ジャッキー

 俺は留学して早々に授業に行かなくなった。


 夜出歩いて、朝は昼近くまで寝ている。こういうことをしていると大学をクビになると聞いているが、そうなったらそれでも構わない。ここにいるうちに何かをつかめばいい。


 最初から勉強などするつもりはなかったから、俺の中国語は全く上達していない。しゃべれるのは簡単なあいさつとタクシーに乗ったときに告げる飲み屋街の地名だけ。


 それでも生活には困らない。


 カネだ。カネさえあれば言葉が通じなくても何とかなる。


 カネを呼び込むのに必要なのは努力ではない。人との付き合いだ。


 日本人留学生のくだらない話に付き合うのは時間の無駄。駐在員は駐在員で話のスケールが小さい。中国でも社会保障の負担が大きくなりそうだとか、景気が悪くなりそうだとか、どうでもいい話ばかりだ。


 だから俺はジャッキーとばかりつるんでいた。ジャッキーは李昭易の英語名だ。どういうわけか中国人は英語名を使いたがる。


 俺とジャッキーの付き合いは長い。


 俺がまだ日本にいたころ、新宿の居酒屋でバイトをしていた。


 そのバイト先で初めて李昭易と会ったとき、俺は何て呼べばいいかと訊いた。答えはジャッキー。それ以来俺は李昭易をジャッキーと呼んでいる。


 俺とジャッキーはシフトが重なっていたせいか、すぐに仲良くなった。俺は何度もジャッキーのマンションに行き、ジャッキーが作る中華料理を食った。ジャッキーの料理はうまかった。


 腕のせいもあるが、火力が強い特別なコンロや、ふんだんにストックされた高級食材がなければ、あの味は出せなかっただろう。


 ジャッキーのマンションは俺の実家よりもはるかに立派だった。広いリビングだけで俺の実家の面積とほぼ同じ。風呂はジャグジー付き。窓からの夜景は東京のジオラマを見ているようだった。


 わけを訊ねると、ジャッキーの親戚に大金持ちがいて、日本で不動産の爆買いをしているという。ジャッキーは管理人役として格安の家賃で住んでいた。


 俺とジャッキーは半年くらい同じバイト先に勤めていた。


 ちょうどそのころ、尖閣問題がクローズアップされ、その影響で店長が極度の嫌中に染まった。店長と言っても二十代後半のフリーターだ。


 会話の中に「国益」とか「主権」とかいう単語が目立って多くなった。


 フリーターが熱く語る国益。俺にはそれが気恥ずかしかった。


 だが店長は本気だった。


 ジャッキーへのあからさまなハラスメントが始まった。俺は見て見ぬふりをしていた。職場の雰囲気を悪くするような振る舞いは、そうそう続かないだろうと思っていた。


 だが実際は逆だった。言葉の暴力は日に日に酷くなった。ジャッキーへの個人的な攻撃は、国益という正義で正当化された。


 お前たちは泥棒だ、日本から出て行け、主権を侵害するな。


 ジャッキーに言っても仕方のないことを独り言のように延々と繰り返す。


 テレビでも反中の論調が広がり、反中本が次々に出版されるようになった。ジャッキーはそういう雰囲気に敏感になっていた。日本での暮らしに危険を感じていたようだ。


 とうとうジャッキーは俺に帰国することに決めたと打ち明けた。


 日頃の言動から、ジャッキーの実家はそこそこ裕福で、いつ帰国しても何の支障もないことはわかっていた。


 だが俺はイラついていた。ジャッキーを追い詰めた店長、そして何よりハラスメントを傍観してきた俺自身に。


 ジャッキーがバイトを辞めたいと申し出たとき、店長は俺たちバイトの目の前で、高圧的な言葉を吐いた。


「今さらかよ。シナゴキはとっとと日本から出て行けよ」


 気が付いたとき、俺は店長をぶん殴っていた。


 俺は即刻クビになった。


 次の日から俺はジャッキーと一週間連続で飲み歩いた。日が暮れる前に合流して飲み始め、記憶が飛ぶくらいまで飲んで帰る。


 目が覚めると午後。夕方また合流して飲み始める。何を話したか詳しいことはおぼえていないが、馬鹿みたいに飲み歩いた楽しさは今でも忘れられない。


 ジャッキーはその直後に本当に帰国してしまった。その後はメールでのやり取りはあったが、それも途切れがちになっていた。


 バイトばかりしていた俺は教授のお情けでなんとか大学を卒業した。


 しかし就活は全滅だった。親父との約束で二年目の就活はなし。実家の鍼灸院を継ぐために鍼灸学校に行くことになった。


 親父はもともと俺に跡を継がせたいと考えていた。父方の祖先は江戸時代から続く鍼師の家で、一人息子の俺は家業を継ぐのが当たり前だと言われて育った。これが親戚一同の常識でもある。


 俺はそれが嫌で大学に進学したのだが、卒業すれば就職くらいどうにでもなると考えていたせいで行き場を失った。結局、鍼灸の道に引き戻されてしまったわけだ。


 この事情をジャッキーに伝えると、鍼灸をやるなら中国語を勉強しておいて損はないというメールが返ってきた。


 中国では鍼灸が盛んで、新しい治療法が日々生まれている。鍼灸のプロになるならそうした情報を自分で読めるようにしておけば有利だというのだ。



 親父に相談すると、留学費用を自腹で出すなら鍼灸学校への入学を一年延ばしてもよいと言われた。


 ジャッキーも、親父も、俺が真面目に鍼灸に取り組もうとしていると信じていたようだ。

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