若き成功者
俺は親父の鍼灸院を長く見てきた。固定客がつけば、安定はしている。だが大きく儲けが出るような商売ではない。細く長い仕事。俺には向いていない。
そんな仕事のためにわざわざ留学する気はなかった。先ず第一に一年の猶予期間。そして何といっても一発当てるチャンス。それが俺にとっての上海留学だ。
中国というエニルギッシュなマーケット相手に何かデカい仕事をしてみたい。そのチャンスをつかむ。違法、合法、何でもいい。とにかく一発仕掛けてみたかった。
その思いはジャッキーに再会してさらに強まった。ジャッキーはすでに飛ぶ鳥を落とす勢いの若い成功者だった。
湖北省出身のジャッキーは、上海ではいわゆる外地人、余所者だ。
知ったかぶった駐在員から外地人が上海で成功するのは難しいと聞いたことがある。しかし実際は違っていた。
ジャッキーは帰国してから間もなく上海の商業地区に近い華山路に欧風カフェ飄香亭をオープンしていた。
欧米人や富裕層の住宅地からアクセスが容易な華山路は、上海でも相当に好条件のエリアだ。華山路にカフェをオープンできただけでも成功者と言える。
飄香亭の長いカウンターの内側にはバーテンダーが三人も常駐し、一般客用の席だけで三十席もある。さらに奥にはVIPルームがあり、夜になればスタンディングの客を含めて百人以上を収容している。
キッチンではフライドポテトやハンバーガーなどを作りバカ高い値段で売っている。ワンプレートのバーガーセットが出稼ぎ労働者の十日分の食費と同じ値段だ。そのセットが飛ぶように売れるらしい。
飄香亭には外国人客が多く、大抵は女連れで来店する。女は酒も食事も遠慮なく注文し、男は気前よく金を落としてゆく。上海では男が見栄を張るこういう店が一番儲かるらしい。
飄香亭はジャッキーと同郷の雇われ店長が仕切っていて、オーナーのジャッキーが俺とつるんで飲み歩いても商売に支障はないという。
東方明珠、森ビル、外灘、南京路などの名所、東平路、湖南路、新天地、永福路など、俺は地名をおぼえきれないほどたくさんのバーやカフェに連れて行かれた。
新宿のように雑居ビルの中に小さな店が集まっているようなところはひとつもなかった。店の規模はどこもデカい。出てくる料理の量は日本の倍近くある。酒の種類も料理のバリエーションも豊富だ。新宿と比べても遜色はない。
ジャッキーはどこに行ってもモテていた。
帰国してからジムに通うようになったというジャッキーは、日本にいた頃に比べると見違えるほど筋肉質の体に変わっていた。
意思の強そうな濃い眉。彫の深い顔立ち。一緒に街を歩いていると女たちが振り向くほどのルックス。それに加えて莫大なカネを動かす経営者。女には不自由していないようだ。
ジャッキーは女にとって魅力があるだけではない。夜遊びをしている若い男たちからも慕われていた。短期間でカフェの経営に成功したジャッキーはギラついた欲望に駆られた連中の憧れの的なのだろう。
こういうやつが俺のダチだと思うと、俺にも成功のチャンスがある気がしてくる。
ジャッキーは飲み屋を教えてくれただけではない。
留学生は大学の寮に住むのが普通だが、俺は学外のアパートを借りた。不動産屋とのやり取りやネットを接続する手続きなど、上海生活を始めるための全てはジャッキーがやってくれた。
ジャッキーがいなければ、就学ビザを取ることもできなかっただろう。
留学生は大学が用意したバスに乗って、就学ビザの手続きに必要な健康診断を受けに行かされる。
このときの健康診断で問題が起きた。なぜか俺だけが再検査に呼び出された。どうして再検査になったのか、中国語ができない俺には何もわからなかった。
最初の検査のときは大学が用意したバスがあったが、再検査には俺一人で行かなければならないという。
この時、ジャッキーが付き添ってくれた。
ジャッキーの説明で、ようやく再検査の理由もわかった。俺の血糖値が高すぎたようだ。しかも一回目の検査結果は何かの間違いで、再検査では正常値ド真ん中。
結局、他の留学生よりも少し遅れたが、俺は無事に就学ビザを手に入れた。
こういう思いがけないことがあるから、ジャッキーみたいなやつがいなければ中国で生活なんかできない。
俺は完全にジャッキーに依存していた。
中国語を話す必要がないから、俺の語学力は少しも上達しない。そんな俺をジャッキーは不安に思ったのかもしれない。
何日連続で来ているのか忘れるくらい通っている東平路のバーで、ジャッキーは突然勉強の話を切り出した。
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