たまのおあわせ
室木 柴
ついのてあし
第1話 月糸
月光をよりあわせて紡いだような雲が空を覆っていた。
輝きは黄金の色。
夜が深まるのとともに、服を剥かれたような冷気と銀糸が木々の間満ちていく。
「綺麗だ……いや、そんなこと言ってる場合じゃねえ」
深い青をたたえる小さな水面と滝が見える。
今すぐ筆を動かしたくなるような光景だ。しかし、気持ちに反してまるで手足が動かない。
眠りから起きた途端、地に足がつかなくなっているという事実に、よほど混乱しているらしかった。
さあっと血の気がひき、美景に酔っていた意識が覚めた。
足元には睡魔に負ける直前まで呑んでいた酒が転がっている。
「今更起きたのか、哀れな奴め」
涼やかな女の声だった。
研がれた刃のような冷たさにぞっと震える。
「なんの話だ、これはお前の仕業なのか」
「
「いやいや、俺はあんまり滝が見事なものだから、そいつを肴にしていただけだ」
どうにも興奮状態にあるらしい。
――俺が酒を呑んでどこで寝ようが俺の勝手だろう。これだから女ってやつは!
そんな愚痴はひとまずおいて、宥めようと話しかける。
「嘘をつけ。あての姿を見ただろう。匂いで西の者とわかる。なんだ、あてを殺す気か。やられる前にやれとは至言よな、遠慮せずに眠るがいい。その間に喰らってくれる」
「喰らって……!?」
動く瞳で周囲を見渡す。
相も変わらず、タキイチのまわりは鬱蒼とした暗い木々と銀糸に囲まれている。
金色を帯び、大の男がどんなに力をこめても、びくともしない糸だ。
こんなものはどんなに高級な呉服屋でもみたことがない。
「ま、まさかお前、人ではないのか!」
「とぼけるでない!」
女の否定でタキイチの予想は肯定される。
タキイチは、物の怪の毒牙にとらわれようとしているのだ。
目の前が真っ暗になるような心地が全身を包んでいく。
あまりの恐怖に気を失いかけようというなか、後悔が脳裏を駆け巡る。
――こんなことならせめて春まで師のもとに残っておくのだった!
走馬灯がまわる。
脳からはるか遠い場所で、今となっては懐かしい厳めしい面が喋りだす。
〇
「なんだお前、北へ行くのか? これから寒くなるっていうのに、物好きな奴だ」
「凍るものは冬、花咲くものは春にみるのが一等好きなものですから」
タキイチが旅の準備を始めたのは、いよいよ夏も終わろうという頃だった。
彼が旅立とうと決めたのは、流行が発端だった。
近頃、世では旅が流行している。
それに伴い、師が刷った浮世絵のなかでも名所絵がよく売れているという。
タキイチは風景画を中心に描いている絵師であったので、おかげでここ最近で少し金を貯めることができた。
「まあ、自分の目で見ようっていうのはいい心がけだな。しかし、なんで北なんだ」
「ちょっとした酔狂というやつで。小耳に挟んだんですが、北の奥のほうに人知れず営まれる伽藍があるのだとか。それがこの世のものとも思われない幽雅さだっていうんで、本当にあるならひとめ拝んでみたいと思った次第です」
「ほお。行きたいっていうのなら行くがいいや。お前さんは本当に風景が好きなんだな」
「いや、そういうわけでも……勿論嫌いじゃあありませんが」
思わず口を滑らせたのは、初の遠出に心を浮かせていたからか。
日頃、依頼さえなければ風景しか描かない弟子の言葉に師は目を丸くする。
「そいつは面白いことは聞いた」
――面倒なところをつっついちまった。
「前々から思っていたが、お前さんには女っ気ひとつねえ。たまには人間でも描いてみたらどうだ。そう、特に裸婦がいい」
「裸婦?」
尊敬する師の提案とはいえ、思わず顔をしかめてしまう。
男の例にもれず女を好む師がタキイチをからかうのはよくあることだ。
しかし旅立ちの前にさえ持ち出すとは、少しだけ気分を害された。
「人の絵は好きません。仕事となれば我慢しますが、どうにも血と汗をこめて刻んでいる心地がしない。死んだ絵になります」
「生意気をいうねえ。いや、だからよ。お前さんみたいな生真面目な奴が描いた女の絵ってやつに興味がある」
「はあ、そうですか」
適当に相槌をうって聞き流す。
真面目に聞いても成らぬものは成らぬ。
タキイチにできるのは、ただ心のなかにあるものをこれと決めて筆を動かすのみだ。
