第三話 是は恋ではなく

「藤花ちゃん、藤花ちゃん。大丈夫かい? なんだか最近、顔色が悪いよ」


 いよいよ夜も更け、これから仕事も忙しくなろうという時刻。

 まだ指名はないが、客に供えて机につっぷして気力を養っていた藤花を純陽が覗き込んできた。

 垂れがちな大きな瞳と泣きぼくろが目に入る。

 藤花は心配性な仕事仲間を安心させようと、口角をニッとつりあげた。


「大丈夫よ、気にすることはないさ」

「本当に?」


 純陽はあくまで引き下がらない。

 藤花は己の目元に手をあてる。そんなにやつれているのだろうか?


「井戸にいってから様子がおかしいよ? あたしゃ心配だよ……」 


 なるべく平静を装っていた藤花の肩がはねる。

 今までだって何度も井戸で水を汲んできた。

 いつもであれば、苦笑を浮かべてすぐに否定するところである。

 だがそうできない。

 怪談に影響を受け過ぎた純陽の心配が図星であったからだ。


 本音をいえばすっかりまいってしまっている。

 あれ以来、疲れるといつの間にかいれた覚えもない茶があったり、客が入った部屋に美しい花が飾られていたりする。

 決して直接的に害を与えられてはいない。むしろ、「助けられている」ようなことばかりだ。

 客は喜び、上司は褒める。ときたま他の遊女にも同じようなことがあるようで、忙しかった長屋が快適になった。

 暇ができれば新しい客を入れるのが遊女というもので、心もち、程度ではあるが。


「ねえ藤花ちゃん、ほんっとーに、なんともないんだろうね?」


 いつになく純陽も食い下がる。

 藤花の意気の持ちよう次第でなんともない怪現象だ。

 むやみやたらに仲間を不安がらせたくない。

 そんなことで、雇い主が金を動かしてくれるとも思えなかった。

 実害がでれば商品を守るために動いてもくれようが、ないのだから。

 怖がったところで被害を広げるだけなのである。


 どう答えたものか。

 考えあぐねた時だ。甲高い叫び声が長屋に響いた。


「勝手に触らないで頂戴!」


 幼い少女のようにあどけない声色と、敵意を隠さぬ鋭さに、純陽がため息をつく。


「まぁた黄秋かい、せっかく風邪が治ったっていうのに。少しはしおらしくすればいいのにねえ」

「あの子には酷な話でしょう」


 くくくと笑う藤花に、呆れ顔を浮かべる純陽。

 今頃、この店一番の売れっ子は客に粗相しているに違いない。

 客商売としては全く笑いごとではないが、わざわざ彼女を指名する客ならば承知のうえであろう。そのうえでの笑いだった。


 藤花のいる局見世は、変り種と評判だ。

 通常、局見世は位の高い店と比べて値段が安い代わり、女の質は劣る。

 比較的金を多くとる局見世は金見世と呼ばれ、藤花の属す局見世も金見世であった。


 しかし、そろえられた女は粒ぞろいの美貌。

 ならば何故、遊郭ではなく局見世なのか?

