夏:拒絶と本心
そして、夏祭りの日。あれから柊とは一度も会っていない。いや、避けているわけではなく、彼自身が土手に来なかった。
授業がないこの日は午前中をバイトで過ごし、午後からは家でテスト勉強に励んでいた。
迎えた夜。窓の外からは楽しそうな子どもの声や若い男女の声が大きく聞こえてくる。窓の外を覗いてみると、子どもの後ろについて行く親の姿や、孫のはしゃぐ姿を見て嬉しそうに笑む老夫婦の姿があった。
「・・・」
時計は午後7時を指そうとしている。もう待ち合わせの時間だ。教科書を閉じて近くにあったバックに手を伸ばした。
待ち合わせの場所は近所の公園。マンションを出て真っ直ぐ公園に向かう。
通り過ぎる人々の笑顔は、今の私にとってとても眩しかった。
そして、ついに公園に到着した。
「・・・実咲?」
ふと、後ろから声をかけられる。知らない声だと思ったが、その姿を見た時、息が止まった。
「お・・・かあ・・・さん・・・」
私が最後に見た時より膨よかになっているから、すぐには分からなかったが、特徴は変わっていない。あんなに痩けていた頬はふっくらハリがあり、表情も柔らかい。本当にお母さんなのか。
私の知るお母さんの像とは大違いだ。しかし。
「実咲・・・」
私の名を呼ぶ声。私を見つめる目。それらがお母さんであると確信づける。
「大きくなったわね」
どの口が言うの?。あなたが捨てた娘じゃない。
施設に入ってからも、1度も会いに来てくれなかった。手紙もくれなかった。
「母さんも父さんも元気よ。あなたと別れてからね、私たち精神科の病院に入院したの。つい先日退院して2人で元気にやっているわ」
だからなんだと言うんだ。病気だったから、あなたたちの罪が消えると思ったのか。
「ただ、元気なあなたの姿を見たくなったの。突然ごめんなさい」
駄目だ。今にも感情が爆発しそうだ。
「ありあとう、実咲。会えて嬉しかったわ」
「またそうやって逃げるの」
公園を後にしようとする母を逃さまいと、声を張って止める。
もう逃さない。
「お父さんの時もそうだった。私が叩かれても止めないで、1人逃げて、倒産したから気が狂った?。そんなの言い訳よ!!!」
自分でも驚くほどの大声が出た。
「自分の子どもだから分かってくれるとでも思った?。分かる訳ないでしょ!!!」
吐き捨てるような台詞だって、自分でも分かってる。でも言わずにはいられなかった。
「私がどんな気持ちであなたたちに叩かれ、蹴られていたかなんて分からないでしょ!。今更母親面して、親子に戻れるなんて思ってたの!!」
自分でも分かっていることがある。それは、他の人と比べて感情表現が少ないこと、人と話すことが苦手だということ。それらについて悔やんだことはないけど、あの言葉だけは忘れない。
『実咲ちゃんって、おとうさんとおかあさんから”ぎゃくたい”を受けているから、他の子と話さないの?』
『どうしてそう思うの?』
『だって、おかあさんがそう言ってたんだもん』
小学生の相手からすれば何気ない会話。
でも、私は忘れない。
この会話で私は、助けてくれる人など、どこにもいないのだと幼いながらも悟った。
「っ・・・」
この場に居たくない。
私はとっさに公園の外へと駆け出した。
「実咲!!」
お母さんの声でも止まりはしない。道の端に提灯が下がっている道を駆け抜け、人混みを抜けて人通りのない土手へ出た。
「はぁ、はぁ」
どうしてここに来たんだろう。何も考えずに走ったのに。
祭りの会場からは離れているこの場所は、華やかな会場付近と比べて薄暗い。
今家に帰ってもお母さんがいるかもしれない。行くところもないし、とりあえず学校に向かって歩いた。
しばらくすると、道脇に2つの影が見えてきた。その姿を見た時、不思議と安心している自分がいた。
いやいや。どうして安心するんだ。あいつは関係ないだろ。
「本当にいたのか」
土手の脇の坂に腰を下ろしていた柊は膝に黒猫ちゃんを乗せていて、私の声を聞くなりスッと顔を上げた。
「本当に来たのかよ」
笑われるかと思ったが、少し反応が違った。
似たような言葉で返してきたが、その表情はいたって真剣そのものだった。
