第3話 雨降る窓の影絵

「すまなかったな」


 背中合わせに服を着て、女の側が開口一番に放ったのは謝罪だった。

 ちらりと後ろを見れば、日焼けひとつしていない肌が視界にはいる。

 先程まで好きなように触れていた肌だ。

 最高級の陶器、あるいは料理の達人が焼いた白身魚のようにとろける手触りを思い出し、さっと目をそらす。


「互いのためだ」

「わかっている。だが元を辿ればあての一方的な都合。初めてをこんなことにして、すまなかった。情けをかけてくれて、ありがとう」

「……夜明けか」


 視線を正面に戻せば、空が白み始めていた。

 一服したいぐらいの倦怠感が全身を包んでいる。

 人と物の怪ではあるが、人が様々であるように物の怪も様々であるらしかった。

 わざわざ感謝を述べるのは、この蜘蛛が人に与えられるものがそれしかないからだ。


「シセイ。お前さん、これからどうする気だ」

「うん? そうだなあ……とりあえず、東か北にいく」

「北?」

「ああ。文化とは分化。近頃の西はますますもって人の世よ。我らを除き、完全に分かつつもりなのだろうな」

「行く場所がねえのか」

「案じてくれるのか」

「気の迷いで情がわいているだけだ。お前さんの言う通り、貴重な一夜をとられちまったからな」

「ふふ、そうかい」


 背中のすぐ後ろに気配があった。

 思うほど恐ろしい存在ではないのはわかった。しかし首を抑えた腕力はタキイチを上回っていた。

 巨大な蜘蛛の姿を持つことにも変わりない。

 ぞわりと肌が泡だつ。それを寒さのせいにして、手早く服を着込んだ。


「ありがたいが、そうでもない。東夷あずまえびす蝦夷えぞ、どちらも奴らが余所者を見下すための呼び名だが、今のあてにとっては希望さ」

「そうか。しかし具体的なアテはねえんだな」

「まあ、うん」


 本格的に気が迷っているらしかった。

 こつんと小さな顎が肩に乗せられ、柔らかな髪と熱が肌をなぶる。

 原因があるとしたらこれだ。


「……なあ、お前さん。よかったら俺と来るか」

「お前さま――ま、まさか、あてが噛んだから毒がまわって!? 気を付けてたのに」

「人を物狂い扱いするんじゃあねえ!」


 深い溜め息をつく。シセイが笑う。

 女というものが皆こうだかは知らないが、彼女はタキイチにとってこれ以上なく厄介だった。 


「ついでだよ。北にあるっつう伽藍に行くんだ、俺は。宿に入り損ねたところをお前さんのおかげで凍え死にせずに済んだからな」

「北の伽藍……ああ、あの天狗がいるという……なるほど。わかった、行かせてもらう」

「好きにしろ」


 気恥ずかしくて鼻を鳴らす。

 そっと小さな頭が離れていくが、まだ背中に視線を感じる。


「あてからお前さまに貸しひとつ、お前さまから受けた恩二つ。いずれ返そう」

は?」

「そいつは互いの得になるから省く。本気で言うなら、振り向いてみよ」

「ああ、そうかい」


――怪力より異形より、何よりこれが。


 タキイチは振り向けなかった。


 

 滝から北に進んで、町に入った。

 時に熱を分け合い、軽い口喧嘩をしながらの旅路は思ったより楽しい。

 かといって物の怪は物の怪。隙を見せたくなかった。

 結局その本心は一度も伝えずにいる。


――こうしてりゃあ別嬪べっぴんなんだがな。


 横には糸を紡ぎ、人の仮面を被ったシセイが並ぶ。この位置もすっかり慣れた。

 ややつった形の瞳は黒目がちで、腰は折れるように細く、しかし胸部は椀型の優美な曲線を描いている。

 暗い濃紺の着物さえ品のある艶やかさを引き立てた。まるで咲いたばかりの一輪の蘭だ。

 当然男の目をひく。

 だが、本来の姿を知っているからか。タキイチはこの姿の彼女を誇らしく思わなかった。


「今年も着々と末が近づいているな。空気に霜が張っているようだ」

「ん? ああ、そうだな」


 端正な顔が動くのを見て、町を見渡す。

 西と比べれば地味だが、活気でいえば西より強かだ。寒さに慣れているからだろう。

 シセイの言う通り、ここ数日は夕方になると日がすっかり釣瓶落としになった。

  