 容貌はこれ以上ないとのことであれば、当然、容貌以外に問題があったからである。


 たとえば黄秋。

 古き世の姫君の如き高貴な顔立ちはやや幼く、背徳的な甘美があると評判だ。

 しかしこの黄秋、店一番の男嫌い。

 もとは花魁にもなれる器量とうたわれていたが、いざ客をとれば、男を罵り貶めて、叩いて殴るの大抵抗。

 それでもいい、むしろそれがいいとのたまう客で稼ぐ女だった。

 藤花は、今宵もそんな変わった客が黄秋を選んだのだろう――と思っていたのだが。


「おかしいね、なかなかおさまらないよ」


 耳をそばだていたらしい純陽が口元に手をあてる。

 純陽のいうとおり、黄秋と客のものと思われる罵声はなかなか途切れない。


「こいつはご新規さんかしらね、他の奴らは何をしているんだ?」


 たとえわが身を売る遊女とはいえ、何をしてもいいわけではない。

 むしろ大事な商品だ。ただでさえ病に度重なる中絶と死にやすい遊女である。

 比較的安価に扱える顔のいい遊女とくれば、仕入れるのも難しい。

 だから普段であれば、店で働く男どもが遊女を守ってくれる。

 いくら高級な見世にはかなわぬ金見世だとしても。そのあたり、この店のあるじは賭け事好きの変わり者なだけでなく、なかなか親切といえよう。

 屏風一枚で仕切られただけの《仕事場》だ。長屋式につながった部屋で響く声は、簡単に他の遊女と客にも届く。

 だというのに、今日に限ってなかなか男はかけてこなかった。


「もういい、あたしがいってくるよ」

「藤花ちゃん!? また怒られるんじゃないのかい」

「平気だって。男どもが怠慢なのが悪いんじゃあないか? あんたは来なくていいからね!」

「いかないさ、おっかないモン」


 嘘をつきなよ。内心、藤花はおかしくて笑う。

 この金見世にいる時点で、どんなに気弱でたおやかに見える純陽にだって悪癖がある。

 怪談話に病の同僚。遊女として苦痛と危険と過ごすうち、その魅力にとりつかれた女。

 藤花からすればまったく理解できないが、どうにも純陽は恐れを好んでいるらしい。

 黄秋と仲が良いのもそのせいかもしれない。

 なにせ純陽を狂ったように望む客は、黄秋の客と反対に、女をいじめることが好きな客ばかりなのだから。

 真逆だとかえって足りないものを補えて、気分がいいのかもしれない。


 ともかく。

 黄秋は事件を呼び込みやすい遊女であった。


「お互い様なんだから。仲間は助けあわなくっちゃね」


 純陽に見た目は陽気な笑顔を向けて、こっそり藤花は部屋を抜け出す。

 足音もなく黄秋の怒声が響く扉の前に立つ。

 一度、二度と深呼吸をする。

 そして勢いよく開いた。


「だからけがらわしい手で、気持ち悪い触り方で、いきなり触らないでっていってんのよ! 当然でしょう!?」


 当然、藤花の耳には一番に黄秋の罵声が飛び込む。

 客である男は怒りに真っ赤に震えている。

 藤花の登場に気づく余裕もないようだ。


「この、商売女の分際で、」

「だからといって心まで殺せるわけではございませんので。虫に触られて喜ぶ女は珍しいでしょう?」


 わなわな身体をゆらす男に嘲りを隠しもせず、黄秋は流れるように言葉を紡ぐ。

 いつも通りとはいえ、藤花は頭を抱えた。

 いくら感情が抑えきれぬからといって危険すぎる。最初のひとことで謝って、やめておけばよいものを。 今の主人に拾われていなければ、他の遊女への見せしめも兼ねた折檻で死んでただろう。

