第10話 命のせんたく

 春は命が芽生え、夏は豊かにのびる。

 北の伽藍は美しい。噂通りに幽玄な場所だ。

 無駄な色彩が少ないのに、味わう余暇はある。

 タキイチはずっとそれを求めてきたのだ。

 深く計り知れない、気品あり優雅な世界を。


「……シセイをもっとも美しく描くには、どうすればいい……」


 すぐそばにあるのにつかめない。それがひどく歯がゆかった。

 木々は縁側で太陽と水を浴び、爽やかな青い匂いを風とともに室内に運ぶ。

 夏だった。

 この香りを嗅ぐことも感覚を刺激してくれる。

 わらにもすがる心もちで、伽藍内の資料を閲覧し、触れえるものに触れていた。


「お前さま、気持ちは嬉しい。しかし根を詰め過ぎではないか」

「わかっている、わかっているんだが」


 時間が過ぎることは止められない。

 顔の半分に手をあてるタキイチの肩に手をあてたシセイはしばらく考えこむ。


「そうだなあ。ああ、そうだ。カルラ殿が近くに温泉があるといっていた。行ってみないか?」

「温泉? 山とはいえそんなものまであるのか」

「こんな北で人が集まるとしたら地が暖かいからというのは道理だな。命の洗濯というし、一度堂々と浸かってみたい」

「温泉入ったことないのか」

「こいつがあるからなあ」


 そういって己の全身を飾る黄金のいれずみを指す。

 奇怪な術の文様にも民族的な意匠にも見える、特徴的な柄だ。

 やはり目立つので、人に化けているときは同じく糸で覆って隠していた。


「背中は自分の目で直に確かめられないだろう。衣服で隠れるから生活には困らないとはいえ、寂しい時もある」

「ふぅん」


 タキイチが考え込んでいるせいで言い出せなかったのだろうか。

 また自分のことに集中して気遣わせてしまった。

 焦っているのはタキイチだけではないのに、情けなくなる。


「ああ、行こうか」

「本当か! 嬉しいなあ」


 文字通り飛び上がって喜ぶ姿にますます胸が痛む。

 絵を描くのも大事だが、彼女との時間も大切にしなければならないと肝に銘じた。



 露天風呂は伽藍が構える山の頂上近く、その裏手に構えられていた。

 管理も伽藍の者がつとめているらしく、二人で向かうと当番らしい男に朗らかに応じられた。

 男は狼の顔をした獣人で、笑っているかはよくわからなかったが。

 伽藍に逃げ込んできたものはこうして伽藍内や近隣で仕事を与えられているらしい。


「うまくやってるもんだ」

「別段すべての物の怪がここにきているわけではないから、なんとかなるのだろう。しかしわれらにとっては理想郷よな」


 時間帯によって入浴できる性別は変わる。しかしあらかじめ二人のことを聞いていたのか、特別に混浴にしてもらってしまった。

 別にいいといったことにはいった。だがあの顔で「本当に?」と聞き返されると妙に怖い。


「なんつうか、ちからが抜ける……」

「風呂だからなあ。しかしいいものよ、広くて、湯は熱いのに涼しい風が素肌を撫でて」

「風が涼しいというか、体が温まっているから涼しく感じるんじゃないのか」

「……なるほど!」


 本当に初めてらしく、シセイは幼子のようにはしゃぐ。

 そのたび大きなおなかが動いて、少しひやひやしてしまう。


「…………」

「…………」


 風呂は木の板で囲われ、その上部から木々の先っぽが覗いている。

 また風呂場の隅には小柄な木と岩がおかれ、風雅を演出していた。

 肩までつかるとじわじわと考えるちからと強張ったものが抜けていく。

 最初はよくしゃべっていたシセイも、やがてだらんとしてのんびり風景を楽しみだす。

 己と同じ楽しみを味わっているようで、心も暖まる。

 だがそこではっとした。己と同じでどうするのだ。いつも自分に合わせてしまって、それで終わってよいだろうか。そんなはずはない。


「シセイ。なんか話したいことはねえのか」

