第4話 水底の二人〈前〉

 部屋の暗さは気にならなかった。傍らにあるコンピュータのディスプレイが眩しいばかりに手元を照らしてくれている。ただ、寒さだけはどうしようもない。打ちっ放しのコンクリートに横たわる二歳の妹は、もう「寒い」と訴えることすらやめていた。

 妹が静かになってどれくらいが経つだろう、とオレはかじかむ手で握った鉛筆の黒に、ぼんやりと考える。いや、考えようとして、それが無意味だと思い出す。

 オレ自身がもう、時間の経過など把握できていない。

 けれど、とスチール椅子の上で抱えた両足を揺すって、ついでに机の上に散乱していた計算紙の束を床に落とす。ふわりと空気をまとって広がっていく白は、まるで母のウエディングドレスの裾みたいだ。

 もっとも、母が誰のためにウエディングドレスをまとっていたのかは、覚えていない。母がそれを着たのは、オレはまだ二歳のときで、妹にいたっては母の腹の中にいた。オレの四歳の誕生日の夜、酔って暴れた母が勢いに任せてぶちまけた写真の中にドレス姿の母がいたのだ。

 七歳に今日まで、オレが貰った唯一の誕生日プレゼントは、その写真の中の母だった。

 白くて柔らかそうなドレスに身を包んで、見知らぬ誰かかと見紛うほど美しく柔和な微笑みを浮かべた母を、今でも鮮明に思い出せる。

 決してオレや妹に向けられたことのないあの表情を、ディスプレイを埋め尽くすプログラムの奥に想い描く。

 きっと、こうしてプログラムを解析し続けていれば、いつかはオレや妹にも、あの白に包まれた折と同じ優しさを持つ母が現れるのだと、祈るように妄信する。

 刹那、コンピュータの画面が瞬いた。

 はっとする。これまで解いてきた数列が、すっかり消え去っていた。

 画面の向こう、銀行のセキュリティプログラムが更新されたのだ。それは、オレと妹が閉じ込められたこの冷たい密室を開く鍵が書き換えられてしまったことを意味する。

 くそっ! と唾棄して、ディスプレイに拳を叩きつける、寸前で思い留まった。

 万が一ディスプレイが壊れてしまったら、オレたちは二度とこの部屋から出られなくなる。

「あなたが、妹を助けるのよ」そう囁いた母の、げっそりと削げた頬の青白さが蘇る。「あなたがそのプログラムを解けば、部屋の鍵は開くわ。あたしの口座をお金でいっぱいにしてくれれば、あたしたちはお腹いっぱい食べられるの。あなたの頭脳だけが家族を、妹を救えるのよ」

 王子さま、と掠れ声でオレを呪った母は、垢と脂で薄茶色く変色したコートを着ていた。お姫さまの純白のドレスからはほど遠い、眠り姫たる妹を喰おうと目論む魔女の装いだ。

 一度だけ頭を振って、母の幻を追い払う。

 今は、この寒い牢獄から妹を救い出すことに集中しなければならない。オレは王子さまなんだから、妹を救い出せるはずだ。今までだって、そうしてきた。いつか、魔女になってしまった母の呪いも解いて、お姫さまに戻してあげることだってできるはずなんだ。

 オレは机から叩き落とした計算紙をかき集めて、再びコンピュータディスプレイに向き直る。無数の英文と数字が、揺らいでいた。

 寒さと空腹のせいだ。母が残していった簡易栄養管理食は食べ尽くしてしまっている。

 この閉ざされた部屋から出なければ食べ物は手に入らない。出るには、このプログラムを解くしかない。二時間以内に解かなければまた、プログラムが書き換わってしまう。でも見えない。数字の羅列が一本の線に塗りつぶされていく。どうしよう、どうすればいいんだろう。オレが解かなきゃ、妹が死んでしまうのに。オレは、オレだけは、妹の王子さまでいなけりゃいけないのに。

 解かなきゃ、と指先が跳ねる。助けなきゃ、と気ばかりが焦る。それなのに、瞼が落ちてくる。目を開けていられない。寒くて、体が震える。寒い、さむい、さむい。

 唐突に光が差した。どうしてだろう。プログラムは一行だって解けていない。それなのに、扉が開いていた。

 逆光に縁取られて、長いドレスの裾が翻る。

 母さん、と呼んだ声が、音にならない。凍り付いたように指一本すら動かない。

 そんなオレを、白いドレスをまとった母が抱きしめた。皮膚から染み入る温もりに、急激な眠気が噴きあがる。首筋から香る優しい甘さが、ひどく懐かしい。

「ごめんね」オレの耳朶にドレスの女が囁く。「遅くなって、ごめんね」

 これは母じゃない、とオレの心が悟る。でも、じゃあ誰だろう。母以外にオレたちを助けに来てくれる人なんていない。母だけが、死に近しくなったオレたちを助けてくれるのだ。

 いつも、いつも、いつも。次のプログラムを解くために、オレは母に生かされる。


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