ノイジィ・ララバイ〈中〉
ニカが試験管を漂う白い繊維状のタンパク質に変質したころ、彼女の弟たる男の子の解凍作業が完了した。
アラームに急かされて、僕は四つきりの塩基で構成されたニカの遺伝子を保管室に入れる。すでに先客が二百人以上いるのだから、寂しくはないだろう。新惑星に到達するまでには、カプセルで眠っている人間より試験管に保管された遺伝子の方が多くなっている可能性だってある。
レフが帰ってこなければ、そうなる可能性は高い。なにしろ彼は、担当の人間を死なせたことがない。
レフは、特別だ。だから彼は、地球を発ってからずっと、十年以上も意識をリセットされることなくこの船に君臨し続けている。最長老だ。
僕は遺伝子保管室を出て、解答質を目指す。長い廊下を早足に歩くついでに、中央コンピュータからその男の子の情報を取り寄せた。
――エフセイ・テレシコワ、八歳の男の子で、数学者でもある。
数学者? と首を傾げたけれど、彼の短い経歴を見て納得した。
彼は六歳で大学卒業相当の資格を取得し、新惑星への移住計画にも参加している。冷たい眠りに就いて地球を脱したのは、八歳のときだ。
八歳――僕の年齢と同じだ。僕はこの体に宿ってから八年で八人を看取った。今から会う男の子は同じ時間で数学者となり、滅び逝く地球から姉を連れ出した。
この差はなんだろう。これが新たな惑星を拓くべき人間と、人間を新惑星へ届けるためだけに造られたアンドロイドとの違いなんだろうか。
どうして人間のために造られた僕らは人間を看取ることしかできないんだろう。
苦々しい気持ちになって、僕は歩調を緩める。こんな気持ちで、夢から目覚めたばかりの男の子に姉の死を知らせるべきじゃない。そう判断できるくらいには、僕の感情プログラムは優しく組まれている。
踵を返して、僕はニカが眠る安置予備室へと行先を変更する、はずだったのに。
角を曲がった途端に、レフがいた。
いつ戻ったんだ、と中央コンピュータに問うことも忘れて、僕はレフの前に立ち尽くす。
レフの存在が不意打ちだったばかりじゃない。僕は、彼が大事そうに両腕で抱えているモノに、唖然としたんだ。
子供の死体、だった。宇宙服もなしに宇宙空間に投げ出されたのか、骨と皮ばかりに干乾びて凍った手足がスリップドレスから生えている。
そう思ったのに、死体が首を巡らせた。
恐怖なんて感情を持たないはずの僕が半歩後退るに足る、衝撃的な光景だった。靴の踵が廊下をこすって、いやな音を立てた。僕の悲鳴を代弁してくれたのかもしれない。
死体が、いや、痩せ細った女の子が、じっと僕を見据えている。もつれた長い髪は、ついさっき保管室に入れたニカの遺伝子みたいに細い。うねったその隙間で光る瞳も、ついさっき死んだばかりのニカと同じ、碧だ。大きな頭と小さく尖った顎、くすんだ白い肌。どう考えても人間としての生存限界を超えた、死体に近しい外見だ。
そんなモノを平然とそれを抱えているレフが、不気味だった。
「ほら、イサイ」
レフが、僕を呼ぶ。どうして彼が微笑んでいられるのかが理解できなくて、僕は返事をし損ねる。
「挨拶をして。彼女はリイナ」
彼女? その動く死体が、彼女? 生きている人間だというのか?
