第6話 禊に炎、あずまに鈴

 土砂降りの雨のなか、人々が早足で駆けていく。

 タキイチの足もまたぐっしょりと濡れ、全身の色が一段濃くなっていた。

 道にいるのは傘をもった人間と雨に気づくのに遅れた愚鈍な奴らばかりだ。

 内から輝くような白い肌は見当たらない。肌が冷えて感覚がまひしていく。

 雨のなかで呑気におしゃべりに興じるものはいない。

 タキイチのすぐそばで声が静けさを裂いたのは、そうやって途方に暮れていた時だった。


「そこの男児」

「…………」

「おい、そこの傘も差さぬ間抜け」


 母を見失った子のようにあたりを見回していたのは確かだ。

 しかし、いくら若い方とはいえ、この歳で男児呼ばわりは気づかない。

 声の方向を振り向けば、軒下で雨をしのぐ黒い山伏がいた。

 笠を目深にかぶっており顔は見えない。

 これまた首を傾げる。

 恰好は山伏のものなのに、声音は低い女のものだったからだ。不可思議な女は問う。


「何か探しているのか」

「ああ。綺麗な女だ、知らないか」

「なんだ手前か。この色惚けめ」


 いきなり罵られ面食らう。

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔に、女はフンと鼻を鳴らす。

 女は頭襟ときんの代わりに笠で頭部を隠していた。

 笠をつまんで、決して動かないよう抑えながら嘲笑する。

 それではあちらからもこちらは見えないだろうに。

 見透かされている気がした。


「シセイを知っているのか」

「ほう。あの土蜘蛛の娘はシセイというのか。何故追う? ?」

「顔が見たいから」

「……愚かだなあ」


 偽ることは向いていない。そうわかったから、思ったことをそのまま言った。

 すると笠の女は憐れむように軽くうつむく。

 大きく息を吸ったのか、胸が上下する。そしてすっと人差し指を道の奥へ向けた。


「あちらに行った。この雨のなかではまともに進めないから、茶屋ででも休めといった覚えがある」

「そうか。ありがとよ」


 頭を下げて行こうとしたタキイチの鼓膜が、すれ違いざまに一層低い女の声で叩かれる。


「――再びえにしを結んだならば、今宵の川を見るがいい。それまでに見つけられなければ、この話はなしだ。色惚け」

「は?」


 意味深な台詞が気になって振り向く。

 しかしそこに女の姿はなく、蜃気楼のように消えていた。

 木に打ち込まれる鉄釘のように、言葉だけが残る。



 髪に伝う水の玉が、風に吹かれて歪な形を描く。

 わかたれることを拒むようにしがみついていたのはひとときのみで、やがて荒れ狂う流れにさらわれて千々に散る。

 そうした黒い糸が幾筋もあり、宙に走る黒線は万華鏡の如くうつろう。


「シセイ」

「……タキイチ?」


 この美しい生き物を間違えるはずがない。

 町から少しだけ離れた場所に、今は誰もいない。まばらに木が生えた坂道だ。

 名を呼ばれた女は信じられないものを聞いたように呆けた口調で呼び返す。

 髪と服は濡れていた。だがタキイチの方が濡れ鼠になっている。

 雨降りが激しくなる前に誰かが傘を貸し与えたらしい。

 混じり気のない真紅の蛇の目傘を肩に乗せていた。


「お前さま、なんとまあ、水も滴るよい男とはいうが。それともあてが紡いだ幻か」

「幻でこんな寒い思いしてたまるか。凍え死ぬ」

「何故追ってきた。なにか言い忘れたことでもあるのか」

「まさか、恐ろしいのか」


 質問で質問で返すのは無礼だ。

 シセイは顔をしかめる。その麗しい眉目びもくに皺が寄り、だが眉は八の字を描く。


「ああ、だって、そんなはずはない。お前さまはあてを恐れているのだから」

「つまり恐ろしいのとは、違うのか」

「恐ろしいとも。お前さまが夢から覚めて、あてを憎いと醜いと、そう罵られたら」


