第4話 隅の泡沫

 妙にぬくい。そう思いながら目を覚ました。

 旅に出て以降、毎朝そばにあった抱き枕はいない。代わりに布団です巻きにされている。


「シセイ……お前さんか?」


 ねぼけて舌足らずな問いに、くすくすという微笑が答えた。


「ああ、そうだよ。ぐっすりだったなあ」


 彼女は窓際にたっているらしく、朝日が後光のようになっていた。

 暗闇では映える肌が、光のなかでは影が濃くなりよく見えない。

 まなこをこすろうとしても、腕がうまく動かずもぞもぞ蠢いてしまう。

 仕方がないから布団からはゆっくり起きることにした。

 二度寝しないように口だけは動かす。


「何をしている?」

「これか? 巣を張っているのよ」

「巣を? なんでまた……店の奴らに迷惑になるようなことはやめてくれ」

「む。あては礼のつもりだぞ? 朝蜘蛛は親の仇でも殺すなという言葉を知らんのか」

「夜蜘蛛は親でも殺せ、なら聞いたことあるぜ」


 意地悪のつもりでいえば、つんと唇を尖らせるのがわかる。

 光に目が慣れてきて、シセイの黒い瞳が見えた。

 彼女のいうとおり、窓枠を飾るように蜘蛛の巣が張られていた。

 光を受け、きらきらと川底の砂金のように輝く。

 糸にうっすらと黄色が入っているため、あのように美しいのだと知ったのは最近のことだ。


「確かにそういう言葉もあるが。お前さま、ちゃんと理由は知っているのか」

「いや」

「では教えよう。よいか、物事には陰陽の流れがある。例えるなら、そうだな。陽を動くちから、陰をとまるちからと考えてくれ。これを川にあてはめると、陽が多過ぎれば川が氾濫し、陰が過ぎればよどんで腐る」

「はあ」

「これが均衡をとって釣り合うのが理想的だ。で、朝やお前さま《オトコ》は陽、夜や女や蜘蛛あては陰に属する」

「あー……朝に巣を張れば陰と陽が釣り合って縁起がいい、ってことか」

「おお! 案外頭が回るなあ」

「褒めてるんだか貶めてるんだか」


 そういってそっぽをむこうとするが、動けないのを忘れていた。

 そんなタキイチにシセイは寄って「勿論褒めているさ」とぽんぽん叩いてくる。

 そして朝からかわかわれて不機嫌なタキイチにまずいと思ったか、台詞を続けた。


「これはお前さまとあてのためでもあるのよ?」

「俺?」

「おお。お前さまのおかげで互いに体内の陰陽は満ち足りている。この部屋のなかも今整えた。きっと快く筆を扱えることだろう」


 いわれてみれば体調がいい。

 雨上がりの爽やかな朝だけが理由ではなかったようだ。

 わずかに残る疲れも心地よい類のものだ。

 朝起きた時に「やれる」という日はわかるが、今日はそういう日だった。


「……確かに。……ありがとよ」

「お前さんのそういう、嘘のつけないところは気に入っている」

「そうかい」


 ようやっと布団から抜け出して、服を探す。

 その手に綺麗にたたまれた探し物を渡したのはシセイだ。


「しかしお前さまの絵か。楽しみだなあ、浮世絵だったか?」

「ああ、まあ、肉筆画になるからお前さんの思うのとは違うかもしれん」

「肉筆画」

「普通、浮世絵っていうのは下絵を描いて、下絵ごと版画を掘る。だから筆で直接描く時は肉筆画という」

「そういうことか。ということは、一点ものだな。ますます楽しみだ」

「そんな楽しみにするほどのもんじゃ……いくつかは売るために人に合わせなきゃならんし」

「売ってしまうのか!?」


 教えられた礼に教え返す。最初は意気揚々と聞いていたのに、突然悲鳴をあげた。

 タキイチは呆れて溜め息をつく。


「当たり前だろ。無計画に出たわけじゃねえが、旅費はいる」

「……あてのせいか」


 ぎくりと肩がはねる。

 宿代を払ったのはタキイチだ。そこには当然シセイの分も含まれる。

 当初の予定より旅費がかさんでいるのは事実だった。


「別に」

「うむ。安心しろ、あての分はあてが稼ぐから」


 ころころとよく表情を変える。女心は秋の空とはまことだ。

 一瞬沈んだかと思ったのに、すぐにシセイは笑ってみせる。

 女に苦労を意識させるのはあまり好ましくなかったが、本人がそういうならば止める理由はない。


「好きにしろ」


 ぶっきらぼうにそういって、タキイチは意識を絵に向けていく。


「おう、好きにするぞ」


 シセイも気軽に応じて、部屋を出ていった。




 気分は驚くほど晴れやかだ。

 血の巡りは素晴らしく、頭の隅までしゃっきりとして、感覚が常より一層広い気がする。

 川のさざめきが我がことのように思えるほどだ。

 今であればどのような線もひといきに描けてしまいそうだった。

 だというのに、その線が浮かばない。


「くそ」


 思わず悪態が口をつく。

 滝を描く。山の奥で誰の手を加えられることもなく、さびれ、生命力に満ちた雑草を伸び放題にさせた小滝を描く。

 そう心に決めていたはずなのに、あの滝を思い出そうとすると、丸い月と巨大な黒い影が脳裏を過ぎるのだ。


「余分な記憶だっていうのに!」


 あの美しい光景を恐怖がおかしている。

 そう思われた。


「……所詮、化け物じゃねえかよ……」


 親しみをもって呼びかけてくるシセイを思い出す。

 八つの目と三対の腕を持つ女を。

 何を恐れることがあるのだろう。

 タキイチは頭を抱え、必死に己にいい聞かす。

 描きたいものを描けばいい――そう思うのに思う通りにいかない指を、タキイチはうとむ。


「お前さま」


 はっと意識が現世に戻る。

 声の方向を見れば、シセイが扉を半分開き、糸の仮面を被った顔を覗かせていた。


「いつから?」

「奇異なことを聞くな。たった今さ。集中していたのか? よいことだ」

「どうも」

「ところで聞いたか? 町民に聞いたのだが、この川でな」


 にっこり微笑み、何か楽しそうに話し出そうとした。

 しかし感心するようにタキイチの手元を見やって不自然に止まった。

 彼女が見た紙には黒いしみひとつ垂れていない。シセイは少し不思議そうに眉根を寄せる。


「悪い。集中したい、一人にしてくれ」


 このまま一緒にいれば、罵ってしまいそうだ。

 いくら親しみをもっても相手は物の怪。折り悪く、その気になればタキイチなど簡単に捻り殺せるのを鮮明に思い出していた。

 シセイは数瞬、タキイチを見つめてから頷く。


「わかった。あては隣の部屋にいるから、何かあったら声をかけてくれ。せっかくだからあても集中しよう、いきなり入ってくるなよ? 驚くからな」


 労わるような口調にいたたまれなくなる。


――どうして、俺はこのような男なのだろう。


 タキイチはそう思わずにいられなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る