送り込もうとしていた。宇宙の裾を掠めて落ちてくるボールなんかじゃなく、地球の全てを眺め下ろす、必要なら敵国のはるかな高みから一方的に攻撃を降らせることが可能な、衛星軌道を周回する兵器を造りたかったんだよ」

 彼女が不快そうに顔を斜めにするのがわかったけれど、僕は淡々と携帯端末を検索サイトにアクセスさせる。はずだったのに、圏外だった。大学病院の片隅にあるこの部屋はよく通信不良が起こるのだ。仕方なく携帯端末から巻き込み式のディスプレイを引き出して、僕は保存してある画像ファイルを展開する。

 人類で初めて人を月へと到達させたロケットがまさに地球を捨てようとする瞬間を捉えた画像、灰色の砂地に刻まれた靴跡、漆黒の宇宙に浮かぶ真っ青な地球が三日月状に欠けている様。何十枚かの画像をすっ飛ばして、僕はようやくそれに辿りつく。

 冗談みたいに大仰な炎と煙を大地に吹き付けて飛び立たんとする、太いロケットだ。こんなに派手な仕掛けをしておいて宇宙を巡るのは先端の尖った部分だけだというのだから、当時は随分と資金と物資が余っていたのだろう。

「ライカは純粋に、誰よりも早く、地球を見下ろす旅に出た」

 ディスプレイから顔を上げた彼女の顔は綻んでいた。だから僕はたっぷりと二呼吸も彼女を焦らしてから、努めて冷ややかに告げる。

「片道切符でね」

 彼女が青褪める。対して、淡い加虐心を得た僕の口は滑らかに回転し続ける。

「ライカが乗せられた船は、大気圏の再突入に耐えられるものじゃなかった。初めからライカには、地球を離れて十日目に毒餌が与えられることが決まっていたんだ」

 ひゅう、と風音を漏らして、彼女は自身の首を掴み締めた。まるで彼女自身が毒を飲み込んでしまったようだ。

「でも、ライカは毒を食べなかった」

 僕の気休めにも、彼女はただ艶やかに潤んだ目を大きく開いて沈黙を守り続けている。

「打ち上げしばらくして」口の中が妙に渇いて、発音が不明瞭になった。「ライカの心拍が異常に上がった。ストレスだよ。小さなケージには慣れていても、打ち上げ時の轟音や振動、加Gにパニックを起こしたんだろうね。悪いことに、機体の不備も重なった。地球の重力から解放されたころ、四十度を超えた機体の中でライカはたった一匹で息絶えた。地球の青さを」

 観ることなく、と結ぶことはできなかった。彼女の目からこぼれた涙の透明度に、僕は息を呑む。

 彼女は、孤独に死を迎えた犬の代りに同じ響きの名を持つカメラを抱いて、声もなく泣いていた。

 彼女が洟を啜りあげる音が、直接僕の背筋を駆けた。はっと我に返る。いつの間にか僕の掌が、僕の意識を置き去りに彼女の頬を包んでいた。

「あ」と間抜けな声が出た。

 応じて、彼女は「ひう」と弱々しい嗚咽を溢す。眉間に皺を寄せて、彼女は大粒の涙を溢れさせては洟を啜る。

 今さら、ひどい罪悪感が喉の奥に滲む。レポートの束が僕の膝を見捨てて床に広がった。僕がソファーから立ち上がったせいかもしれない。どちらが先だったのかなんて覚えていない。僕は、彼女の涙から逃げ出した。

 勢いよく閉めた扉に背を預けて、数秒廊下に立ち尽くす。

 ばくばくと心臓が騒ぎ立てていた。額に滲む汗を拭おうと上げた手が、涙の名残に湿っていた。その掌で、僕は口元を覆う。

 乱れた彼女の顔が、頭から離れない。僕の些細な嘘が、彼女の胸に我が物顔で居座っていたカメラに呪いをかけたという事実に、震える。

 間違いなく、僕は歓喜していた。けれど、それが狂気に近い感情だと理解する程度にはまだ、マトモだった。だから僕は深く息を吸って、拳の中に彼女との短い時間を封じ込めて、普段通りの僕へと戻っていった。


 それが、僕と彼女との出会いだった。

 可能ならば『なかったこと』にしてしまいたいほど恥ずかしい過去は、残念ながらそれでは終らなかった。

 その三日後、僕は僕の先生に呼び出されて研修レポートにA+という不相応に高い評価を貰い、ついでとばかりに彼女との再会も果たすこととなった。

 それから十年間、僕と彼女はただの知人としては親し過ぎる、けれど友人としては遠い距離を保って付き合ってきた。少なくとも僕はそう思っていた。

 だから、どうして彼女が僕に、しかもこんなタイミングで告げたいことがあると言い出したのかがわからなかった。

 当時と同じライカを首から提げて、当時より随分と大きく美しく成長した彼女は、当時を彷彿とさせる子供っぽい膨れっ面で僕を上目に睨めている。

 その容赦のない視線を避けて、僕は彼女の鞄で間抜け面をしているトラのぬいぐるみに「どうして」と独り言に近い声量で救いを求める。

「どうして、今日なんだい? 明日にはもう君は地表にいて、明後日には南の島に行って……三週間後には地球にすらいないのに」

 僕はこの地下都市でしか生きられない人種だ。すり鉢状に地中に潜り、浄化装置が組み込まれた分厚い天井で蓋をされたこの閉鎖空間内に循環する空気にしか、僕の肺は耐えられない。

