第二話 即身仏、腐り給う
軒下にたつと、むせかえるような水の匂いが鼻をついた。
藤花は顎をあげて上を見る。古い焦げ茶の屋根が水を吸って、重たそうにうつむいていた。
「純陽は雨が嫌いだ、っていっていたっけ」
手垢がついて黒ずんでしまった桶を両腕で抱え込む。なんとなく胸元が寂しい気がしたのだ。隙間にまで冷たい風がよく滑り込むからであろうか。
そういうところが苦手だと純陽は嫌がった。
あと、洗濯物が乾かないだとか、心を雲の上へ持っていかれてしまいそうだとか。
客に肌をさらすにも、唇より先に憂鬱が吸いつくと嘆く。
「あたしは嫌いじゃあないんだけれどねぇ」
むしろ、物足りない隙間をうるおいが満たす。
土の濃い匂いも、水を浴びた草木の喜びを感じる。素朴で暗い緑が秘める、強い生命力をわけてもらえるようで、とても気持ちがいい。
藤花は、やはり自分がきてよかった、と思う。
そして激しくはない、しかし絶え間ない雨水から頭を手でかばうようにして井戸に向かった。
井戸の周りは、共同で使っているにも関わらず廃屋の如く荒れている。
いつもなら雑草として見逃してしまう子持ち万年草の黄色の花が、淡く光っているかのように鮮やかだ。
小雨のなかを歩いていると、ドクダミの葉っぱを踏んでしまう。
独特の臭気が藤花の近くへ立ち込めた。
「すっかり季節は
華やかさを誇ることもなく咲く雑草たちに、世界を濡れそぼさせる雨。
脳裏に病に苦しむ黄秋の美貌が浮かび、藤花は唇を尖らす。
人々はきらめくものが大好きだ。
新しいものに高名な物品、野心を抱く男に、なめらかで美しい男女と芸術品。
此の月淫雨ふるこれを
ある書物でそう記されてから、客は雨が降ると嬉しそうにツユとつぶやくようになった。
そういわれるたび、同じ布団にくるまって熱をわけあっても他人なのだと実感する。
「いやね、こんな時期の雨じゃなかったら素直に気持ちよく思えるのに」
井戸の冷たい石の上に桶を置く。
そっと中をのぞきこむ。暗闇はどこまでも深く、底が知れない。大地の裏側まで突き抜けると言われてもうっかり信じそうだ。
この世ならざるものが住んでいるのだと言われても、首をたてに振るかもしれない。
無意識のうちに、藤花は深呼吸をして、長い溜息をついていた。
「あーあ、こんな汚れちゃってねえ」
井戸の淵や側面にある隙間という隙間に泥が挟まっている。
時と穢れのいたみがそこに集まっていた。
みすぼらしい、見捨てられた井戸。
一人ぼっちでそびえる井戸に、何故だろう。藤花は胸が締め付けられる。
梅雨のせいだ。きっと梅雨だからだった。
カビが食べ物をダメにしてしまう季節。
梅の実が熟し、いずれ潰れる季節。
梅が甘く濡れる季節。
遊女が病に倒れて消えるだなんて、この季節でなくともいつだって付きまとう恐怖ではあるが、今朝は一層、恐れの花が咲き乱れていた。
桶は井戸のふちに置く。そして藤花は桶のすぐ横に両手をかけて、頭を突き出して井戸底をのぞきこむ。
髪が下に向かってだらりと垂れた。
「こんなところで、寂しいでしょうね。井戸底は暗くて、寒くて。――かわいそうに」
指先がしびれるように冷える。
目を見開いたまま、しばらく暗闇と見つめあっていた。
そのまま闇に目が慣れるにつれ、底に流れているのだろう水面の輝きをとらえた気がした。
それほどの時間がたって「あまり時間がたちすぎるとまずい」とようやくハッとする。
あわてて身を引く。そしてあわてすぎた。感性のおもむくままの反射的な行動は、優美な遊び女らしからぬ雑多な動きを生む。
振り払うように後ろに退いた腕が、思い切り桶に当たった。
痛みを感じるより先に、一瞬呼吸が止まる。
桶がからんと揺らぎ、斜めになった。二つの目が落ちていくさまをひどく緩慢に追う。
そのまま、桶は音もなく桶は井戸へ消えた。
「あ、ああ……どうしよ、本当にごめん、黄秋、あたしがばかなこと考えたからぁ」
情けない悲鳴をあげて、再び井戸にかじりつこうにも、どうしようもない。
かたまっていた藤花は、結局肩を落として、手ぶらで長屋に戻るはめになった。
決して長くはないどうちゅう、何度も己を責めながら。
なんていえばいいのか。情けなくて、悲しくて、涙をにじませながら扉をあげた。
途端、意外にも俊敏に用事を済ませてきたらしい純陽がかけよってきた。
くもりのない笑顔がつらい。
「純陽、ごめんね、あたしあんなに言い切ったのに」。そう言おうとしたが、先に純陽が口を開く。
「藤花! もう水を汲んできてくれたんだね、ありがとう」
「……えぇ? 何を、」
「何をって、黄秋の横に置いておいてくれたんだろ、桶? でも藤花がどこにもいないから、誰かに目をつけられて絡まれたんじゃないかと心配で、心配で。よかったよぉ」
よくいえば賢く、悪く言えば情を捨てた遊女たちにいじめられていたのではと心を痛めていたらしい純陽は今にも――泣きぼくろのある彼女はいつもそんな顔なのだが――泣き出しそうであった。
だが、藤花は何のことだかわからない。
とりあえず、純陽のいう黄秋の横、枕元へと視線を向けた。
そしてさらに混乱を極め、大きな瞳を白黒させる。
「嘘だろ、」
無理もない。いったいどうして、摩訶不思議。つい先ほど井戸に落としたはずの桶が、そこにあった。
あるべくしてそこにあるといいたげに、澄ました様子で部屋にいる桶。それに藤花の肌は冷えざるを得なかったのだった。
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