 胸に手をあてて、ぽろぽろ真珠のような涙をこぼす。

 意識が乱れたせいか糸の仮面がほぐれている。

 澄んだ目玉が五つ、これ以上なく潤んでいた。

 どうして異形のものとはここまで無垢に剥き出しであれるのだろう。

 元が自然に近しいからか。それをタキイチは羨ましく思う。


「そうだな、恐ろしい」


 シセイは怯えて一歩下がる。

 少し微笑ましい。


「だが俺はそういうお前さんを美しく思う」

「……気でも狂ったのか?」

「物狂い扱いするんじゃあねえ。いいか、俺は嘘、偽りの類が向いていない。しかもこの通り短気だ。心は狭い。口も悪い」

「……うん、知っている」

「だからよいと思ったものはよいという。ありのままのお前さんが好ましい」

「嘘を言わないでくれ。信じられん」


 口許を袖で隠し、ぷいと横を向かれた。

 涙の量が減ったのには安心するが、困って邪魔くさい前髪をかきあげる。

 今までの不愛想が返っているだけだ、仕方がない。


「わからねえ女だな、お前さんも。俺にはお前さんがるんだよ」

「どうして。金や女がなければ生きられない男でもないだろうに」

「俺が絵師だからだ」

「そりゃあ、知っているけれど。だからこそ」

「うるせえな、聞け。もしも俺が人として出会った意味があるのなら、お前さんだからこそ持ちうる美しさをこの目で表すためなんだろう。美しいものを描かず終われるものか」


 偽らない。そう決めた。気恥ずかしかったが今更だ。

 シセイが何か反応するまでに、あわあわと立ち尽くす彼女との距離を詰めた。


「寒い」

「あ、ああ、じゃあ傘を」

「いらねえ」


 どうにも言葉を尽くすより行動で示す方が早く思われる。

 だからいつものように暖をとることにした。

 タキイチはやや腰を曲げて、シセイの美しい相貌に己のそれを合わせた。



 あらかたふりきったのか夜が深まるにつれて雨は止んだ。

 道はしっとりと濡れているが、幾人か夜の散歩に人が出始めている。

 上を見上げるものはいない。だがもし見上げれば、窓で頬杖をついて、背後から男に抱きしめられている美しい女が見えたことだろう。

 雨上がりの暗闇に顔立ちまでは見えない。なんとなく憂いを帯びた女の顔に何を思うかはそれぞれだ。

 だが仲睦まじいことに変わりはない。――恐らく彼らの想像以上に仲よくしているが。


「手足八本から十二本とは、一体何の畜生だかわからねえな」

「う、うるさい。この鬼畜、ばか、にんげん」

「はいはい」

「物狂い!」


 誰のせいだか。言葉の代わりに抱きしめるちからを強めてやった。

 切ない声を懸命に抑え込もうとする様が愛らしい。

 本性を曝け出しているからか、緊張で体が震えている。


「あのな、あてだって恥ずかしいことぐらいあるんだぞ?」

「そりゃ知らなかったな」

「なんでそう意地悪なんだ……」

「意地っ張りよりはまし」

「……ま、そうかもな。ん、ぁ、ちょっと待て」


 回された腕に指を這わせ、同時に川の方が指差す。

 方向を追えば、川をゆっくり下っていく一隻いっせきの船があった。

 そこには山伏が一人で乗っている。川を見ろと言われていたな、とぼんやり思い出す。


「お前さま、あれが北の伽藍の天狗だよ」

「なに?」

「この川のことを教えてくれたのはあやつさ。見よ」


 シセイに言われた通り見ていれば、水の上に突然ぽっと握りこぶし大の火が灯った。

 睡蓮のように花開いた火は回転しながら宙に浮く。

 山伏――天狗を囲むように踊って、やがて散る。

 紅と朱、橙が重なった色合いの花弁が水中に沈む。

 完全に消える一瞬、水面が下からまばゆく照らされた。


「これまた綺麗な光景だ」

「……お前さま、」

「いらん疑いだぞ、そいつは。で、ありゃ何やってるんだ」


