冬:幸せになってほしいと願うなら
頭が何かで殴られたかのように痛い。
一方で手足に感じるフカフカとした感触に違和感を感じて、目をそっと開けてみる。
「え・・・」
そんな私の目に写ったのはとてもよく見知った部屋だった。整理しなきゃといつも思いながらそのまま放置された教科書が積み上げられている勉強机。水回りだけはしっかりやろうと雑誌を見て決めてから毎日掃除をしてきた台所。決して服を沢山持ってくる訳ではないのに服がはみ出してしまっているクローゼット。
それらは紛れもなく、私が今住んでいる部屋の景色そのままだった。
でも、私は和也の病室にいて自分で帰った覚えはない。確か、黒猫ちゃんに鼻を噛まれて、そこからの記憶がない。
週に一度干している布団から体を起こしてみると、窓の外にありえない光景が広がっていることに気がついた。
「さ・・・くら・・・?」
私が暮らすアパートの前に立つ桜の木が、満開の花をつけていたのである。
あれ・・・。確か季節は冬・・・だったわよね。
ポケットに入っていたスマホの電源を入れ、曜日を確認してみる。
「え・・・。4月?しかもこの日って・・・」
2年生が始まる最初の日だ。スマホの画面に映し出されていた曜日を何度も確認するが、そこには確かに春を告げる数字が書かれていた。
すかさず勉強机の上に積み上げられていた教科書を確認する。
すると、そこに積み上がっていたのはまだ1年生の時に使っていた教科書だけで、2年生の後期に使っていた教科書はおろか前期に使っていた教科書さえなかった。確か、教科書はオリエンテーションが終わった後に買いに行ったはず。
つまり、ここは本当に2年生の始まりの日なのだ。
こんなこと、本当にあり得るの?
小説などでよく見られる「ほっぺをつまむ」というものをやってみたが、すごく痛い。
「・・・夢じゃないのね」
現実、ということ?
その謎を解き明かすべく、私はカバンを持って学校に向かった。
それから、私は土手を歩いて行き1800級の山から吹き降りてきた強風に出迎えられオリエンテーションを済ませた。
何もかもが、私が一度経験した光景そのものだった。
そして、この後私は商店街に行って、その帰りに交通事故に遭って和也に助けられた。それが和也との出会い。
もし、私がその場に居合わせなかったらどうなっていたんだろう。そんな好奇心から私は商店街に足を向けた。
とりあえずシャーペンの芯を購入し、自然と足はあの時に通った道へと向かっていた。でも、目前に迫った曲がり角でピタリと止まった。
もし、ここで私が通らなければ和也に出会うことはない。出会わなければ和也は生きていられる。
明るい未来が待っている。
でも、同時に今まで過ごして来た時間も無くなる。
今、この瞬間、彼との
いつだったか、本で読んだ中にいたおばあさんが言っていた。
本当に大切な人だと思うのなら、相手の幸せを願うなら、自分を犠牲にしなくてはいけない時がある、と。
今まで過ごしてきた時間が無かったことになるなんて嫌だ。大切で、かけがえのない時間。
けれど、それが無かったことになれば和也は生きていける。和也が元気に生きていられればそれで私は、充分だ。
その時。
「向こうで交通事故だってっ」
「なんか、男の子が猫を助けたんだってっ」
辺りにいた人たちの言葉に私は角からその現場を覗き込んだ。
近くの電信柱に衝突している車、そしてその近くで黒猫ちゃんを抱いて上半紙を起こす和也の姿が見える。どうやら無事だったみたい。
これでいいのよ。これで新しい
そのままその場を後にしようとした時、ふと視界がぐにゃりと歪んだ。
な、何っ?!
歪んだ視界は私を包み込み、足下に1つの映像を映し出した。
それは菜の花が綺麗な土手に1人で座る私の姿。
次に映し出されたのは夏の暑い夜に行われた夏祭りの風景をアパートの自室から見つめる私の姿。そこに私のお母さんが押し入ってきて喧嘩になり、泣き顔でお母さんが部屋を後にした。
次はすっかり紅葉した秋の実習終わりの商店街を歩く私の姿。沢山の学生に囲まれている和也とすれ違うが互いに気に留めることはない。知らん顔で通り過ぎていく。
次に映し出されたのは、乾燥が身にしみる冬の昼下がりに1人でショッピングモールにいる私。その両手には大掃除グッツが入ったビニールが握られている。
そしてその後に映し出されたのは、クリスマスの夜。すると突然視界が開けて先ほどまで上から見ていた自室が目の前に広がった。
「・・・」
狐につままれた気分とは、このことを言うのかな。
今私の前にあるのはレポートを書くための資料とノートパソコンだ。勉強机に座って内容を確認してみる。そういえば、提出は冬休み明けだったわね。
カレンダーを確認してみると今日はクリスマス。
そう、彼とパーティーに出た日の夜だ。
私がここにいるということは、和也との接点はなかったということ。しかし、和也の安否が気になる。
少しだけ、行ってみよう。
私は自転車にまたがって彼の家へと向かった。自転車で行ける範囲にある彼の家の前に到着すると、人だかりができていた。
まさか巻き込まれてしまったのっ。
すぐに近くにいた人に状況を聞いてみると。
「バスが民家の門に突っ込んじゃったらしくてね。バスの運転手が軽傷だって。乗客無事らしいし、巻き込まれた人もいないって言うから良かったわよね」
和也が巻き込まれていない。その事実が今の私にとって涙が出るほど嬉しい事実だということはもちろん誰も知らない。
これで全てが終わった。もう彼に関わることはない。
私も新しい人生を歩むんだ。和也のいない、
でもそんな清々しさとは反対に頬を涙が伝っていく。
おかしいな。悲しくなんてないのに。だってこれで和也が助かったんだよ?
「いいのよ・・・これで」
「よくない」
しかし、その時。あの声が私の後ろから聞こえてきた。
「っ・・・」
え、え、え。どういうことっ。
恐る恐る振り返ってみると、そこにいたのは。
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