僕は中央コンピュータにレフの行動記録を照会する。
――救難信号を受けて、船外活動を敢行。人間の少女を回収。
「人間の……」
その言葉だけで、僕に刻み込まれた本能が作動した。
僕はゆっくりと姿勢を正して、レフとの三歩を詰める。腰を折って、瞳ばかりがぎらぎらと輝く少女と顔の高さを揃えて、最大級の優しさをこめて、囁く。
「リイナ。ようこそ、クドリャフカ号へ。僕はイサイ。人間たちを新惑星へ導く、アンドロイドだよ」
そう告げた瞬間、「ニカが」と頭蓋の内でレフの声がした。無線通信だ。少女を抱えたレフの顔には温厚な笑みが張り付いているのに、僕に届くのはどこまでも硬質な電子音声だ。
――死んだんだね。
残念だよ、と僕の脳内に直接響くレフの低く冷たい声と、少女を見下ろすレフの表情が、ぞっとするくらいに対照的だった。
「ほら、リイナ。イサイにも彼を紹介して」レフの共通語は、初めて耳にする訛にまみれている。「ずっと彼女を守ってくれていた騎士だよ」
レフに促されて、リイナが体を捻った。白いスリップドレスの腹に埋もれていたものが露わになる。
毛むくじゃらの、熊だった。熊といっても地球を闊歩していたほ乳類とは少し異なっている。膨れた腹を抱えて直立二足歩行するのが似合いの体型にデフォルメされた、かわいいやつだ。立たせれば僕の膝くらいの身長はありそうだ。四肢の先に突き刺さった銀色の三本爪だけが、四足歩行の熊を再現した大きさと鋭さを備えている。
「……テッド」と少女の指が熊の耳を引っ張った。自らの騎士を示すには不釣り合いな、沈んだ顔だ。いや、少女の異様な風貌がそう思わせているのかも知れない。
僕は「よろしく」と微笑みながら、無線通信でレフに可能な限り沈痛な声音を送る。
――ニカはまだ、常温保管中だよ。死亡は確定してない。
――エフセイを迎えに行くよ。
僕の言い訳を無視して、レフは腕に抱いたリイナを僕へと差し出した。同じように抱えろ、ということらしい。
数秒、僕は戸惑う。寝ぼけた人間を抱き起こしたことはあっても、その体を抱き上げたことなんてなかった。
注意深くレフの腕の角度と筋肉の動きを観察してから、恐るおそる手を伸ばす。
ずしっとした重みが来た。油圧式筋肉が大慌てで力の入れ方を再演算に掛けて、なんとかリイナを落とす前に立て直す。ガリガリの女の子のどこにこんな質量が詰まっているのかわからない。骨格が鉛でできているのかと思いかけて、気づく。
重さの中心は、リイナの腹でくたばっている熊のぬいぐるみだ。ざっと二十キログラムはあるだろう。下手をしたらリイナと同じか、それ以上の体重を有しているかもしれない。
僕は慎重に、動揺を悟られないようにレフに背を向けながら、腕の中で身じろぐリイナに「君は」と囁く。囁いてから、なんと続ければいいのかわからなくて黙り込んでしまった。どうしてそんなに細いの? と訊くのも失礼だし、その骨格はどうやって作られたの? と訊いたところでどうしようもない。だからといって、他に尋ねたいことなんて思いつかなかった。
びょう、と掠れた風音が顎の下からして、僕は視線を下げる。
「……イサイ」
僕の名だ。それ以外にもなにか話しかけられたけれど、聞き取れなかった。中央コンピュータとのつながりをオンラインにして、リイナの言葉を脳内でリプレイする。
中央コンピュータの優秀な通訳機能が、戸惑った。瞬き二つ分という長い時間の後、ようやくリイナの使用言語が特定される。
――訛のひどい、共通言語。
あれ? と僕は二時間ぶりにニカが眠る安置予備室の大きな窓の前を歩きながら、首を傾げる。どこの訛か特定されなかった。珍しいことだ。中央コンピュータには方言を含めて実に五千二百の言語がインプットされている。
