第四話 空蝉の歌
藤花は幽霊にとりつかれた。
そう受け入れるのに、実に三日かかった。逆に言えば、それだけたてば、かえって何も気にならなくなった。
恐ろしい気持ちは確かにあるが。
「おかあさん」
そういって無邪気にまとわりついてくる幽霊は、見目こそ育った男とはいえ、中身は赤子そのもので。
他の遊女ならばいざ知らず、藤花にはできなかった。
■ ■ ■
つきまといこそすれども、誰かに危害をおよぶでもなし。
母に従う素直な幼子のような幽霊を「霊」と呼ぶのも忍びなく、藤花は彼を「ミドリ」と呼ぶことにした。
人間を「ヒト」とは呼ばないのと似たようなものだ。
おなごのような名でも構わず、幽霊はミドリと呼ばれるたびにいたく喜ぶ。
それがまた藤花の弱い部分をうつ。
ゆえに誰に相談することもなく、だらだらと、ミドリの好きなように過ごさせてしまっていた。
あの井戸を訪れてひと月がたつ。
今年の梅雨はのんびり屋らしく、まだ上空にとどまっている。
藤花は生温かな雨がふりそそぐのを横目で眺めた。その横にはミドリもいた。
何をするでもなく、ただそこで足をゆるめている。
雨を面白がる様子でもない。とがった唇をみるに、何をすればいいかわからず、とりあえず時間を持て余しているようだ。
「ミドリ」
呼びかければすぐにミドリは振り返る。
どこかに忘れてきたように真っさらな無表情のうえで、けがれない瞳が輝く。
答えるのが当然という反応に、かえって藤花は困ってしまう。
「おかあさん?」
呼びかけておいて考え込む藤花に、ようやくミドリは声を発する(からだがないくせにどこから声をだしているのだろう)。
藤花が困っているときはうるさいぐらい「おかあさんおかあさん」とうるさい子だ。
だが、それ以外の時は空気に溶けてしまっている。音ひとつたてない。
――困った子だねえ。
素直はよいものの、下手をすれば純陽や黄秋よりも厄介だ。
さて、ともに過ごす時間が長くなるにつれ、ミドリへの警戒心も麻痺してきた。
常にすぐそばに幽霊がいて、藤花以外の誰にも見えない。黙られているときに覚える感情は、今となっては恐怖からうっとうしさに変わり始めている。
そこにいるのに、自ら何も求めてこない――それは、異物とはまた違った意味で気味が悪い。
――こいついったい何なら話せるのしら。
遊女もよくわからないやつばかりだが、話を聞けば少しはわかるところもあるものだった。
どうせ外は、世界を停滞させるほどの曇天だ。
実際は仕事をかき集めねばならなくても、暇という余裕を演出するぐらいはお手の物。
藤花は窓枠に肘をかけ、楽な体勢になる。
「あんたはさ、なんであたしを母さんなんて呼ぶのさ?」
「おかあさんは女の人でしょう」
「女ならだれでも母さんってわけじゃあないだろう」
「そうなの?」
ミドリは猫背の藤花をまっすぐ見つめ返す。
「なにいってるんだい。あんたの母さんは一人だけじゃないか」
「そうなの? なんで?」
「なんでって、そりゃあ」
それ以上はさすがにいいよどむ。
ミドリの疑問に対する答え自体は簡単だ。「誰しも母親は一人だけ。その腹を痛めて産んだ人間が母である」。
だが、その答えが浮かぶと同時に、藤花は気づく。
もしもミドリが噂通りの存在ならば、母親はミドリを産むより先に死んだ。
ミドリからすれば、孕まれたまま井戸に落とされたということになる。
つまり、
「ミドリ。あんた外に出たことってある?」
「外って?」
先ほどから、藤花が何を問うてもミドリは質問に質問で返す。 藤花は、ああ、と不思議がるミドリを無視して嘆息した。
「あんたはここの女たちしか知らないのね」
快楽を追求した恋愛を楽しむ遊女たちと、その周囲だけをみてきたのだろう。
他の場所や命、あり方が存在するなど夢にも思わずに。
生きた母の愛に触れたことがない。
まともな育ち方をしたわらべを知らない。
本物の愛から紡がれた命も見たことがあるまい。
見た目ばかりは店を訪れる男を見て、男はそう育つものと学習して育っていても、頭の中身は赤子以下だ。
だから、母親と同じ遊女である藤花を母親だと思い込んでいるのかもしれない。
藤花はわずかにミドリを理解して、思う。冗談ではない、と。
「ミドリ。お母さんっていうのはもっと地味な色の服を着ているのよ」