 火の花を眺めていると天狗がこちらに気づいて頭を向けてきた。

 当然見えないのだが、呆れて「色惚け」と罵られた気がする。


「時折ふらりと立ち寄って、川を下りながら町にたまった邪気を炎にくべるのだそうだ。町人も知っている。大袈裟にいえば共生だ」

「お前さんと同じようにか」

「はは、いや、年季が違う。邪気と陰気ではまた違うしな。お前さんの元を立ち去ろうとしたときに止められて、無暗なことをするなと叱られてしまった」


 シセイもまた天狗と目があったのか、気まずそうに笑う。


「世は自然。あえて手をだし、命の流れを操ろうとは不遜である、と。ついでに八方美人と不名誉なあだ名までつけられた」


 なあタキイチとか細い声で名を呼ぶ。

 神妙な声音だった。シセイはひきとめるようにぎゅうと腕を掴んで、顎をあげ顔を見上げる。


「あては真っ直ぐなどではない」

「そうか?」

「ああ。本当は一人は寂しくて、話す相手もなく夜道を歩くのが恐ろしくて。お前さんを失うのが惜しくてたまらなかった。だがあてがあてとして生きてきた誇りがそれを許さない」


 言いながらシセイは知己に対するように天狗へ手を振った。

 すると天狗はまた前を向いてしまって、火をともす。


「あの天狗は真実しか口にしない、だから突き刺さる。欲しいと望みながら美しくあろうとする、そこまで想うなら術で惑わし捕えればよいのにしなかった。それで後悔するなら愚かなことだと」

「美しくあろうとしてあるのは、悪ではあるまい」


 自分が好むのはあるがままを形作ることだ。

 そしてシセイの場合、その生き方が彼女なのだから矛盾なく美しい。

 何も否定する箇所がないように思われた。


「ふふ、そういえるのも今だからこそ。事実、何度か術でとらえようと考えたこともあったのだぞ。物の怪らしく魅入ってやろう、と」

「じゃあなんでしなかったんだ」

「そりゃあお前さま、そうやって手に入れたお前さまはあての好むタキイチではないからよ」


 そういわれては納得するしかない。自分の好む己を彼女もまた好んでいることに眉間に皺が寄る。照れ隠しだった。


「お前さまは?」


 悪戯っぽく、お前も話せと要求してくるシセイに皺が深くなる。


「もういった気がするんだが」

「そうか。ならもう一回いってくれ」

「……」


 逆転したつもりでもこういうところはかなわない。

 やれやれと首を振って、彼女の鎖骨に顎を乗せた。


「流石にその、ち、近くないか」

「俺はあんまりあれこれ抱え込むのが苦手なんだよ」

「無視か……」

「人はあれこれ抱え過ぎている。心のなかに住まわせるには、俺なんかじゃ一人が限界だ。その一人にお前さんが収まっちまったんだから、仕方がない」


 こうして肌のぬくもりをわけあっていると、思うところがある。

 本当は二つの存在が一つになる感覚。くだらない枠決めがするする溶けていく。

 それが絶頂に達すると、一つ以外に何もない場所が一瞬だけ見える。

 何故なのか、何なのか。それを考える必要すら感じない隔絶した空間だ。


「いつか、描いてみてえな」

「あてをか」

「他にいないだろう」

「そうか。……そうかあ……」


 抑えきれないように唇を歪め、八つの目から涙をこぼす。

 器用なものだと思いながら、あらゆるすべてが溶け合った空間に思いをはせる。それにはシセイが必要だった。

 抱きしめられたシセイといえば、苦しそうにうめき、窓に手をかける。


「タキイチ、もう閉めていいか。虫に鳴くなとは酷だぞ」

「なるべく早く町を出たいんじゃなかったのか」

「……別によいだろ、もう一日くらい」


 もう聞かないとばかりにシセイは外の光景を部屋からはじき出す。

 舟は丁度見えなくなるところだった。

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