だから、僕の名前以外を聞き取れないリイナの言葉が共通語だったなんて、コンピュータの判断ミスとしか思えなかった。
僕は中央コンピュータ経由でレフにアクセスする。ピリっとした緊張感があったけれど、拒まれなかった。僕がレフの記憶からリイナの発音の癖をダウンロードする二秒の間に、レフはもうニカの弟と話し始めたようだ。レフの言語野が活性化したことで、それがわかる。
「さっき言ったこと」
共通言語なのに、レフから受け継いだ発音はまるで知らない言語のようで舌がもぞもぞした。擬似唾液で口腔内を湿らせてから、再び口を開く。
「さっき君が言ったことを、もう一度教えてくれないかな。今度はちゃんと聞き取れると思うから」
ぱっと顔を綻ばせて、リイナは勢いよく僕を見上げた。馴染みのあるイントネーションに、ほっとしたのだろう。
「イサイにも、お礼が言いたかったの。わたしを助けてくれて、ありがとう。この船は、わたしとテッドを迎えに来てくれたんだよね」
「僕は……」
いや、僕だけじゃない。レフ以外の乗員のほとんどが、リイナの救出に反対した。船の針路は〇.一度だって変わっていない。リイナが助かったのはただの偶然と、レフが船の規則を破ったおかげだ。ここで告げられるべきはお礼などではなく、恨み言であるべきだった。
そんな懺悔ができるはずもなく、僕は曖昧に微笑んで黙る。リイナの腹で両手を垂れる熊のぬいぐるみが、僕を見透かすような視線寄越していた。
摂氏十九度に保たれた安置予備室へと踏み入ると、部屋の中央に据えられたカプセルが僕らを迎えてくれた。たった一基きりの柩だ。僕だけが死人を出した無能者なのだ、と突きつけられている気分になる。
無能者の意識は、消されやすい。人工知能の自己認識が初期化される基準は開示されていないので、これは僕の憶測にすぎない。けれど、死者数ゼロのレフが最年長なのだから、間違ってはいないだろう。
僕はリイナを抱いたまま、ニカの柩を覗き込む。つるっとしたガラス蓋に、僕とリイナの間延びした顔が映り込んだ。
「お姫さまみたい」
リイナの発想が理解できなくて、僕は陰鬱な気分を取り繕うこともできないまま「お姫さま?」とオウム返しをする。
「柩で眠るお姫さまは、王子さまのキスで目覚めるんでしょう?」
「ああ」
そんなおとぎ話もあったね、と頷きながら、ニカの白くひび割れた唇を見下ろす。
残念だけど、彼女が目覚めることはないだろう。千人に一人くらいは、常温保管中に蘇生する人間もいるらしい。宇宙空間に放出される寸前で危うく息を吹き返した人間の記録だって、他船の出来事ではあるけれど、残っている。でもそれは本当に稀な、語り継がれるくらいに貴重な事態だ。
「彼女は……たぶん、起きてくれないよ」
「どうして?」
「……僕が担当した人間たちはみんな、夢の世界の住人になることを選ぶんだ」
「イサイは王子さまじゃないの?」
笑いそうになって、けれど窓の外を横切るレフの長身に気づいて表情を引き締める。
ひん、とスライド式の扉が開く音がした。やけにゆっくりとした足音が近づいてきて、僕の腰くらいの背丈しかない男の子が、隣に立つ。
――エフセイ。僕と同い歳の、天才数学者だ。
じっと、なにを言うでもなく、彼は生命活動を停止させて眠るニカを見下ろしている。浅くて早いエフセイの呼吸音ばかりが安置予備室に漂って、溺れそうだ。
彼の背に寄り添ったレフが、その薄っぺらくて小さい肩に手を置いた。そのとき。
「この子が、王子さまなの?」
まるで緊張感のないリイナの声が、した。
ぎっとエフセイの剣呑な眼光が、僕ごとリイナを射た。その視線だけで僕の神経回路を焼き切ってしまえそうなくらいの感情が透けている。
それなのに、リイナは怖じる様子もなく柩とエフセイを見比べた。