「おかあさんたちはいつも綺麗な服を着ているよ」
「そうでしょう、でもあたしたちが着かざるのはなんのため? いいこと、普通のお母さんは男に触られるのが大変なことよ。お母さんってのは優しくてきれいで強いのよ。あたしとは違うの」
ミドリの女と見まがうほど整った眉目にしわが寄る。
愛を信じ切っていた母親にしかられた子どもの表情だ。
「おかあさんは僕が嫌いなの?」
「どうしてそうなるのよ……あのね。あたしは母親じゃないの、それが事実。別になんにも悪いことをしなかったら、あたしもなんにも気にしない。それでいいでしょ? でもお母さんにはなってあげられないの、あんたが嫌な気持ちになるだけよ」
藤花はこめかみを中指の関節でグリグリと押す。頭に刺激をやって落ち着くためだ。
つい感情的になっていらぬことをいってしまったと反省する。
大きく息を吸うとフフッと腹の立つ笑いが耳に届く。
藤花が感情の高ぶりを抑えられず、鼻で笑ってしまったのだと自覚するまで、数瞬を要した。
――うつせみ二匹。ちっとも話が通じやしない。
昔ならったいくつかの知識から、そんなことを思う。
何かと強い言葉が飛び出る藤花にも、勉学と親しんだ時期があった。
学のある女との機知に富む会話を好む客もいるからだ。
遊女とは遊びを楽しむための女。通常、学のある女はそれなりの身分をもつものであるが、遊女でなら仮初の夢に浸れる。
ウツセミには主に二つの意味がある。
この世の今を生きるもの。命の抜けた抜け殻。
嘘だらけの生き汚い小娘と、光をまとう純粋無垢な幽霊と、どちらがどちらなのか。
無性にわが身がむなしくなって、藤花の美貌がくしゃりと歪む。
「おかあさんは優しいよ」
「あんたは幼いからわかんないのさ」
「わかる。みんながいやがるぼくみたいなものに、何かとてもあたたかい気持ちを向けてくれたよね。だからおかあさんだって思ったんだ。ほら、まちがってないよ」
心なしかミドリの頬が膨らむ。
「かわいいことをいうのね。けどやっぱり違うわ。いいわ、教えてあげる。ガッカリすること。あたし、わかってたのよ」
ウツセミは何も言わない。
無垢な瞳と小首をかしげ、藤花のつぶやきの続きを待つ。
枕元で、意味も理解できない母親の睦言に耳を傾ける子のように。
その動作が無償にいとおしくて、藤花は彼の頭を撫でた。
湿った細い髪の感覚は、細い糸を掴むかのようにかすかだった。
「黄秋ちゃんはたすけられたくなんかないんだって。わかっているのに、わざと自分をおさえるのをやめているのよ、あの子は」
遊女は表向き、働いて見世に金を返せば自由になれる、ということになっている。
ほとんどの遊女は家族が金に困って、生活をするために売られた娘。
経緯は色々あるが、女衒に買われ、遊女としての芸を磨くため、服や装飾品を買うためにさらに見世に借金をして、解放されるための金額はどんどんあがっていく。
年を重ねて遊女そのものをやめても、たいていの女は役目をかえて見世に残る。
例えば遣手婆。遊女の値段にどう遊ぶのか、客と交渉し、うまくもうけを得る役目。
なにせ、見世から解放されたところで、遊女であったという事実は消えない。
家に帰っても既に売った娘として歓迎されないことも多いときく。
偏見に差別だってある。心の優しい男と結ばれて平穏に仲睦まじく暮らせるはずだなんて、甘い夢はみられない。
「あの子、きっと早く死にたいのね。それでうんと見世に損をさせて、早く楽になっちゃいたいんだわ」
「でもおかあさんは、あのおかあさんのことを助けたよね?」
「ええ。だから、あれは黄秋のためじゃないの。あたしのため。あたしが、誰かを助けたかったから。暖かな心のふれあいに満たされた気持ちになりたかっただけなの」
ミドリは黙り込む。
頼りないのっそりとした動きで、這うように藤花に近づき、その胸元にそっと頭部を預けた。
考えるのに疲れて、瞼を閉じる。
「難しすぎたかしら」
「うん」
藤花の華奢な腰に腕が回された。
ミドリの存在しないはずの腕。うっすら透けた二の腕にちからがこもる。
「それでもぼくは、あなたがすきだよ」
まっすぐな無償の愛。それにどう答えたらよいものか。女の藤花にはわからなかった。
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