第11話 ついのてあし
北の冬は早く、深い。
はあと自分の存在を確かめるような吐息が白く染まる。
真っ白な月が暗闇にぽっかり浮かび、冴え冴えとした光を地上に降り注ぐ。
「本当にいくのか」
和紙で作った提灯を片手に天狗が問う。
彼女の炎を借り受けた
「ええ。寒いかもしれませんが、最後に見るものは天井のない場所がいい」
階段で振り返るとタキイチの手に持った提灯が小刻みに揺れた。
ほおずきによく似たそれが互いの顔をぼんやり浮かびあがらせる。
「多少寒いのもまた風流さ」
シセイもまたからからと笑う。
なすべきことをなした清々しい笑みだった。
「ああでも、赤子にはちとつらいなあ。早く暖めてあげておくれ」
「そうだな……しかしこれが最後だぞ」
「なに、この子達のなかに少しでも遺せるものがあれば。いつだって会えるようなものさ。直接手を握ってあげることはできないけれど……」
そっと己の抱える赤子の頬を撫で、天狗に差し出す。
艶やかな黒い髪に、幼いながらに整った相貌には五つの目。
母を求め、あうあうと声をあげてシセイにのばされた二本の手のひらにも一つずつ。
布で包まれて見えないうなじにも日ごろは閉じた瞼が一つ、合計八つ。
生きることに特化し、様々を同時に見ることができるつくりだった。
「ヨツネ、わがままをいうでないぞ」
四季の如く豊かで鮮やかに人生を謳歌するようにとつけた名の通りの女児だ。
片割れの気配に影響を受けたか、タキイチが抱えていた子どももぐずりだす。
こちらは瞳は一対だが、手足は母と同じく八本生えている。男児ながら片割れよりもよく泣く。我慢や偽りを知らない素直な男児だ。
「双子は骨が折れるな」
「そういわずに、しかと頼む」
「承知している」
女同士通じ合うところがあるのか、二人は何度も頷き合う。
そして遂に天狗はシセイから赤子を受け取り、反対にシセイは提灯を受け取った。
タキイチもまた男児を渡す。
灯りを失った天狗の顔は翼や服装もあってほとんど闇夜に溶ける。
反対にタキイチとシセイはより強く照らされ、周囲の暗闇が深まった。
「いざさらば」
「達者でな」
もう少しだけそばにいたい。そう思う心を押し殺し、背を向ける。
見えずともずっと天狗が見送っているのがわかった。
二人は途中で階段を外れ、隠し通路を通って山の裏手に向かう。
いつか浸かった温泉も通り過ぎ、雪に根まで覆われ音一つ届かない場所で歩みをとめる。
「ここでいいか」
いよいよ限界だった。
継ぎ足した炎も燃え尽きて、先ほどひと際大きく膨れ上がった火がタキイチの内臓を焼いた。
散り際の火とはそういうものだ。
しかし既に悔いはない。悔いてなるものか。
珍しく微笑みを浮かべ、タキイチは空を見る。いつかのような美しい夜だった。
「お前さまの絵のようだなあ」
しみじみつぶやきながらシセイはタキイチに触れ、指と指をからませる。
「俺の絵の方が美しいさ」
タキイチが仕上げた一生の絵。子が生まれたあとに仕上げた一作を大切そうに抱きしめたシセイの姿は忘れない。
絵はいたってシンプルなものだ。
紙は縦向きで、上部にはぼんやりと薄い墨の輪に囲まれた白い月。その月の光を遮るように、遠くへ、より遠くへと飛んでいく一羽の黒い鳥が羽ばたいている。
後方ではにはこじんまりとした滝が流れ、わずかに野草が生えていた。
背中がほとんどむき出しになるほど着崩した女が、滝の前で振り返ろうとしている瞬間の絵。
滑らかな背には太古の息吹を感じさせる意匠の刺青が堂々と構える。
黒髪は地に真っすぐ垂れ、一部はたおやかな肩に曲線を描いて載せられて淫靡な魅力をかもす。軽く埋まった裸足の足裏、白い大地が季節が冬であることを示す。
そして振り向きざまに覗く麗しい顔には、黒目がちな瞳が四つ並ぶ。
腰には己の手を一本巻きつけて、華奢な体躯と形のいい胸を強調していた。しかしその腕も八本。腰の対ついとなる一本は菩薩のように一輪の花をつまむ。
他の腕は
憂いを帯びた横顔の微笑みは無垢な少女にも、慈悲深い聖母のようでもあった。
使った色はかすんだ黒と、刺青に使った鮮烈な黄色のみ。
「描けてよかった。お前さんと会えなかったら、きっと描けなかった」
技巧はまだまだ足りないだろう。
しかしこれこそがタキイチという絵師の人生であり想いのすべてであるという充足が満ちている。
しっかと手を握って礼をいうタキイチに、シセイはくすくすという笑い声でこたえる。
そのまま二人で後ろに倒れた。冷たい雪が二人の形にくぼむ。
まだ爽やかな白が冷やしながら溶けていく。
冬だった。
「一年を得られてよかった」
春と夏と秋と冬、それぞれがあるから各々をより深く味わえる。
どれかひとつでは深みを探る心地にはなるまい。
二つあるから、互いを高め、愛し、喜怒哀楽に彩ることができる。
そこには善悪も良し悪しもない。ただ、あるだけだ。あるがままの世界だった。
「ああ。ともにある喜びを知った、生み出す苦痛と甘美を味わった、世に生まれたからこそ得る世界を謳歌した。お前さまがいなかったら、ただ喰らい、眠り、生きるだけであった」
「それはそれで人生というものかもしれないな」
「ふふ、そうだな。しかし、あてはこれでよかった。本当によかった」
「ああ」
ふう、とシセイが倒れたまま息を吹く。
その息は糸となって、二人を囲う。
中途半端につくられた繭のようなものが寒さをやわらげた。
そして提灯を高く上に掲げる。タキイチも真似をすると、その灯りがふよふよと抜け出す。
抜け出した灯りは壁に灯り、編み込まれた蝶の文様を照らし出す。
体を形作る光を得た蝶は、朱をまとって輝き繭から飛び立つ。
無数の蝶が月に向かって飛んでいくさまを、二人でゆっくりと眺めた。
「……美しいな」
「懐かしいか?」
「そんな気もする。あまりに満ちた年月だった」
「幸福だったな、やるだけをやったな」
「できることなら、子どもたちの育つところを見守りたかった」
「お前さまもそう思うか。惜しいとするならばそれよ。だがきっと我らの意志が育む土となり、遺したものが芽を潤す雨となることを信じよう」
「……ああ、信じ、よう。俺たちが……そうすべきだと、ここへ来た、ように……」
次第に声はかすれ、やがて胸が上下するのをやめる。
最後のちからを振り絞り、タキイチはか弱くシセイを二つの腕で抱きしめた。
耳元で呼吸が絶える瞬間をとらえる。
シセイはしばらくの間、震えるまつ毛をおさえつけ、すべての瞳を閉じて祈った。
「我が手足は既に潰えた。しかし一対二つの命もまた、遺すことができた」
熱い涙が頬を伝う。
喉がつかえ、嗚咽が漏れる。
熱を失い始める体に抱き着き寄り添って、すっと体の力を抜く。
――抱きしめて、とはいったが、絶える時までとは。真実幸福であったわ。
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