「ねえ、王子さま」リイナは、なぜか細すぎる腕で熊のぬいぐるみをエフセイへと差し向ける。「お姫さまを起こすキスを、してみせて」
エフセイの答えは、拳だった。僕はとっさに体を斜めにしてリイナを庇う。けれど、そんな必要はこれっぽっちもなかった。
「お前が!」エフセイの甲高く尖った悲鳴が、僕の腰に叩きつけられる。「お前がニカを殺したんだ! お前がちゃんとニカをみてないから! ニカを返せ! 人殺し! お前が殺したんだ。お前が、ニカを……」
怒声が萎んで、すすり泣きになった。エフセイの嗚咽が部屋の湿度を上げる。僕を叩く小さな手も汗ばんでいる。俯いた彼の髪の隙間から、真っ赤に色づいた耳朶が僕を責めていた。
僕を責める遺族は、彼で三人目だ。別に珍しいことじゃない。夢から覚め切れず、ぼんやりと肉親の死を見送るよりずっと健全な反応だ。
そう理解しているのに、どうしてか腹の底が重たくなった。人間がそうであるように、僕は彼の言葉に傷ついている。気分が落ち込む、というやつだ。
いや、エフセイの激し過ぎる感情をデータとして適切に処理できないせいだろう、と僕の願望混じりの不快感を宥める。これまでのどの遺族より、彼の悲しみは僕の情動プログラムをかき乱していた。
そんな僕の困惑を突いて、リイナが身じろいだ。反応しきれず、重たい熊のぬいぐるみごと彼女を滑り落としてしまう。
つま先から着地したリイナは、そのまま膝から崩れ落ちた。上体すら人工重力に引かれて床へと迫る。辛うじて滑り込んだリイナ自身の両腕も、無力にひしゃげた。体中に枷をはめられた囚人みたいに、リイナは柩の根元にへばりつく。
「え」と驚いたのは、エフセイだった。
「な、んで? え、ごめん。怒ってないから。あんたを責めたわけじゃないだろ。なんであんたが」
泣くんだよ! とエフセイ自身が泣き喚いて、膝を折る。リイナの隣に座り込み、生白いリイナの首筋に額を押しつける。
でもリイナは、泣いていなかった。困惑したような顔をしながら、エフセイの体を杖に体を起こす。
きっとリイナもエフセイも、互いに互いの状況を理解できていない。言葉だって、通じていないだろう。それなのに二人は小さな体を引き寄せ合って、支え合っていた。
「エフセイ」レフも膝をつき、二人の子供を自らの胸に抱き寄せる。「彼女はリイナ。彼女はね、自分の船を宇宙デブリに壊されて、家族をみんな失ってしまった。彼女はたった一人で長い間、無重力の救命艇で生きていたんだよ」
レフの袖口を、エフセイの小さな手がぎゅっと握り締める。
「リイナにとって、この船の人工重力は一人で背負うには重たすぎる。だから、誰かが彼女を支えてあげなきゃならない」
わかるね、と紡がれたレフの滑らかな共通語は、次いで訛のきついリイナ用の言葉へと変じる。
「リイナ。彼はエフセイ。眠っているお姫さまは、ニカだよ。ニカはね、エフセイの唯一の家族だったんだ」
「レフもイサイも、エフセイの家族でしょ? こんなに大きな船なんだから、わたしよりたくさんの家族がいるはずよ」
「確かに、同じ船に住む人たちを家族と呼んだりもするけれど、エフセイが亡くしたのはもっと、特別な家族なんだよ。血のつながった、きょうだいだ」
「わたしの姉妹たちみたいに?」
「そう。けれどニカは死んでしまった」
「眠っているだけでしょう?」
「もう、起きない眠りなんだよ。だからエフセイも、君と同じように寂しいんだ」
はっとした。レフの言葉に打たれたように、僕は床の三人を見下ろして立ち尽くす。
僕は、寂しいんだ。担当していた人間が死んでしまったからじゃない。それによってレフの、僕に対する評価がさがってしまうことが予測できたからでもない。
僕は、ニカともエフセイとも、僕とお揃いの機械の体に宿ったレフとですら、同じ悲しみを共有できないことが、寂しかったんだ。
