第五話 汝、虚ろなりや

 あの金見世には幽霊が出る。

 もともと、藤花のいる金見世にはそういったうわさがあった。

 無論、井戸の赤子の話である。

 井戸は客たちが通るような場所にはなかったから、あくまで噂は噂、意地の悪い客が遊女をからかうためのものでしかなかった。


 その噂が、いつのまにか変わった。

 曰く、「幽霊にとりつかれた遊女がいる」と。


 ■ ■ ■


 当然、藤花は噂を聞いた夜から悩まされることとなった。

 誰もいない時間は額をおさえ、窓の向こうを見てため息をつく。

 噂自体も衝撃だったが、知り方が最悪だった。

 なにせ藤花が噂を知ったのは、自分を求めてやってきた客に

「君がとりつかれた遊女?」

 ときかれたせいである。

 藤花が事態を把握する頃には、とっくに手が及ばないところまで悪名は広まっていた。

 どこからそんな噂が流れたのか。寝ても覚めても気になってしまう。

 そのたび、ニヤついて呪われた女かと問う男どもの底意地の悪いツラを殴り飛ばすが、それで気がまぎれるはずもない。


「どうしましたか。また曇った表情をしていますが」


 少し気を抜くとすぐにため息を漏らしてしまう藤花に、青年の声がかかる。


「ミドリ」


 もう聴きなれたはずなのに、一瞬誰かわからなかった。

 ミドリが文机に向かっていた顔をあげ、藤花を見つめている。

 顔立ちは何も変わっていないはずだが、心なしか数週間前より引き締まっているようだ。  


「その本はもう読み終わったの?」


 話題をそらすために、ミドリに貸し与えた本を指さす。

 最近流行りの旅行本だ。

 あまりに無垢で幼稚なミドリの教育代わりに与えたものである。

 本といっても種類は滑稽本だ。やや品のないネタや洒落もある。

 正直子ども向けではないという反省もあったが、中流階級向けの金見世に勤める藤花では、これが「自然」な選択だったのだ。

 ミドリは薄く愛想笑いをして、机の上に本を置く。


「もう三度は読みなおしたでしょうか。面白かったよ。この場所の外のこと、この場所の外で暮らす人々の目線。色々わかって、勉強になりました」


 口調も随分と変わっている。

 大人への礼節と、親しみを覚えた相手へのきさくな態度が混ざり合った言葉づかいに。

 本を読み始めたミドリは好奇心が芽生え始め、あれはなにこれはなにとよく聞き、あっという間に知性を育て始めてしまった。

 ミドリにはその過程が、ミドリが年に見合わぬ幼子ではなく、年相応の青年になりかけているように思われる。

 そう思うたび、なぜか藤花の胸が痛む。

 今もまた大人びた感想を聞いて、ちくりと胃に心臓がちくりと苛まれた。


「ほら、また思い悩んだ顔をしたよ。なにか苦しいことがあるのですか?」

「そんなことないわよ」

「それで騙されてあげるほど、僕はあなたが嫌いではないし、大人でもありませんよ。何せ赤子ですから」


 かわそうとするも、ミドリは自虐まじりに追及する。 

 ミドリ自身の言葉とは反対に、藤花はその透き通った目を見ていると心のすべてを見透かされた気分になってきた。

 遊女として芝居の腕はあったはずなのに。赤子に心配される情けなさに頬がほてる。


「違うのよ」

「なんてことはないと? ならば、僕にそれを教えてくれても何の問題もないのでは?」

「・・・・・・あんた、ずるくなってきたわねえ」

「人らしくしたたかになった、と思って頂ければ」


 藤花は肩を落とす。

 かわし続けても、ミドリは知りたいことがきけるまでしつこく問い詰める気だと悟ったのだ。

 近頃、藤花につきまとう噂について話すと、ミドリはきょとんと首をかしげる。


「それの何が問題なのですか?」

「おばけつきの遊女なんて、きみが悪いでしょう? 底意地の悪い客でなければわざわざ来ないじゃない」


 もともと、藤花の客には心の弱い男が多かった。

 誰にでも心を開いてしまう、優しく接することで自己満足を覚えたがる藤花という遊女は、無条件の愛を求める男に人気の遊女だった。

 少数ながらしっかりと客を掴む形で営業していた藤花だったが、それが逆に痛手になっていた。

 人に心を開くのが苦手な、警戒心が強い性格の人間も客層に多かった。彼らが呪いの道連れを恐れ、離れていってしまったのだ。


「そういうものですか」


 ミドリはまだ首をひねったままだった。

 自らが「幽霊」であるせいで、怖がる立場に立てないのだ。  

 成長したと言ってもまだまだ人の心の機微に疎い。


「そりゃあそうよ」

「もうけ? がでなければいけないのですね」

「ええ」

「では、それがあれば安心して笑うことができますか?」


 藤花は沈黙した。

 それでもまたたきを幾度かできるだけの間をおいて、緩慢に頷く。


「ええ、きっとね」

「わかりました」

「わかりましたって?」


 いったい何がわかったというのか。

 この、人の生を知らぬ幽霊の首肯に、藤花の背に冷たい汗が伝う。

 ミドリは藤花の問い自体には答えず、こういった。 


「僕は藤花さんが幸せであれば」


 目を細めて笑うミドリの笑顔に、妙に心が波たつ。

 悪い子であるはずがないのだからと目をそらしたのは、ミドリの無垢さへの信頼と、優しいミドリへ覚える愛しさのためだった。

 疎ましいことを放り出した視界と思考の隅で、ひとつひっかかる。


 いったいいつから、この子はわたしを名で呼ぶようになったのだろう。

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たまのおあわせ 室木 柴 @MurokiShiba

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