「お前さん、寒いのは平気なのか」


 虫とはえてして寒さに弱いものである。

 さっさと西を去らなかったのは気温もあるはずだ。

 特にこの町は太い川が通っていて余計に寒く思われる。

 シセイは少し考える素振りをした。


「うん、多分」

「多分ってな」

「北の我らは土蜘蛛、と呼ばれている。彼らだって平気なのだから、あても平気さ」

「そいつらはそこで生まれたんだろ? 慣れているだけじゃねえか」

「そうかもなあ。ま、たどり着けば同族がいる。最近思ったのだが、きっと仲間同士で暖を取っているのではないかな。ほら、おしくらまんじゅうみたいに?」

「たどり着くまでは?」

「お前さまなあ。言わせるな、わかるでしょう。タキイチがいるから、これまた平気さ」


 細い指を唇にあてて意味深に見られる。

 半ば反射的に顔をそらす。彼女にじっと見られるとむずむずしてくるのだ。

 シセイはそれ以上からかうこともなく、すっとてのひらを上にして空のしたに差し出した。


「何してんだ?」

「うーん。タキイチよ、お前はこの町で宿をとって、あの滝の絵を描くつもりなのだよな」

「ああ。光景はしっかりこの目ん玉の裏に焼き付けたからな」

「ならば急いだ方がいい。雨が降りそうだ」

「ちっ、わかった」

「そうしなさい」


 元が自然に近いものだからか、シセイは天候の機微にさとい。

 山や今まででも何度か助けられていた。素直に従い、歩く足を速める。

 だがしばらくすると二人の間にある距離が広がり始めているのに気が付く。


「おい」

「気にするな。すぐ慣れる」


 森や林では驚くほど素早かった足が、只人ただびとのように遅い。

 本性の八脚八眼と四つ足では事情が違う。これまた当然だ。

 こっそり後ろを気にしても、彼女は決して「待て」を言わなかった。

 それが無性に腹の底をむかむかさせて、タキイチは夜に幾度か繋いだ手をつなぐ。


「ほ?」

「無理に歩かれると、気を遣わせているようで気に食わねえ」

「はは、それは悪いことをした。だが、できないというのがしゃくでなぁ……」

「そうかい」


 止めなかったのは意地と知り、また一段と機嫌が悪くなる。

 シセイはいつも予想通りにならない存在なのだ。

 己のわがままだとしても、思った通りにいかないのはいやなものだ。

 絵を描く時、特に出したい線が出せない時を思い出す。

 適当な宿に入り込み、好奇心旺盛な店主の目を無視してずかずか二階の部屋にあがりこむ。

 重い画材道具をやっとこさ降ろして、丁寧に広げていく。

 旅に出る前は毎日のように触れていた筆を取り出し、何度も確かめる。


「それがお前さまの仕事道具か」

「ん、そうだ。触るなよ」

「わかっている」


 横から覗くシセイの顔とからだから白いものが落ちていた。

 よくみれば蚕の繭に似た糸だった。糸は宙にとび、溶けていく。

 解れ終われば、そこには八脚八眼の女怪が現れる。


「いい筆だ、大切に使われているのがよくわかる」


 嬉しそうなささやきが耳朶を打つ。


「町はいい。よい仕事とよい道具、よい営み。穏やかであるがまま――自然にある時も休まるが、町は楽しいといったらない」

「そいつとこの筆に何の関係がある?」

「あるともさ。道具は仕事がなければ使われない。これはよく使われた道具、よい道具。だからお前さまもよい男、というやつなのだろう」

「……おう。ありがとよ」


 ぶっきらぼうに礼をいうと頬をちょんとつつかれた。

 彼女は立ち上がり、窓に近づいていく。

 雨がさあさあと控えめに大地を小突いている。

 そっと開かれた向こう側はうっすらもやがかっていた。

 軒下に逃げ込む人々の足音がどこか遠い。

 我がもの顔で世界をおおう水に、音を奪われているようだった。


「今夜は一層深い静けさと夜のなか、穏やかに過ごせそうだなあ」

「ああ、屋根っていうのは大した発明だよ」

「そうだ、先程の礼をしよう。灯りはあるか」


 一瞬邪な光景を期待したが、手をさしのべられて思考を巡らせる。

 彼女が求めているのは灯りではなく、灯りをつける道具そのものであるようだった。

 部屋の隅にあった行燈あんどんを手渡す。

 シセイはしげしげと手に取って観察してから、ふうと息を吹きかけた。

 吐息は渦巻き糸を巻き、月光の色をまとって行燈に重なっていく。


「こうなる」

「おお……!」


 思わず、美を愛するものとして感嘆してしまう。

 シセイが鼻を高くして掲げた行燈は、様々な色と紋様を宿した逸品に様変わりしていたのだ。

 花弁のひとつに至るまではちきれんばかりの若さに満ちた蘭に、儚く優美な蝶たちが群がっている。

 灯をともすと夕暮れを閉じ込めたような橙が部屋の隅を染めた。

 そのなかで舞い飛ぶ蝶、たたずむ花は幻想的ですらあった。

 喜びに溜め息をつくタキイチに満足そうにして、シセイが指先で何かつまむ動作をした。


「蜘蛛はこういうこともできる」


 空を掴んだのが合図だったようだ。

 紋様に過ぎなかったはずの蝶が橙の光から形を成して飛び出してくるではないか。

 人ならざる技、物の怪の術だ。


「すげえな、綺麗だ……」

「おや、意外と素直に受け入れてくれるものだ」

「当たり前だ。心の動きをごまかしたところで何にもならねえ。いいものはいい」

「……ふふ」

「他の模様もできるのか」

「できるとも」


 素直に興味深い。シセイの方を見て次を催促する。

 彼女は窓枠に腕をそわせ、ちからを抜いた姿勢でこちらをみていた。

 薄暗い灰と青の影のなかで、八つの腕が枝のように伸び、雲をぬけた光を遮っていた。

 瞳は黒曜石のようにきらめく。髪はぬばたまか濡れ烏がらすか、闇に溶け込んでなお女を飾る。

 よく曲がる唇は今も弧を描き、無垢な悪戯娘のようでも長きを生きた慈母のようでもあった。


「……」

「どうした? お前さま。蝶や花はやはり女好みだったか。雪と月、鳥などはどうか」

「お、ああ……そうだな、頼む」


――やはり自分はやや単純すぎるのかもしれない。


 今、思ってしまったことはきっと嘘だ。目の前にいるのは人ならざる化け物なのだから。

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