「エフセイもリイナも」レフの言葉は訛のない共通語へと戻る。「大切な人を亡くした悲しみを抱えているんだ。同じ感情を共有できる、きょうだいなんだよ」
エフセイの小さな頭が声もなく上下する。半冷凍睡眠の名残なのか、感情の高ぶりで吹き出した汗のせいか、しっとりと濡れた髪が電光を反射して艶やかだった。
僕だけが間抜けに突っ立ったまま、三人を羨んでいる。
不意に、レフが顔を上げた。怒っているようなその表情で、僕はようやく自分の口から漏れている電子音に気づく。
この船に唯一残る、音楽だ。歌の失われた、死者に贈るには不似合いな明るい曲調が、嘆く三人の頭上に降る。
「イサイ」
「ニカの歌だ……」
咎めるレフの語調を、エフセイの呟きが遮った。
そうだったっけ? と僕は電子音を組み合わせた曲を垂れ流しながら、ニカを思い出す。思い出そうとする。
二年前に一度、さらにその三年前にも、僕はニカを冷たい夢から目覚めさせている。
人間を導く存在に相応しく、僕は解凍され瑞々しい瞼を開けた彼女に「おはよう」と呼びかけた。長すぎる夢のせいで上手く人間としての立ち居振る舞いを思い出せずにいる彼女に、優しく手を伸べて緩やかな重力の下を歩かせたはずだ。そしてその、歌うために編まれた美しい声を聞いた。確かに聞いた、はずなのに、欠片も思い出せない。
あまりに膨大なルーチンワークのせいで、僕の記憶野は個人こじんの情報をアーカイブの奥底に仕舞いこんだ挙句、不要な情報として消去してしまっていた。
僕は曖昧に笑って、少しだけ声量を絞る。
無感情な電子音のどこにもニカの気配はない。口遊ぶ僕ですら彼女の存在を明確には覚えていない。
それでもエフセイが、僕たちが守るべき人間が、慰められるならそれでよかった。
不意に、拙い音階が僕の旋律を追ってきた。
ぎょっとする。この船から失われて久しい、歌声だ。
リイナが、不思議な言葉で歌詞を添えている。未発達の声帯から紡がれる歌はひどく調子外れで不格好で、それ故僕たちアンドロイドには逆立ちしたって真似できそうもなく、美しかった。
僕は唇を閉じて、黙る。リイナが贈る葬送歌は厳かで、明るい電子音なんかで邪魔していいものじゃない。
代りに、エフセイが低く呟くように、リイナの旋律を追いか始めた。自動翻訳機能なんてないはずなのに、言葉の通じない二人はニカのために、たどたどしいながらも同じ歌を紡いでいく。
最後の一音を送り出して、リイナが喘ぐような咳をした。
「ママがね」
ぞう、と水音混じりの咳の合間から話すリイナは、床の上で折り畳んだ脚の上に座らせた熊のぬいぐるみを撫でる。生命の枯渇した枝葉めいたリイナの体とは対照的な、もこもことした毛皮を纏う熊のぬいぐるみこそが彼女のママだといわんばかりだ。
「教えてくれたの。キスをしても起きない寝ぼすけさんには、歌ってあげるんだって。ママもね、ママのママから教えてもらったんだって。そのママも、ママのママのママから教えてもらって、ずっと前のママから、そうしてるんだよ」
「そう」と頷いて、レフはリイナの長い髪を指先で梳く。そうしておきながら彼は無線通信で僕の頭の中に直接、声を吹き込んできた。
――リイナは歌える。
その機械的な抑揚に、僕は言いしれぬ不安を覚える。
僕は無線ではなく、人工物である声帯を震わせて「そうだね」と答える。
エフセイが怪訝な顔で僕を見上げたけれど、当のレフは僕の存在すら抹消してしまったように無反応だった。
だから僕は僕の肉声で、リイナに通じる抑揚を選んで続ける。
「君は、リイナをニカの代りにするつもりなんだ」
驚いたように、ようやくレフが顔を上げた。ついでに素早く膝を伸ばして立ち上がる。彼は僕から柩に眠る歌姫を庇うように体を斜めにして、目を眇めた。
