最終話 彼女の惑星

 最近、地底湖のほとりに生物の痕跡が発見されたらしい。

 らしい、というのは僕自身が確かめたわけじゃないからだ。そろそろ百歳になろうかという僕の体はもう、一.二Gの重力を有するこの惑星を自由に歩き回れない。『彼女』を模したアンドロイドに支えられて、宇宙船から大きなクヌギの下までゆっくりと、それこそ一時間もかけて歩いてくるのがやっとだ。

 朝、クヌギの下に座った僕は一日をそこで過ごして、夕方にはまたアンドロイドを杖にして宇宙船に戻る。

 僕が背を預けるこのクヌギは、僕らの宇宙船がこの惑星に到達したときにはすでに生えていた。クヌギ、というより、クヌギ群と呼ぶのが正しいのかもしれない。

 途中で折れてしまっていた一本を中心に、十数本が絡み合って巨木を構成しているのだ。

 芯となっている最長老のクヌギの木は、折れていなければ軽く三十メートルは突破していただろう。炭素測定で、ざっと二、三千年前にはすでに発芽したと推定されている。さらに最近になってその遺伝子を採取分析してみたところ、地球に自生していたものと同種だということまでわかった。

 事前報告とずいぶん違うじゃないか、と乗り合わせた研究者たちは不平をこぼしていたけれど、僕にとっては木の年齢なんてどうでもいい。木陰を作ってくれるありがたい存在だということには変わりない。

 他にも事前調査隊からは報されていなかったことがいろいろと判明し始めていた。

 筆頭が、この惑星の自転速度が変化することだ。それに伴う重力と公転速度の変化、当然公転軌道も変わっていく。のろくなったり速くなったり、変化周期は数百年単位だと予測されている。だからおそらく事前調査隊はこの事実に気づくことすらできなかったのだろう。彼等を責める気はない。どのみち僕は、この惑星の速度が変わる前に寿命が尽きる。

 数日前から研究員たちは、クヌギが見下ろす丘の先で新たに発見された生物の痕跡を調べに出払っていた。

 研究員たちの拠点となっている宇宙船の傍にいながらこんなに静かなのは、そのせいだ。誰だって死にかけた地球出身の老人よりも、未知の惑星で死に絶えてしまった生物のほうに興味を抱くものだろう。

 だから僕は、膝の上に抱えた一眼レフのカメラを撫でながら、宇宙とつながる透明な空を仰いで一日を過ごすのだ。

 汚染され切っていた地球では決して見られなかった、美しい青空が僕を見下ろしている。

 ――センセに、本物の空を見せてあげたいの。

 そう言った『彼女』を思い出しながら、僕は少し寂しい心地で日がな一日まどろむのだ。

 この惑星の大気圏で燃え尽きてしまった『彼女』は、『彼女』の望み通り本物の空を仰いでいる僕を見てくれているだろうか。

 もうじきだよ。

 僕は心の底で囁く。もうじき僕も君のところに逝くから、待っていて、と。


   ◆ ◆ ◆


 不意に目の前が暗くなって、僕は重たい瞼を持ち上げる。

『彼女』が、立っていた。いや、『彼女』と同じ顔をした、僕のアンドロイドか。

「センセ」とアンドロイドが『彼女』と同じ発音で僕を呼ぶ。

「調査班が遺跡から、その……柩を、発見して……」

「へえ、大発見だ」

 すごいね、と笑う僕に、けれどアンドロイドは困惑を隠そうともしない。このアンドロイドとは地球を出てからずっと一緒だから、対話機能に支障が出始めているのかもしれない。僕と同じで、オンボロなのだ。

「その……柩が、第二調査隊が使用していた半冷凍睡眠用カプセルに似ているんです」

 意味がわからなくて首を傾げる。

 第二調査隊といえば『彼女』が所属していた隊だ。『彼女』は新惑星に着く前に死んでしまったけれど、もちろん新惑星の土を踏んだ隊員だっていた。

 着陸直前に亡くなった隊員をこの星に埋葬した記録だって残っている。ならばそれがでてきたところでなんの不思議もない。

 それなのにアンドロイドは深刻ぶった顔で声を低めた。

「地底湖がまだ地上にあった時代の地層から、でてきたんです」

 はは、と笑った。そんなはずがないだろう。地殻変動でもあったんだよ、と言ってあげたくて口を開く。でも、声がでない。

 ひどい眠気が押し寄せていた。ときどき襲ってくる、抗い難い睡魔だ。僕の意識を『彼女』の下に導こうする、親切な死神の手なのかもしれない。

 僕は曖昧に開いた唇から息を吐く。

「カプセルの中に、ぬいぐるみがありました」

「へえ……」

 子供の柩? という問いは音になっただろうか。

「壊れてはいましたが、コンピュータが内蔵された子守ロボットのようです。データを取り出すことができれば、我々の仮説が……」

「仮説?」

「……おとぎ話だと、センセはお笑いになるかもしれません」

 アンドロイドは誰かに聞かれることを恐れるように僕に顔を近づけて、呻く。

 ――光速を超えて移動する物体は、時間を遡れるのでしょう。

 それはいいね、と唇を歪めた。それはいい、と本気で思う。

 けれどやっぱり、物質が光の速度を超えるのは不可能だったのだ。地球を失い、僕らがこの惑星に留まらざるを得なくなってから、宇宙船のメインコンピュータにひっそりと告白されたことだ。