 天を仰ぎながらも、藤花は再びふっくらとした愛らしい黄秋の唇が薄く開くのを見逃さなかった。

 我を忘れそうな客の男と黄秋のあいだにあわてて割り込む。


「ごめんなさい、このコったらどうにも思ってもないことが口から飛び出てきちゃうみたいで」

「藤花さん、あなた、」


 そんなことないわよ、と叫びかける黄秋の口を掌で覆う。

 黄秋の言い分は簡単に理解できる。

 きちんと知りもせず、この見世に来たのが馬鹿なのだ、とか。

 好きでやってる商売なんかじゃない、だとか。

 どちらもこういう騒ぎになったときの常套句だ。もちろん、どちらも客には通じない。


「とりあえずいったん落ち着いて――」

「ふざけるな、何故お前たちに俺が指図されるんだ!」


 茶でも持ってこさせようかと混乱でまとまらない頭のまま考えていた藤花は、想像以上に男の腹の虫が悪いことには気づけなかった。

 はっとした瞬間には、男の太い腕が自分の胸元まで伸びかけている。

 藤花の脳内に、次にまたたきしたときに襲い来る衝撃が浮かぶ。

 胸倉をつかまれ、殴られるか、放り投げられるか。

 どちらにせよ痛みが怖くて、とっさに目を閉じる。

 しかし、やわい身体を襲うはずの痛みは、いつまでもやってこない。


「あれ?」


 こわごわ目を見開けば、男がいなくなっていた。

 視界のほとんどをしめていた男物の着物が視界から消えて、藤花はとっさにそう思う。

 ほうける藤花の肩を黄秋がちょんちょんと小突き、耳元で囁いた。実に嬉しそうだ。


「よくわかりませんが、アイツ、勝手にすっころんだわ! マヌケですこと」 


 くすくすと笑う黄秋をたしなめるどころではない。

 彼女のように事態を面白がる余裕は、藤花にはなかった。

 目線を下に向ければ、確かにそこにはしりをさすり呻いている男の姿があった。

 だが、いままさに藤花に危害を及ぼそうとしていた男の災難が、藤花には気味が悪くて仕方がない。

 思い出されるのは水の入った桶、茶、美しい花。そして井戸である。


 さあっと顔から血の気が引く。

 客をいたわるのも忘れて棒立ちになっている合間に、ようやく見世の男たちがかけつけた。

 男たちはやんわりと客の男を囲み、はたからみれば謝罪と説得を繰り返してから、どこかへ連れて行った。

 きっともっと口のうまい相手のところへ連れて行って、なだめすかした後、望み通りの女の元へ案内しなおすのであろう。

 その背中を見送る間もぼうっとしていれば、さすがの黄秋も、これはおかしいと思い始めた。


「ねえ、藤花さん。大丈夫?」


 純陽と同じことを聴かれて、ようやく藤花は気を取り直す。

 藤花は気がおかしくなったと噂されれば、あまりよいことにはならない。


「ああ、もちろんさ。びっくりしちゃってね」

「いつもなら平気ではありませんか。その、お疲れならば、いえそうでなくとも、別に無理してかばって頂かなくても。これはわたしが悪いのですし。幼稚さの報いは自分で受けます」


 藤花はてっきり正気を疑われているものと思ったが、どうやら黄秋は自分のせいだと思ったようだった。

 気まずそうに目を伏せる黄秋の両肩をとっさにつかむ。

 これはもう藤花にとっては反射のようなもので、抑えようがなかった。まるで黄秋の男嫌いのように。


「気にしなくていいんだよ、これはあたしの勝手なんだから」

「でも」

「いいの。むしろあたしがあたしのためにやってるようなもんさ。仲間同士の助け合い、困ったときはお互い様。そうだろ?」

「……はい」


 やむをえずといった調子で、黄秋は頷く。

 それに満足して、藤花は柔らかな彼女の黒髪を優しくなでた。

 困ったときはお互い様。何も嘘はついていない。


「でも、いつだってうまくいくわけじゃないんだから。命は大切に! 我慢もしてね」

「ええ、努力します。努力は」


 口だけは立派にのたまう黄秋の頬をつつき、藤花はさっさと黄秋の部屋を出た。

 しっかりふすまをしめ、誰にも聞えぬよう小さなため息をつく。

 早く部屋をでてしまわねば、いつ憂鬱さが口から洩れてしまうかわからなかった。

 幸せが逃げるとは言うが、我慢せずにもらしたため息は、多少肩を軽くしてくれる。

 くれたが、ひと時の間であった。何故なら、


「おかあさん、だいじょうぶ?」


 そんな少年の声が、頭上から聞こえてきたからである。


「おわぁッ!?」


 あまりに驚いて、振り返ろうとし、勢い余って足を滑らせた

 先ほどの客よろしく転びかけた背を、冷たい何かが支える。


「おかあさん、だいじょうぶ?」


 先ほどと同じ問いが、また。

 穏やかだが淡泊なものいいは、水の中で聞き取ったかのように奇妙な「まく」がかかっていた。

 ばくばく跳ねる心臓をおさえ、まばたきも忘れてゆっくり、ゆっくり背後に目をやる。


 そこには少年か、あるいは青年にも見える「男」がいた。

 背丈は立派で既に成人のよう。

 だがしかし、その瞳は赤子の如き純粋無垢。顔立ちは成長したものなのに、表情は声音通りにあどけない。

 藤花は直感する。コレは人ではない。

 なにせ、青年の身体は蛍の光で編まれたように、緑の燐光をまとい、着物は水に浮かんだかのようにたゆたっているのだから。

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