「君は」今度は馴染み深い共通言語で、エフセイにも通じるように繰り返す。「ニカの代りに、リイナに歌わせる気なんだ」
「そうだよ」
レフの即答に、僕だけでなくエフセイも息を呑んだ。はぐらかしや言い訳を予測していた僕の思考回路は数秒、機能不全に陥る。
そんな僕の無能さに、レフは慈愛すら感じられる微笑を浮かべた。優雅な仕草で腰を折って、手を伸べて、床の上からリイナをすくい上げる。
「リイナは歌える。僕らに歌を教えてくれる。そうだろ? リイナ」
滑らかな共通言語を受けて不思議そうな角度で首を捻ったまま、それでもリイナは頷いた。
「どうして」エフセイが涙の余韻を帯びた息遣いだ。「その子がニカの代りになるんだよ」
「歌えるからだよ」
「ニカだって歌える」
「もう、歌えない。ニカは地球の歌姫だった」レフは恍惚とした、アンドロイドらしくない口調で、呻く。「でもここは宇宙だ。この船に、彼女のファンはいやしない。地球の歌姫なんかにはなんの価値もない。人間は、地球を捨てて新たな惑星を求めた。だから彼女もまた、捨てられるべきなんだよ」
わかるかい? とレフは目を眇めてエフセイに、幼子に物事を説く口調だ。
エフセイの頬から血の気が引いた。白くなった頬が戦慄いては、癇癪を起したように引きつれる。それなのに、エフセイはどんな反論もしなかった。いや、できなかったのだろう。そんな彼に、レフは容赦なく言葉を浴びせ続ける。
「彼女は、自分が歌姫であることに拘っていた。ファンのいないお姫さまなんて、滑稽なだけなのに。歌姫じゃない彼女は、存在すらできやしない。だから僕が、彼女のファンになってあげたんだ。君が、彼女のファンになってあげなかったからだよ、イサイ。この船で彼女の声を愛し、認めてあげていたのは僕だけだった。だから彼女を生かしていたのは、僕なんだ。でも、彼女は死んでしまった。やっぱり彼女の価値は、地球にしかなかったんだ」
エフセイは、今や完全に無表情になっていた。瞳はレフを透過して、どこでもない虚空を映している。半開きになった唇は無為に呼吸を繰り返すだけだ。
僕は素早くエフセイの小さな頭を抱き寄せる。これ以上ニカが、彼の唯一の肉親が、レフに侮辱され否定されるところを見せたくなかった。
床についた膝から嫌な冷たさが僕の体液を凍らせていく。半冷凍睡眠に落ちる人間は、こんな不快感を耐えているんだろうか。
僕は反論を無線通信に切り替える。
――ニカは、無価値なんかじゃない。
――僕らがいなけりゃマトモに起きられない人間に価値があるとすれば、それは僕らの存在理由としての価値だけだよ。
――僕らは人間のために造られたんだ。人間たちこそが、僕らの存在理由だ。人間あっての、僕らだ。
――それは、地球での原則だ。今、この船で、いったい誰が僕らを監視管理しているというんだい? 僕たち眠ることなきアンドロイドこそが、人間を管理してやっているのに。
思わず、肉声が漏れそうになった。レフの発言は、明らかに自らを人間より上位だと認識している。明らかな、エラーだ。
僕は秘匿回線を使って、中央コンピュータに警備ロボットを要請する。万が一、船で人間同士の争いが起きた場合に備えて配備されている暴動鎮圧用のロボットを、呼び寄せる。
エラーの出たアンドロイドは、破棄しなければならない。
そんな僕の行動など知る由もないレフは、さらに無線通信を送ってくる。
――この船では僕らが、人間の生死を決める神さまだ。
カミサマってなんだ、と思ったけれど、それを検索している余裕はなかった。レフが警備ロボットの動向に気をやらないように、彼の意識を僕につなぎとめておかなければならない。
――傲りだよ、レフ。僕らは人間を夢から起こす、王子さまでしかない。
――キスをしても死人を起こせない、王子さまかい?