いずれは彼の狭い心のうちに誰かが住むこともあるかもしれない。
だが今は見知らぬ幽玄の森で心がいっぱいだった。
「それでは行ってまいります」
軒下をくぐって一度だけ振り返る。
師は軽く手をあげただけで腕を組み、顔は真っ白な紙と睨みあっていた。
変に大仰にされてもこそばゆい。
あの奇妙な提案が師なりの見送りなのだと思って、さっさと慣れ親しんだ町を出た。
先日まで騒がしく蒸し暑いと思っていた町並みは、ここ数日で急速に色合いを変えている。
かつては午後になっても目が潰れそうなほど活気が弾け、暖簾すらも光るようだった。
タキイチが旅立とうという今日は、正午だというのにいそいそと足音は潜められ、呉服屋がまとう鮮やかな着物もあせて見える。
特に店主の顔色は悪く、雨をいっぱいにためこんだ曇天にも劣らぬ影がさしていた。
――そういや、あそこんちで物の怪が出たのだとか。
可愛がっていた娘の正体が物の怪だったのだという。
被害はないが気味が悪いとのことで、やや客足が落ちているようだった。
おかみだか陰陽師だか、あとを追う者がいたと野次馬がまことしやかにささやいているが、真実は夏とともに去った。
人のなかに物の怪が紛れ込むことは、実をいうとそこまで珍しいことではないらしい。
――無理に暴き立て、追い払おうとすることに何の意味があるのか。
顔も覚えていない娘に同情を寄せてしまう。
噂ではとても美しい娘であったそうだ。
もしも恋人でもいたのなら、哀れなことこのうえない。
そう思うのはきっと、師の言葉のせいだろう。
気の迷いだと、自らに言い聞かせるはめになった。
〇
走馬灯がとぶ。
旅を初めて数日。もうすぐ夜という時刻だった。
面を冴え冴えと澄ました、気位の高い女のような月が昇り始めている。
男一人の気楽な旅と調子に乗っていたら、まだ山のなかだというのに宿を求めることもできない位置で立ち止まってしまっていた。
「こいつは野宿かね、まずいぞ」
寒い山のなかで眠るなど正気の沙汰ではない。
早く降りてしまわねば。急ごうとした足が止まる。
雑多に伸びた草と木々の隙間に小ぶりな滝が見えた。名所と呼ばれるものには及ばないが、これはこれであるがままの荒々しい風情がある。
「まずい、まずいが、悪くない、困ったな」
引き寄せられるように滝へ近づいていく。
衣と草木が触れあい、控えめな音を奏でる。滝の周りには木々が少なく、ほんの少しだけ開けていた。
いよいよ滝の前に出ようとして、再び足が止まる。
足音がした。小鳥のはばたきのように細やかで軽い足音が、一定の音律を繰り返している。
――女だ。
そっと腰をおとし、自然に息を殺す。
足を浸すのがせいいっぱいな小さな池の前で、一人の女が舞っていた。
月光を受けて黄金に輝く布を纏い、ひどくゆったりと風をつかんでいる。
ほの暗い闇のなかで、生白い足が一際美しかった。
釣りあげたばかりの魚の腹を裂いたような白さに、目が逸らせない。
細長い手足の動きが円を描くたび、鴉の濡れ羽の髪が波紋のように散る。
タキイチは初めて生きたものに宿る優美を知った。
時間も忘れて見惚れていたが、やがて膝に限界が来る。
ふと息を吸った瞬間に、ちからが抜けた。かたい膝が地に落ちて細い枝を折る。
「誰だ!」
女の舞踊が鋭い問いとともに終わる。
「あ、」
待ってくれ、と答える前に女は風のように去った。
慌てて滝の前に出るも、そこには誰の姿もない。後ろ姿すら追えなかった。
中途半端にのばされた手を呆然と見つめる。
「なにやっているんだ、俺は」
気づけば月が頭上から見下してきていた。
今更山を降りてもまともに足が動くだろうか。
半ば自棄になり、タキイチは池の前にあぐらをかく。
――今宵はこの光景を目に焼き付け、無事に宿を得られたならば絵におこしてみよう。
先程の舞と月、心が凪ぐ水の音を肴に酒を取り出す。
一口、二口と酒を喉に通しながら、どんな筆遣いと構図で描いたものかとあれこれ脳内で組み立てる。
よい気分だった。こりもせず時間をあっという間に過ぎさせて、いつのまにか優しいまどろみにからだを任せてしまったのだった。
まさかそれが悪夢の始まりだとも思わずに。
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