だが、私に向ける目は突き刺さるような強い眼差しではない。
心の中を見透かされてしまいそうな温かい瞳が向けられている。
「・・・」
駄目だ。どうして心の中がじんわりと熱くなるのだろう。
その瞳で見つめられてから、心の中に広がっていく熱。
「・・・何、悪い?」
「いや、別に」
口を開くと、この熱が溢れてしまいそうだ。
そんな目で見るな。
ふと視線を外した時、柊が立ち上がったのが目の端で見えた。
「お前って人間だったんだな」
「・・・は?」
足下に黒猫ちゃんを引き連れて目の前に立った柊。
「てっきりロボットかと思ったぜ」
「どうしたの?。頭が暑さでやられたの?」
すると、柊は左手を私の頬に添えた。そして親指を目元に乗せた。
「我慢してんじゃねぇよ」
親指をサッと横にスライドさせる。その直後、手が添えられていない頬に生温いものが伝っていった。
「えっ・・・」
視界が涙で歪む。でも頭は痛くないし、目が痛い訳でもない。
「我慢なんてしてない。だってどこも痛くないもの」
おかしいな。
その時、一瞬にして目の前が暗闇に包まれた。目は閉じていない。
あれ、でも体が温かい。すると、頭上から声が降ってきた。
「確かに、俺はお前の抱える問題を解決することはできない。でも”手助け”なら、きっとできる」
背中と頭の後ろに回されていた手にふと力が入ったのが分かった。
「は?何を言って・・・」
しかし、言葉に反して体の力が抜けていくのが分かる。無意識に柊の胸元の服を両手で掴み、頭を彼の胸元に押し込んだ。
「・・・言え・・・なかった」
話すつもりなんて、これっぽっちもない。
けれど、自然と口が開いた。
「せっかくお母さんがっ・・・退院して会いに来てくれたのにっ・・・私はなんてことをっ」
言っている自分でも驚きの言葉の数々。
「私だって・・・会いたかったっ」
だが、言葉を紡いていると心の中にスッと入ってくるのが分かった。つまり、これもまた本心なのだ。
私の名前を呼んで。
私を抱きしめて。
私の話しを聞いて。
私を見て。
溢れる想いは涙となって流れていく。
柊は何も言わずにずっと抱きしめてくれた。辺りには誰もいないから、そのまま泣いていても誰もいないから見られることはない。なのに柊は私を隠すように立っていた。
しばらくして。
「・・・ありがとう。話しを聞いてくれて」
ひとまず落ち着いた私は彼から離れ、1つ深呼吸をする。
「何もしてねぇよ」
だが、その時。
「実咲!!」
息を切らすお母さんの姿が柊の背中越しに見えた。追いかけて来たのか。
「ごめんなさいっ。謝ってももう遅いのは分かっているけれどっ、でもっ」
「お母さん」
そんなお母さんの言葉を止め、私はお母さんの前にまで歩み寄った。
「さっきは言い過ぎたわ。私も会いたかった。・・・会いに来てくれて、ありがとう」
私の言葉にお母さんは目を見開いた。
そうだよね。けれど、すぐに笑みに変わった。
「今度は私から会いに行くね」
精一杯の気持ちを伝えると、お母さんは私をぎゅっと抱きしめてくれた。
あぁ。温かいな。
「・・・えぇ、待っているわ」
そしてそっと離れるとお母さんはそのまま柊に体を向けた。
「あなたは実咲の彼氏さん?」
唐突な話に息を吸うのを忘れてしまった。けど柊は冷静に一言。
「いえ、友人です」
「そう・・・。実咲のこと、よろしくお願いします」
深々と頭を下げるお母さんに柊も軽く頭を下げた。
「こちらこそ」
母の後ろ姿を見送り、心の中は今までにないほど晴れやかだった。
「ありがとう、柊。また借りができたわね」
「よし、これから祭りに行くか」
「え?今から?」
「それでチャラにしてやる」
そう言って掴まれた右手。でも、いつもと違う。
掴まれたのと同時に高鳴る鼓動。
顔も熱い。
「ん?どうした?」
「・・・なんでもない。ほ、ほら行くんでしょ?」
無理矢理手を振り払い、先に歩いていく。
お母さんと別れてから何か変だ。
それは少し冷たい夜風が心地よいと感じる夏の夜の出来事。
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