第2話 異形の絡新婦

 張り巡らされた糸の向こうに、巨大な影が映る。

 丸太のように太い八つの肢。しかしその肢も、本体と比べればか細いものだと知れた。

 のっそり闇を這うそれは、じっと値踏みするようにタキイチを覗き込んでいる。


「はあ……ひっ……」


 情けない悲鳴に我ながら悲しくて仕方がない。

 それは、蜘蛛だった。全体を見るには見上げなければならないほど巨大な蜘蛛だった。

 現実だ。走馬灯は無慈悲に終わり、気絶することもできず元の地点に戻ってしまった。


「どうした、恐ろしいのか」


 熱の感じられない声音がすぐそばで発せられた気がした。

 寒さのなかで冷や汗がとまらない。

 だが死の間際に立って、タキイチのなけなしの矜持がうずく。

 頭が真っ白になったと思った瞬間、口から罵声が飛び出していた。

 脳の隅っこで旅立ち前に交わした師とのやりとりが浮かぶ。


「お前なんか怖かねえ! 俺はここで死ぬのが惜しいだけだ!」

「つまり恐ろしいのとは、違うのか」

「ああ違うね。俺はまだ自分が描くべきものを見つけることすらできなんだ。移ろう季節も吹く風も降る雨もそびえる森も愛してきたが、女と愛を交わしたこともねえ、これぞというものもわからぬ。一生の絵を描く前に絶えるとは、これほど口惜しいことはない!」


 いっとき静寂しじまが降りた。やがてくつくつと低い笑いが響く。


「なんだ。貴様、絵師か? なんならあての似顔絵でも描くがよい」

「ふざけろ!」

「そう自棄やけになるな。あてとて無益な殺生は好まぬ。追っ手でないとなれば話は違う。見よ」


 銀糸の幕の向こう側で、骨が軋むような、小気味よいが胃が悪くなる音が鳴る。

 黒い影がうごめく。さながら蛹が蝶になる様を逆さまに見ているようだ。

 呼吸も忘れておののいているうちに変身が終わる。

 幕に白く優美な手が差し込まれる。

 貴き人をおおう御簾みすを、内にこもる姫が自らひきあげたかのようだった。

 全身を表した女は、確かに先程踊っていた美女であった。

 しかしその姿は人にあらず。

 黒目がちな瞳が四対、細長くたおやかな腕も三対、脚一対。

 全身に刻まれた黄金の刺青が闇夜でなまめかしく輝く。

 濃紺の着物に羽衣をまき、不遜にタキイチを見下している。


――黄色の紋様に細長い手足、美しい女。絡新婦じょろうぐもか!


 男を誘惑して食ってしまうだとか、糸を巻きつけて滝に引きずり込んでしまうとか。

 蜘蛛といえばその姿の無気味さもあいまって、物騒な逸話には事欠かない生き物だ。

 見た目が華奢な女だからといって油断してはならない。

 そう思って身をこわばらせた時、彼女の影に目がとまった。

 これが女の怪異としての本性らしく、影もまた手足八本の中途半端な人間の姿をしている。

 だが、その影がうっすらと赤い。

 黒と混じってますますどす黒い色合いは、不吉なものを想起させる。


「赤いだろう? まるで、かたまった血のように」


 タキイチの目線を読み、妖艶に女が笑む。ひとらしい唇は朝露に濡れた桜のつぼみのようだ。


「あては幼い頃に東から来て、以来、人に化けて暮らしていた。しかし先日、おかみだかなんだか知らんが、あてをとらえに来たものがあったのよ。勤めていた呉服屋から命ひとつで抜け出したが、無傷とはいかなかった」


