靄のなかで揺れた音階
デイドリーム
ミアside
「おい……ミアって……オメーどーしたんだよぉ!」
ユージに肩を揺すられてようやく気づいた。
しばらく放心状態だった私。
山崎マイ夫婦を尾行していると、とんでもない男に遭遇したのだ。
忘れもしない――――――――――――
忘れるわけがない。
れたくても、絶対、忘れることが出来ないよ。
ずっと、この先もずっと。
黒いセダン車の後部座席から、日焼け顔を覗かせている中年男。
私を犯した男だ。
父から、私を買った男。
あの薄汚い風呂場で、私に醜い行為をさせた男。
一生忘れられない。黒みを帯びた血の色と、錆びた鉄のにおい。
思い起こさせる。
男を睨み付けた。
奥歯を噛みしめる。
ギリ...ギリギリ...
ユージに夫婦を襲わせようと企てた。
それは、もっともっと世間を騒がせて私の名を知らしめてやろうという考えからだった。
だがそんな思いは、熱い鉄板に落ちた水滴のように一寸のうちに消え去った。
「おい! ミアって!」ユージが私の肩を執拗に揺する。
その声に反応してマイが振り向いた。
……いや、マイではなかった、何故か若い格好をした母親だったことにいまさら気づく。
同時にマイの夫だと思われる大柄の男も振り向いた。
その男と向き合っていた30歳くらいの女も、男の肩越しにこっちを見た。
黒のセダンに乗っている中年男も、私の顔に目を見張っている。
***
ユージside
……!?
なんだって?
「だから、あの男を殺して欲しいの」
俺の袖を強く掴んでミアはしきりにそう言っている。
まん丸で吊り上がったネコのような目が爛々としていた。
その目線の先にいるのは、ベンツの後部座席に乗った中年男の顔だった。
男の髪は後ろに撫でつけたつやつやの黒色で、顔もゴルフ焼けなのか黒く、全体的に威厳のある顔つきだ。
その男を殺せとミアが言っているのだ。
何故だか分からない。
でも、ミアがそう言うのだから俺は言われるがままに実行するつもりだ。
「殺して」
彼女の声は、か細く、震えていた。
その時、感じた。
ミアは、その男によって地獄を味あわされたのだ。
だから、今度は俺たちがあいつに地獄を味あわせてやるのだ。
「分かった」
俺はそう応え、ポケットのなかのナイフの存在を確かめた。
最愛の恋人は表情を変えず俺の手を強く握った。
胸が熱くなる。
ミア……地獄の底まで墜ちようとも俺はお前を離さない。
***
ミアside
違いない。
男は口を尖らせて、眉間にしわを寄せて私を見つめている。
私のことをよく覚えているからだ。
許せない。
私を犯しただけではない。
父を死に追いやった。
普通に働いていた父親をいかさま賭博で借金漬けにした男。
借金のカタに私のカラダを売った父親も最低だ。
だが、私たちの生活をどん底に落としたのは視界のなかの男だ。
事実を知ったのは、『罪と罰』にしおりとともに挟まれていた父の遺書からだった。
最近見つけたものだ。
その文章の最後には、馬鹿な父親でごめん、と書かれていた。
「うおおおおおおおお!」
ユージは走り出していた。
左手に大きな折りたたみナイフを握って。
そう。
それでいいのよ。
私のなかの大きな膿を取り除いて。
その男さえ消えれば、私の存在は完璧になるの。
暗い過去よ、さようなら。
私は世に認められる。
マイを出し抜いて、一気に何百万部レベルの作家になる。
父のぶんまで生き抜いてやる。
そして。
安西先生。見ていてくれますか?
***
ユージside
男のたじろぐ顔がどんどん近づいてきた。
「ちょ、お前、なんや!?」
男の口から野太い声があがる。
「知るか! ミアのために死んでくれ!」
そう怒鳴り、俺は閉まりかかったパワーウインドウに手をかけた。
背後から銃声が鳴った。
直感で、弾いた音だと分かったのは俺が膝から落ちたからだ。
(な、なんだあ)
痛みはない。だが意識が遠のいていく。
ドアにもたれかかったまま、俺はずるずると崩れていった。
ミア……………………
【ユージsong】
毎夜の霧が俺を不安にさせる
目の前におまえはいるのに
手を伸ばしてもおまえに届かない
こんなに愛してるのに
この想いはおまえに届かないでいるんだ
こんなに愛してるのに
おまえはどこにいく
おまえの後ろ髪が霧の中で揺れている
俺の名前を呼んでくれ
その声に俺は応えよう
俺がおまえの愛に応えたとき
たぶん
それは
運命――――――
――――
―
***
ミアside
「ユージイイイ!!! ユージイイイ!!!」
彼の名を何度も叫んだ。
私の隣には、拳銃を前方に突きだした弁護士・南美の姿。
背中を撃たれたユージは日焼け男の顎を持ち上げて、その喉元を掻っ切っていた。
白目を剥いた日焼け男の表情と、崩れ落ちるユージの怒り肩。
途端にユージが恋しくなった。
「社長! 社長!」
運転席から滑り降りるようにして現れた若い男。
泡をふいた瀕死状態の日焼け男を、クルマから引きずり出して叫び散らした。
「救急車だ! 誰か救急車を呼んでくれ!」
周囲に向かってそう言い放つ。
その若い男はかかえた男の首元に脱いだシャツを当てた。
白いシャツが真っ赤に染まる。
あの風呂場での出来事が頭に浮かんだ。
若い男の足元では、ユージがうつ伏せ状態でピクリとも動かないでいる。
一瞬静まりかえった人々がすでにパニック状態と化していた。
「ユージ……」
私は組んだ両手を胸に当てた。
そして南美に目を向ける。
ユージを殺した男は、銃を持ったまま、両腕をだらんと下げていた。
「なんでユージを殺したんだよ?」
私はこみ上げてくる怒りを隠さないでいた。
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