紫―タトゥ―蝶

君乃カラダヲ...

「やだあ!」

「もうやめろ!」

「やだあ!」

「やめるんだ!」

「お願いこれで最後よお!」

「だめだ!」

「それなら死んでやる!」


ナオキはマイのカラダを抱きしめた。

抱きしめるを得なかった。

自宅マンションの一室。

「離して!」マイは叫んだ。

マイの小さなカラダは、ナオキの腕の中で身動きがとれないでいる。

「飲まして! これ以上飲まないからあ!」

マイは叫んだ。

ナオキは彼女の握ったカップ酒を取り上げた。

どこで手に入れたのだろう。

彼女には小銭さえ持たせていないはず。

「死んでやる! 死んでやる!」

マイは叫び続けていた。


***


『山崎マイの作品のほとんどは盗作です』

ある女性誌に載っていた告発文。

『大スクープ! 文学賞作家・山崎マイ氏の盗作疑惑!』

『―山崎さんの作品のほとんどが私からの無断引用です―そう告発したのは女性作家S氏である。S氏のことをよく知る出版社勤務のGさんも同調する……』


本文を読む限り、誰もが信じてしまう内容だった。

ナオキの妻は“山崎マイ”という名義で世に出ている。

すでにテレビや雑誌で引っ張りだこだった、マイ。

彼女が、電撃引退とも呼ばれること覚悟で主婦に徹することを決めた。

その矢先のことだった。

盗作疑惑が巷で広まった。

まったく身に覚えのないマイ。彼女にしてみれば、それだけでもショックだった。

さらに匿名によるネットや手紙で、売れっ子女流作家にトドメを刺すかのような無数の嫌がらせがあった。

彼女はついにノイローゼになってしまった。

ナオキは妻の背中を邪視した。

彼女の右の肩の下で紫の蝶が揺れている。

てのひら大の入れ墨。

アルコール中毒になったマイ。ナオキの目を盗んであらゆる遊びを覚えだした。

当分の間、お金には全く困らなかった。パチスロ、出会い系、ホスト……。

あるホストに騙され、マイは高額な金額を払って入れ墨をいれていた。

アルコールに身をまかせて憂さ晴らしをしていたナオキの妻。

彼にとっては、お酒の強い彼女をうらやましく感じていた頃もあった。

だがもっと早く気づいてやるべきだった。

愛すること。すでに、それだけでは彼女の心の傷は癒せない……。

「たのむからしっかりしてくれ! マイ!」

抱いた腕を緩め、ナオキは彼女のカラダを自分に向けた。

妻の幼顔が彼に向く。

彼女はまん丸な二重の目を細めていた。

「ナオキ……おねがいよぉ」

シャギーカットされた彼女のショートヘアーは、初めて出会った時から変わらない。

彼は、マイの手から奪ったカップ酒を床に落とした。

彼女の頭を抱いて艶のある髪を撫でる。

諦めたのか、力尽きたのか、妻はナオキの胸の中で大人しくなった。

ナオキは知っている。マイは盗作などしていない。

物語を生む苦しみは計り知れない。そんな彼女の努力をずっと見てきたのだ。

だが、世間はその噂をおもしろおかしく捏造していった。

芸能関係のネット掲示板にはいまでも彼女に 『盗作作家』のレッテルを貼っている。

マイを庇う人間など存在しない。

世間の誰もが、セレブからどん底に落とされた彼女をせせら笑う。


俺が守ってやる。一緒に、たたかおう。


ナオキは、その女性誌と女性作家S氏を相手に裁判を起こすことを決心した。

だが一つだけ心残りがあった。

大手建設会社に勤めるナオキ。営業部門で多忙を極めている。

頑張った甲斐もあり、若くして課長という肩書きをもらっていた。

裁判を起こす時点で、俺の名も世に知れることになるのだろうか?

そのとき、会社の偉いさんがたはどう思うだろう?


ナオキぃ...


彼を呼んだ妻の声。

マイは続けた。

「いいんだよ……あたしのことはいいの、あたし……ナオキに迷惑かけたくないから」

夫の心を見透かしたかのような妻の言葉だった。

マイがナオキの両腕をぎゅっと掴む。

これって……?

昔のことを思い出す。

それは、愛の感情だった。

たしか……バーからの帰り道。

その日曜日の昼間は彼自身、仕事のことでイラついていた。

マイに醜くあたっていた。

深夜。

マイは激しく酔っていた。

バスも電車もとっくに最終を過ぎていた。

彼女をおぶさり、ナオキはタクシーが来るのを待つ。

タクシーが到着するなり、彼はマイを降ろそうとした。

「やだ!」彼女は叫んだ。

降ろそうとするたび、マイはナオキの腕を握りしめる。

タクシーの運転手は、その様子に呆れ果てていた。

でも、彼の胸には熱いものが込み上げた。

「マイ……帰ろ」

彼はそう言い、マイをおぶったまま家まで送ることに決めたのだった。

「大好きだよ、ナオキ」

学生寮に着くなり、マイはそう言った。

それを聞いて彼の全身に稲妻が走った。二人の心とカラダがひとつになった気がした。

マイは運命のひと。ナオキはそう直感したのだ。


数週間後。

裁判を起こすにあたって、ナオキは妻を施設に入れることに決めた。

弁護士からの提案だった。

仕事をしながら裁判を起こし、なおかつ妻の面倒をみるのは不可能に近いと彼に言われたのだった。

その弁護士は、南美なみ圭介けいすけと名乗った。

30歳の割には、彼は少し老けて見える。

南美には、アルコール中毒者のための厚生施設を経営している知り合いがいるとのこと。

「絶対、勝ちます」

ナオキとマイの弁護人は自信満々であった。


だが、マイは入居を拒んだ。

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