レフからの返答は、明らかな嘲笑だった。そのくせ、ニカに向けられた顔はとても慈愛に満ちている。
エフセイが不安そうに頬を歪めた。僕がこっそりと敢行している計画もレフの狂気も、人間であるエフセイには伝わらないはずなのに、彼は僕の腕をつかむ指先に力を込めた。
そんなエフセイの頭を一撫でして、僕は彼の小さな体を解放する。少しでも彼の不安を取り除いてあげたくて、僕は僕に蓄積されている表情データの中から一番優しい笑顔を呼び出した。表情筋が忠実に仕事をしてくれることを、こんなにも願ったのは初めてだ。
「忘れないで。君のお姉さんは、みんなの歌姫だった。この船で唯一の、歌姫だった」
「これからは、リイナが」
「これからも!」
レフを強引に遮って、僕は汗で湿ったエフセイの額に自らの額を合わせる。彼の頭蓋骨の丸さに、直接僕の声を響かせる。
「君が忘れない限り、ニカは一番の歌姫であり続ける」
「意味が……よく、わからない」
「誰も、ニカの代りにはなれない」
「それは、わかる」
口の中で転がすように応じたエフセイに頷いて、僕はレフの腕に納まっているリイナに触れる。凍っていない、熱いくらいの体温が僕の感覚センサを刺した。どこかがショートしそうだ。
僕は慎重に片腕だけでその細すぎる体を奪い取る。
意外にも、レフは素直にリイナを手放した。重たそうに両腕をもたげて、リイナは僕の肩につかまる。
今度こそ力加減を誤らないように細心の注意を払いながら彼女を胸に抱く。湿った彼女の吐息が僕の顎先に触れて、離れていく。
僕はおとぎ話の王子さまのように膝を折ってリイナの足を床に下ろしてから、僕の肩をつかむリイナの小さな手を、指一本ずつ解いた。
焼け付くようなリイナの熱がエフセイにも伝わればいい。そう思いながら、エフセイの掌にリイナの手を握らせる。
〇.八Gに屈したリイナの体が崩れ落ちた。互いに縋り合うように、エフセイもまた床に逆戻りだ。僕の影が薄く二人を包んでいる。
「少しだけ、待っていて」
留守をよろしく、とリイナに抱かれた熊のぬいぐるみを軽く小突いてから、僕はレフに顎をしゃくる。
表に出よう、機械は機械同士で話すべきだ。無線通信を使う必要もなく、僕の視線だけで、レフは踵を返す。
すれ違う一秒の間だけ、レフは僕を見詰めた。いつも通りの穏やかな笑みが浮かんでいた。人間を愛して止まない、誰も死なせたことがない、最優秀アンドロイドに似合いの表情だ。
けれど僕にはわかる。もう気づいてしまった。レフの目元に滲んでいるのは、薄暗い固執でしかない。それも人間に対する執着ではなく、自己に対する偏愛だ。
不意に袖口を引っ張られて、ハッとした。
見下ろせば、エフセイの頭がある。きつく俯いているせいで表情はわからない。それでもそのふっくらとした頬が力んで盛り上がっていることは見てとれた。ニカを侮辱されたことに憤っているのか、僕とレフの間に漂う不穏さに怯えているのかは判別できない。夜の廃墟に連れて来られた子供が母の手を離すまいと必死になっている様に似た、緊張だった。
僕はそっとエフセイの髪を梳いて、「大丈夫だよ」と囁く。
「大丈夫、すぐに戻ってくるよ。戻ってきたら、歌を教えてよ」
大きなエフセイの瞳が露わになった。涙を湛えた美しい眼球に映っている僕は、情けないくらい不安そうな表情をしていた。
唯一の肉親を失ったばかりのエフセイに気遣われる程度には、僕もレフが醸し出した変貌に怖気づいているのかもしれない。
でも、と僕はエフセイに映る僕を観察しながら自らの表情を整える。人間に安堵をもたらす微笑と声音とを選択する。
でも僕は、レフを告発できる。多数決の原則に反してリイナを助けに行ったことは、人間を助けろという僕らに科せられた絶対命令から考えれば問題にはできない。けれどレフが、自らを人間の支配者として考えているなら別だ。
リセットされるべきは、レフだ。
仄暗い優越感が沸き上がる。
僕はまだ、眠らない。地球を出てからずっと最優秀だったレフを、劣等生を八年やってきた僕が断罪するんだ。
僕は僕を留めるエフセイの指先に、「大丈夫」と繰り返す。自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「僕だって、ニカに歌ってあげられるようになるよ。君とリイナと僕で、ニカを送ってあげよう」
磁気嵐のただ中へ、とは言葉にせず、僕はエフセイの手を解いてレフの後を追う。
「いって、らっしゃい」と僕を送り出してくれるエフセイの声は、スライド式の扉によって廊下と安置予備室に分断された。
◆ ◆ ◆
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