 光の三倍の速度を計測していた宇宙船は、その速度自体がミスだったと認めた。光の速度に到達するかどうかで、計器が狂ったらしい。どの実験でも、ある速度を超えた瞬間、計器は一定の法則に従って光の三倍の速度を計測したのだという。

 狂った計器と実験結果を信じて、人間たちは宇宙でならば光の速度を超えられるのだと勘違いした。

 実際、この惑星だって地球から光の速度でたった十四年の距離に存在していたのだ。

 けれど確かに、この惑星は僕らの観測から消えている時間があった。それも今なら説明できる。惑星の速度が変わっていたからだ。人間たちの予想から外れた軌道を、予想外の速度で走っていたせいだ。惑星の速度の変化は重力の変化をもたらし、時間の進み方すら変えてしまう。地球の1G下で観測した一年は、この惑星では数十年にも及んでいたのかもしれない。ならば第二調査隊の痕跡が、この惑星の時間軸では遙かな昔であったとしても不思議ではない。

 どちらにしろ、人間は時間を遡れないのだ。

 そう理解して諦めているにもかかわらず、未練たらしい僕はアンドロイドの夢物語をうまくいなせない。

「センセ……この星からわずかに三百光年先にはブラックホールがあります。ブラックホールに吸い込まれた先には、吸い込んだエネルギーを放出するホワイトホールがあるはずです。『彼女』たちは超重力のブラックホールを抜け、時間を遡り、この星に戻ってきたのかもしれません」

「あれは君、全てを押し潰して無にしてしまう超重力だよ」

「誰も、ブラックホールの先を見た者はいません。時間の旅を経験した者は発見されていません。『彼女』がブラックホールの特異点に到達しなかったと、誰も証明できないのですよ、センセ。だから……」

 時間を遡れたら、あのときに戻れたら、どんなにいいだろう。そんな技術が確立されているならば、僕は迷わずそれを使う。

『彼女』と最後に会ったあの狭苦しい地球の地下都市に戻って、『彼女』を引き留める。

 そう思ってから、それがもう手遅れであることにも気づいていた。

 だって僕はもう、ここにいる。『彼女』が燃え尽きた惑星の大地を踏んでいる。今から時間を遡ったって、地球へ戻れるわけじゃない。僕の前に横たわるのはこの星の過去だけだ。

 地球で『彼女』と逢った最後の日、『彼女』は僕を「わたしを助けてくれる魔法使い」だと言ったけれど、やっぱり僕はそんなご立派なものにはなれなかった。

 僕は今でも、ときどき後悔する。

 あのとき『彼女』に応えていればよかった、と。言いよどんだ『彼女』の代りに、僕からこの想いを告げていればこんなに淋しい思いをせずにすんだかもしれないのに、と。

 けれどやっぱり魔法使いでもなかった僕には、こんなに淋しい未来を予知して『彼女』に告白する度胸なんてなかっただろう。

 そんな僕が時間を遡ったって、無意味だ。

「センセ?」

 アンドロイドが心配そうに僕をのぞき込む。

 いや、『彼女』かもしれない。

 だってほら、地球で別れたときと同じように、『彼女』のプリーツスカートがはためいている。ダッフルコートを着込んで、裾からはみ出た制服のスカート越しに思わせぶりな斜陽をちらちらと覗かせる。

「センセ?」と『彼女』が笑う。

「今日、言うって決めてたの」

 あの日と同じセリフだ。

 背後にそびえる鉄塔も、冷たくなりつつある乾いた風も、いつも『彼女』が鞄に結び付けて連れ歩いていた×印の目をしたトラのぬいぐるみも、なにもかもがあの日のままだ。

 僕は抱えていたカメラを両手で持って、『彼女』に差し出す。

「たくさん撮ったんだよ、君に見せたくて」

「わたしがいなくても、大丈夫だったでしょ?」

「そうだね……大丈夫はだいじょうぶだけど」今さら強がろうとする自分に苦笑して、素直に首を振る。「寂しかったよ」

「ホント?」

「うん。君がいなくて、寂しかったんだ。君がいない星は、淋しい……」

「わたしは、ここにいるでしょ」

 非情にも『彼女』は声を高めて、つま先でくるりと回った。

 座りっぱなしの僕からは、風をはらんだスカートの中が見えそうで、あわてて視線を逸らす。

 そんな僕をひとしきり笑って、『彼女』は手を伸ばす。

 僕はその掌に、『彼女』のカメラを乗せ、ようとして、「違う!」と鋭く叱られてしまった。

「センセのバカ」

 機嫌を急降下させて、『彼女』は唇を尖らせる。

「うん、ごめん」

「意気地なし」

「だって、君」

「わたしはずっと、待ってたのに」

「僕を捨てたのは、君のほうじゃないか」

 何十年も押し込めていた不満を囁いて、そのくせ僕は泣き出しそうなくらいの幸福も感じていて、それ以上詰ることはできなかった。

「センセ」

『彼女』が僕に、改めて手を差し出す。

 僕は王子さまに誘われたお姫さまみたいに指先からその掌に触れて、握り返した。

『彼女』を包む光が、僕をも飲み込んでいく。温かくて柔らかくて、触れたこともなかったのに、これが幻などではなく『彼女』自身なのだと確信した。

「ねえ、センセ。これからは、この星でずっと一緒ね」

「一緒なのに、僕はいつまでも君の先生なんだね」

 そう苦笑した僕に唇を寄せて、『彼女』は初めて僕の名前を呼んでくれた。


                        ――ただいま。

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さよなら、ライカ 藍内 友紀 @s_skula

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