第5話 禁を破らずとも

 焦りがタキイチを包んでいた。

 頭だけははっきりとしているのだが、やはり思う絵が描けない。

 ただ描けないだけならばそういう時なのだと諦められる。

 しかし、描くべきものがあるとはっきりわかっているのに描けない矛盾に酷く苛立つ。

 いたずらに描けば、望まぬ絵になった。

 技術はそれなりにある。見てくれは悪くない。だがそこにタキイチの絵はなかった。


「もう五日か」


 旅にしてはひとどころに留まり過ぎている。

 そもそもタキイチは北の伽藍に行きたいのだ。そろそろ旅立たねばならない。

 一人にしてくれと頼んで以来、シセイともほとんど顔を合わせていなかった。

 お互い部屋にこもって作業に集中するきりだ。


「いい加減にするか」


 中途半端に調子がいいから、向かない無理をする。

 立ち上がり、窓にかかった蜘蛛の巣を払う。腰に手をあてて熱弁するシセイの姿を思いだし、ちくりと胸が痛む。

 そのままの足でシセイがいるらしい部屋の前に立った。


「…………」


 用があるなら声をかけろ、確かにシセイはそういった。

 だからその通りにすればいい。


――だが、何のために?


 調子が良くなったのは体調ばかりではない。数日離れて、頭も幾分か整理されていた。

 情がわいてつれてきてしまったが、本来そんな義理はないのだ。

 むしろ命が惜しいなら、今のうちに彼女を置いて次の目的地に旅立った方がいい。

 きっとそれでも大丈夫だ。自分は人で、彼女は物の怪なのだから。


「……用があれば、声をかけて、この扉を開ければいい」


 しかし具体的なものはなにもなかった。

 そっと扉から手を離す。部屋に戻ろうとした。


「お前さま、待って」


 涼やかな声に振り向く。扉からたおやかな腕が差し出されていた。

 いつかを思いだして複雑な感情が蘇る。

 扉はそのまま開かれて、八眼八脚の女が顔を出す。


「なんだ」

「渡すものがある。さ、部屋へ行こう」


 手をひかれ、誘われるまま部屋に戻った。

 彼女は片手に包みを持っている。中身を気にするが、嫌な予感がして問えない。

 確かシセイは自分の分を稼ぐ、といっていなかったか。

 シセイは部屋に入ると窓枠を見て、ふうと息をつく。

 まるでそうすることがわかっていたかのような諦めの吐息だった。


「タキイチ、座ってくれ」


 品よく改まって正座され、タキイチもならう。

 互いに向き合った形になり、シセイはきゅっと形のいい唇を結ぶ。

 そして包みを開いて差し出してきた。

 ひゅ、と変な呼吸をしてしまう。

 紫色の布の上に、黄金の小判が重なっていた。


「あての稼ぎだ。今までの分、それ以上はあると思う。……受けた恩ひとつを返そう」


――あてからお前さまに貸しひとつ、お前さまから受けた恩二つ。いずれ返そう。


 あけぼののなかでたてられた誓いを思い出す。


「なんのつもりだ。どうやって稼いだ」

「清廉潔白で卑怯な手で」


 いけないと思っても責める口調になってしまう。

 シセイは動じない。完璧に平静を保った表情は氷のように冷えきっていた。

 玲瓏れいろうな美貌をタキイチから逸らす。


「今日はよい日だ。太陽は輝き神仏の如く万人に降り注いでいる。お前にも。解放の日だよ」

「解放? 何から? 俺は何にも縛られてなんかねえ」

「化け物からだ。所詮、……所詮、人と蜘蛛だ」

「きいていたのか……?」

「ふふ、まあな。驚いたか? しかし、無理があるとは思っていた。本当は恐ろしさから背を向けたくないだけなのではないか、物の怪と交わって気をおかしくしてしまっているだけなのではないか」