 でも、彼女は違う。

 大気中の有害物質を濾過する人工気管支が、容赦なく地表を焼く強烈な宇宙線を緩和する強化培養皮膚が彼女を、いや、彼女に続く新世代を地表へ戻そうとしている。僕のように機械の体に拒絶反応を起こしてしまう旧人類を柩めいた地下都市に閉じ込めたまま、彼女たちは再び地表へ返り咲こうとしているのだ。

 だからきっと、僕が彼女の視線を正面から受け止められないのは、そんな彼女に対して羨望とも嫉妬ともつかない感情を抱いているせいだろう。

 そんな僕の醜い内面など知らぬ風に、彼女は揃えた両のつま先でくるりと回った。プリーツスカートの裾が、地球を周回する人工衛星みたいな楕円軌道に広がる。

「だから、今日なの。今日言わないと、センセはわたしを忘れちゃうでしょ」

「忘れないよ」

「忘れるよ!」彼女の悲鳴は、けれどすぐにため息の延長になる。「十七歳も年下の子供のことなんて、忘れちゃうよ……だから」

 彼女は自らの肩を擦って、夕闇にそびえる鉄塔を見上げた。ひょっとしたら一月もせず自分が乗ることになる宇宙船を重ねているのかもしれない。宇宙はおろか地表にだって簡単には出られない僕には想像もつかない領域だ。

 僕はそっと拳を握る。彼女の細い肩に手を伸ばしてしまわないように、彼女を地下世界に引き留めたりしないように、強く自分を戒める。

 生まれたままの心肺機能しか持たない僕と、汚染された地表に適応した人工心肺を有する彼女とでは、見た目こそ同じだけれど所詮は全く別の生き物なのだ。

「センセ」

 彼女の、懇願にも近い囁きに顔を上げる。翻る髪のしなやかさが、まるで彼女を空へと攫う翼のようだ。

「わたしね」

 続く言葉を聞きたくなくて、同じくらい聞きたくて、僕は息を止める。

 強い風が吹き抜けた。地下世界を洗う、空調だ。きっと埃とカビの臭が僕らを包んでいる。

「センセ?」

 彼女の吐息が僕の掌を温めた。僕の本能に従った右手が、僕の理性など振り切って彼女の口元を覆っている。

「ごめん。でも」

 聞きたくないんだ、と情けなく呻くことは、幸いにも免れた。彼女が、僕の手を引き剥がして自らの頬に押し当てたからだ。全神経が彼女の柔らかさに集中する。十年前と違って今日は、濡れていない。

「センセ、あのね」

「君は」強引に彼女の言葉を遮った。「残酷だ」

「……うん」

「僕を……地球を、捨てて往くくせに」

「センセに、新惑星の双子太陽を見せてあげたいの」

「太陽が二つもあったら、焼け死んじゃうよ」

「大丈夫よ」ふふ、と彼女は大人びた笑いをこぼす。「それを証明するために、わたしは往くの」

 君がいないなら、この地下都市でだって僕は死んでいるようなものだよ。なんて陳腐な言葉が前頭葉に堰き止められて、頬が熱くなった。自分の女々しさに眩暈がする。

 そんな僕に、彼女はゆっくりと、懺悔をする速度で告げるのだ。

「センセに、空を見せてあげたいの」

「僕はここの天井で満足してるよ」

「うん、センセはそうかもしれないね。でもわたしが、センセを本物の空の下に戻してあげたいの。センセが、わたしに言葉を取り戻させてくれたみたいに」

「……僕は、なにもしていないよ」

 僕はただ、カメラの王様と哀れな犬との因縁を捏造しただけだ。

 僕が初めて出逢ったときの彼女は、言葉を失っていた。目の前で両親と弟を亡くしたショックで声の出し方がわからなくなっていたらしい。あの黒いランドセルは六歳を待ちきれなかった弟が両親に強請ったもので、それを買った帰り道に車が土砂に呑み込まれ、彼女は冷たくなっていく弟の手を握ったまま、たった一人孤独に生き残ったのだ。

 そして、孤独な犬の最期に涕泣したことをきっかけに、少しずつ言葉を取り戻していった。僕の研修レポートに付けられた過大な評価はそのまま、彼女へのショック療法の評価だったというわけだ。