 ほれ、と女は着物をはだけさせ、後ろを向く。

 長い髪を腕であげ、後れ毛とうなじをさらす。

 そこには紅葉のように真っ赤な線が、つ、と走っていた。


「背を向けた際に、な。あてが武士であれば恥と腹を切っていたところだわ、はは」

「それがなんだという?」

「せっかちは嫌われるぞ。だからそのよわいで女を知らぬのだ。もっとも、男を知らぬはあても同じだが」


 闇夜で輝くのは美しい白い肌のみ。唯一のあかりを求めて、火に誘われる虫のように女の一挙一動を追う。

 そのため、タキイチを難じる台詞に続いた独白と、うっすら上気して染まる様子も見逃すことができなかった。


「そうさな。貴様、名はなんという」

「教える名などない」

「食うぞ」

「……タキイチ」

「そうか、タキイチか。よい名だ。滝はよいもの、一もよいもの。まっすぐに流れ、穢れを落とす。相応しい名だな」


 巣にとらわれたタキイチに女が歩み寄る。腰をかがめ、上目使いの格好になった。癖のない髪がするりと落ちる。

 普通の女であれば愛らしいはずの挙動も目が八つでは落ち着かない。

 あまりに多い瞳は小さな挙動ひとつ見逃さないだろう。

 事実、緊張に喉を上下させたタキイチを見て、からかうように唇の端をあげた。

 そして腕の一対をそっと太い首にかける。


「……やはり、殺すのか」

「だからせっかちだといっているだろうに。が、貴様の答えによってはそうなるな。よく聴いて、よく考えろ。時間ならくれてやる」


 親指で喉仏をくすぐって、女は問う。


「見ての通り、あては手負い。貴様も怪我をしたならよく休むだろう」

「あ、ああ」

「だが腹が減っては血肉が増えぬ。おちおち穏やかに寝られない。だからあては追っ手を返り討ちにして、食おうと思った。精をつける豪華な料理が向こうからやってくるのだ、使ってやるさ」

「俺を食うのか」

「三度はくどい。あても焦らすぞ? タキイチよ、この姿を見てどう思う」

「……そりゃあ……」

「美しくも愛らしくもないだろう。そんなあてに、?」


 素直にいえば殺される。そう思ったのに、先に女の方が認めてしまった。

 何故かそれに、肺を水でいっぱいにされたような苦しさを覚える。


「あては知らぬし、貴様も知らぬ。このままでは傷を癒すのに時間がかかる。抗う間もなく追っ手に討たれるなど、嫌だ」


 首にかかった手にちからがこもる。


――今まさにお前が抗う間もなく俺を殺そうとしているじゃねえか!


 そんな罵倒も出てこない。心なしか潤んだ女の目を見ていると、見えない何かで喉の奥がつまるのだ。

 ふと、呉服屋の娘に同情したことを思い出す。

 どうやら彼女には、いなくなることを悲しんでくれる誰かはいないようだった。


「あてはまだ、この世で生きる意味の何も謳歌していない。貴様と同じだ」


 垂れ下がるままにしていた残り二対の腕で己を抱く。

 唇をかみしめ、朱が濃くなった。内側からうっすらと染まるのを止めることもない。

 はっと呼吸の仕方を思い出したのは、息苦しさが消えた後。女の顔が吐息が触れるほど近くに来てからだった。


「あての名は、シセイ。刺す青と書いて、シセイと読む」

「シセイ」

「タキイチよ。貴様……お前さま。あてを……食らえるか? 美しいものを愛する手で、この醜い蜘蛛に触れられるか、愛せるか」


 その意味がわからないほどタキイチは枯れていない。

 ひとならざるものに乞われている。それだけを理由に逡巡する。


「その度胸があるのなら、見逃してやらんこともない。それでも必要なものは得られるからな」

「お前は、それでいいのか」


 問い返したのは気性に過ぎない。

 シセイは虚を突かれたように強張った表情を崩し、そしてかかと笑った。


「何故気にする? 所詮ひとと物の怪よ。互いに自分のことを気にしておればよい」

「それは、そうだが」

「……さて。どうする? このままあてに食われるなら目を逸らせ、ひとおもいにあの世へ送ろう。だが、よいなら――その、抱きしめてくれ」


 それが決して甘い申し出ではないことはわかっていた。

 これは互いの命のための譲歩なのだ。

 じっとりにじむ手汗を握りしめ、タキイチが選んだのは――

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