「ん? なにかとは? あては話すべきこと話しているつもりだ」

「必要性とかじゃなくて、なんかこう……なんかだよ」


 あまり態度を気にしてこなかったのをこれほど後悔したことはない。

 身振り手振りを交えそうになるが、手をあいまいに動かすだけで終わる。


「うーん、そうかあ、話したいことかあ」


 吹き抜ける青い空を見上げ、うんうんうなりをあげだす。


「……えっと、ちょっとわがままをいっても、いいか」

「いい」


 即答した。もっと安心させる言い方がある気がした。

 それでも彼女は喜び、赤く染まった顔ではにかむ。


「お前さまが描く一生の絵は、精魂を込めたものだから一枚が限界なのだよな」

「ああ」

「しかし、やはり描かない時間はあるのだろう」

「あるな」

「そう、そうだよな。じゃあ、その……落書きでもいいんだ、たくさんの絵を描いてほしい」


 落書き程度でいい。息抜きか手慰み程度に描くのであれば、やぶさかではない。

 しかしなぜわざわざ頼むのだろう。

 彼女がいうのだから悪意はないはずだ。ただ首をかしげる。


「あのな、子どもがな、見れるようにしてあげたいんだ。お前さまの絵を」

「……」

「ダメか?」

「……いや、そうだな。大事なこと……だと思う」


 また情けなくなる。親になる、そうも決めていたはずなのに、生き方を示すだけで満足しようとしていた。

 湯のなかで彼女の手を握ると、今度こそ花咲くような満面の笑みを浮かべる。


「本当か! ああ、よかった、嬉しい……」

「あんまりかさばらないほうがいいか」

「では巻物なんてどうだ? 昔、呉服屋の主人が絵巻物を見せてくれたことがあるのだが、あれはよいものだ」

「ああ、巻物、それなら確かに持ち運びやすいし色々書き込めるな。巻物、巻物か」


 その形態を思い出し、横並びに様々を描き込むことを思い描く。

 できれば白紙を埋め尽くさないようにしたい。詰め込み過ぎるとかえって見づらい。得意は風景画だが、動物や人も描くほうが見る側にとっては目が楽しかろう。


「生まれた子が男でも女でも楽しんでくれるといいなあ」


 言葉を交わせるかもわからない我が子に思いをはせ、うっとりと呟く。

 彼女と言葉を交わして、あれがよいこれがよい、ああでもないこうでもないと話し合う。

 絵描き以外と絵について話せるのが、これほど楽しかった時はない。

 楽しく話していると発想が次々わいてくる。

 それがおりてきたのも突然のことだった。


「巻物――掛け軸、そうだ、掛け軸にしよう」

「……一生の絵の話か?」

「ああ、掛け軸にしよう。確認したいのだが、お前さんは蜘蛛であることを誇りに思っているのだよな」

「勿論だとも。たとえ否定しようとも変わることはない。そしてあてはあてなのだから、誇らしいに決まっている」

「そうか。子どももそう思えたら、いいな」

「……ああ……」

「だから、見返り美人図にしようと思う。蜘蛛の文様と瞳が見えるように描く。とびきり美しく、お前さんが己を喜べるように、子が母をよろこべるように」


 これは誰かのための絵なのだから、タキイチは想いを込めるだけでよかったのだ。

 余計なものが抜け落ちれば、嘘のように筆が動く気がした。

 言葉が返ってこない。

 心配になってその顔を改めて見やる。

 彼女は言葉を失って、ただただ微笑んでいた。

 そのまま見つめていると顔をそらされて、ようやく照れているのだと気が付いた。

 タキイチまで気恥ずかしくなって風呂の向こうを見た。


「子どもの名前、どうしようか」



 そうして秋はやってくる。

 清浄な伽藍の一室に血が飛び散る。

 初めての事態に伽藍のどこもてんやわんやの大騒ぎ。

 紅葉が灯篭の如く世界を染め上げるなか、二つの新しい産声が響き渡った。

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