「あのころはみんな、わたしを不発弾みたいにしか扱ってくれなかったでしょ。でも、センセは違った。それが嬉しかったの。わたしに意地悪して、からかって……そういう普通の扱いが、センセがわたしにだけ特別に掛けてくれる魔法みたいに思えたの」

「君の症状を知っていたら、もう少し気を遣ったよ」

「ううん」と彼女は首を振る。柔らかくうねる彼女の髪が藍と朱を彷徨う人工の空に映えて、ひどく美しい。

「気遣ってほしくなんてないの。わたしは、一緒がいいの。センセと、一緒がいい。センセと、同じ場所で生きていたいの」

「宇宙に往くくせに」と詰りかけて、やめる。

「わたし、知ってるよ。センセがどうしてあんなにたくさん宇宙の画像を持ってたのか。本当は宇宙飛行士になりたかったってことも、知ってる。センセが、本当は地表に憧れてるのも、知ってる」

「君のほうが」辛うじて苦笑を装うことには成功した。「よっぽど魔法使いみたいだね」

「わたしはセンセの王子様になるの。わたしがセンセを空の下に連れて行ってあげる」

「君が惑星探査から戻るころにはもう、僕はおじいちゃんになってるよ」

「ならないよ」ふふ、と彼女は息を漏らす。「たった三十年よ」

 その長さを笑ってしまえるのは、彼女が若いからだ。そして彼女が、残して往く側だからだ。

 地球できっちり三十年分老化する僕とは違い、宇宙を翔る彼女はその時間の大半を半冷凍睡眠状態で過ごす。さらに彼女を内包した宇宙船は二ヶ月かけて緩やかに光速を超え、一年後には光速の三倍に達する。彼女が僕と同じ速度の時間軸にいるのは、人類の叡智を結集した速度で片道十四年もかかる惑星に到着してからの、地表調査を行っている間の二年少々にすぎない。

 つまり三十年後、二十歳そこそこの外見を保った彼女と六十四歳の僕とが対峙することになる。その想像だけで自殺してしまえそうだ。

 けれど、彼女の無神経にも近しい無邪気さを黙って許容してあげるくらいしか、大人の僕がしてあげられることはない。

 僕は断頭台の罪人にでもなった気分で、彼女の微笑を見詰める。

 そんな僕の悲痛な覚悟ごと、彼女は自らのカメラを両の掌で包み込んだ。

「センセ、わたしね、ずっと言いたかったの」

「……うん」

「ずっと、今日言うんだって決めてたの」

「うん」

「だから」彼女は半歩、僕から遠ざかる。「還ってきたら、聞いてね」

 数秒、なにを言われたのか理解し損ねて、僕は瞬きを繰り返す。

 シャカン、と軽い音に僕はようやく「え?」と間抜けに応じる。ちょうど、彼女がカメラを下げるところだった。

「撮ったの?」

「うん」彼女は悪戯っぽくはにかむ。「センセ、ひどい顔」

「撮られるなんて思ってもなかったから……油断してたよ。そのカメラ、現役だったんだ」

 十年間、僕は彼女がそのカメラを使っているところを見たことがなかった。てっきり鞄にいるトラと同じで、形見の品として彼女の胸にぶら下がっているだけの存在だと思い込んでいた。

「フィルムを節約してたの」

「なら、今撮らなくてもいいじゃないか。もっとちゃんとした顔で、君と一緒に写ったほうが」

「いいの。これはセンセへの罰だから」

「罰?」

「そう。今日、わたしの話を聞いてくれなかったセンセへの、ささやかな嫌がらせ」

「ごめん、聞くよ。ちゃんと今日、聞く」

「いいの」彼女はカメラの輪郭を指先で辿りながら、下唇を舐めておどけた口調になる。「だってセンセ、ひどい顔してるんだもん。わたしのほうの勇気が、なくなっちゃった」

 彼女の唇と瞳の輝きだけが、急速に暮れていく世界の中で鮮やかだった。

 本当は聞いてあげるべきだ。年長者である僕が水を向けて、彼女が話しやすいようにうまく導いてあげなきゃいけない。頭ではそう思っているのに、僕の心は彼女の優しさに縋りついた。「そう」と頷く動作に露骨な安堵が滲んでいて、我ながら嫌になる。

「ねえ、センセ」彼女は緩く腰を折って僕を見上げる。「今日は言わないから、約束して。私が還ってきたら、今度こそ聞いてくれるって」

「聞くよ」

 絶対に、と心の中だけで誓って、僕は「だから」と別の言葉を口にする。

「必ず還っておいで。ライカは君のカメラだけで充分だよ」

 ふふ、と彼女は僕の揶揄に笑って、けれど少しだけ頬を引き締めて僕の冗談に付き合ってくれた。

「もしわたしが死んだら、ライカみたいに大気圏で燃え尽きて、宇宙からずうっとセンセを見守っていてあげるわ。だから」

 生きていてね、と囁いて、彼女は僕の前からいなくなった。


   ◆ ◆ ◆


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