 何か言わねば。そう思う。彼女の懸念が図星であったのがまずかった。

 沈黙は肯定だ。

 シセイは沈黙のなかで微笑む。微笑んでしまう。


「今までありがとう」

「…………」

「西から逃げた時はもう何もないものだと思っていた。外道に堕ちてでも生きることしか考えられなかった。本当に、ありがとう。あてにしては幸せだったよ」


――これも物の怪としての嘘なのだろうか。


 脳に砕けるような痛みが走る。無意識にギリッと割らんばかりに奥歯を噛みしめていた。

 膝に乗せた手も血が滴るほど握りしめていた。

 こんなことをいわれているのに、疑う。わからない。真実はどこで、何を望めばいいのか。


「そうだ、これはもうひとつの礼だ」

「……布?」


 それは世にも美しい布だった。

 艶と滑らかな手触りは蕩けるよう。紋様の複雑さは西の先染めの如く。手に持てば羽のように軽い。

 勘が働いて光にかざせば、うっすら黄金に輝く。


「こいつは」

「あてが織った。お前さまが絵に向き合っている間にいくらか織って売ったのよ。覗かれたらどうしようかと思っていた」

「雪と、月と――鳥」

「花もあるぞ。蘭だ。本当は紅葉か梅がよいのだろうがな、どうしてもこれがよくて」

「お前さんは……」

「うん?」


 魔のものが紡ぐ布は、現実と思われないほど素晴らしく、女のささやきは甘い。

 どうしてこんなに心を揺さぶられなければならないのだ。


「お前さんは真っ直ぐ過ぎて、俺には、」


 額を抱える。こまめに爪を切っている指ではにじんだ血も大したことはない。ぬるりとした触覚は心のそれには及ばない。


「大丈夫だ、お前さま。無理に言わんでよい。お前さまは口も態度も悪いが、心根が優しいことはようくわかっているから。もう、その情けを捨てていい、その理由だってある」

「俺はそんなんじゃあねえ。違う」


 惰性なのだ。突然の別れで、女が背筋をのばすなか、堂々とできない情けない男だ。

 シセイは首をふって、タキイチの戯言を無視して続ける。


「見ればわかるだろう、これは人には作れない布。西の呉服屋でも織っていたから腕は悪くないはずさ。それに店主が裏で売っていたそうでな。それがおかみの手に渡って正体がばれた」

「おい、そいつを追っ手に見られちまったら」

「ああ。ばれる。もしもまだ追ってきているならともにいるものも危険だろう。だからもうよいのだ。お前さま、タキイチよ、初めて会ったあの日のように命を大事にしておくれ」


 シセイはすっくと立ち上がる。

 颯爽と背を向けて、凛と立つ。歩き出せば黒い髪がなびき、白いうなじがあらわになった。

 タキイチは彼女の肩甲骨のあたりをみて、部屋を出ていくまでじっと見送った。


――お互い様。出会った頃のように、本来あるべき生き方に戻るだけ。



 どれほどそうしていただろう。

 タキイチは正座したまま、誰もいない前を見つめていた。

 外からは怒号めいた雷が聞こえる。

 かつて清涼な朝日と秘め事をおおう夕闇に包まれた部屋は、泥のように暗い。


「俺は、何をしたかったのだろう」


 決まっている。


「北の伽藍へ」


 何のために。


「絵を、絵を描くために」


 どうして。


「俺が、絵師だから」


 筆をもつ。

 何かを描こうというたび止まる筆だ。


「よい道具、よい仕事……すまねえ、こんなんじゃやりきれねえよな」


 使い慣れた柄を撫でる。幼い頃に弟子入りして以来、苦楽をともにして飴色に色づいたそこが不満を訴えているように見えた。

 タキイチの本当の場所はあそこだ。

 思い出はあふれるほどにあった。旅立ち、いずれ帰る場所である。

 一心に求めるものを描いてきた。時に師に怒鳴られ、どんどん腕をあげる若手に焦りもした。

 お前の描く人間はのっぺらぼうだと嘲笑あざわられたこともあった。

 しかし風景だけは、誰より深く熱中し、誰より長く向き合い、愛してきた。

 たとえ誰かに劣っても恥じることなく描いてきた。


――だから、あそこに戻ればいい。そう思うのに。


 花火が弾けたような音が響く。ふとシセイがしていたように窓際に近寄り、大きく開く。

 強い雨足が顔を踏む。

 片目を閉じて外を見た。窓の外の景色が見たかった。

 風はうなりをあげて川はごうごうと叫ぶ。これもまたタキイチが求める光景のはずだ。

 タキイチの問いに答えることはなく、激しい自然に弄ばれる彼が慣れて受け入れるのを待つ。

 濡れた髪がはりつく。呆然とした心が落ち着くのを邪魔する存在はない。

 穏やかな待機に気づいた途端、思い至る。


「……ああ、だからか」


 だからタキイチは風景しか描けないのだ。

 光景はどこまでも広大で、タキイチなどほんの小さな点に過ぎない。

 ありのままを観、ありのままを受け入れてくれる。

 特に幽玄のものはよい。

 深い霧の底。水面を打つ泉。見渡す限り続く森。人々から忘れられた滝。

 それらは隔絶されている。

 とまっていて、だが確かに脈動して、くだらない個が落ちていく。儚くも不変の世界。

 たった一人で浸っていられる静かな場所だ。


「人は、うるさい。暖かくて、冷たくて。多様過ぎる。ゆっくり向き合えるまで待ってくれない」


 そこにタキイチはいられない。師の言う通り彼は不器用で、真っ直ぐだ。ありのままを見ようとしてしまう。

 最初から間違っていた。気付くのが遅すぎた。


「――あの光景は、恐ろしく――」


 目を閉じる。筆を握れば、時間を切り取ったようにあの夜が思い出された。

 丸い月と巨大な黒い影。爛々と光る八つの瞳。光を浴びて黄金に輝く糸の幕。長く黒い髪が巣のように舞い上がり、手当り次第に掴んで、生きることだけを望んであがいていた。


「美しかったんだ」


 すべてがありのままに、その深奥をさらけだしていた。


「心の動きをごまかしたところで何にもならねえ。いいものはいい。余計なものは何もいらない」


――なんだ、とっくに答えは出ていたのだ。


 くだらないことで己を偽っていた。もはやそれが賢い選択だったとしてもどうでもいい。


「俺は絵師だ。死んだ絵描きは筆を持てない」


 本心を偽ることは、タキイチという絵師にとって死に等しいとどうして忘れていたのだろう。

 濡れて重い着物も構わず宿を飛び出す。

 彼女が出て行ってすぐにこの大雨は降り出した。

 きっとまだ遠くにはいっていないはずだ。そう信じてのことだった。

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