ミア
独白
「は……?」
思わず声が裏返る。
***
落としそうになった受話器を持ち直した。
気持ちが落ち着かないままもう一度聞いてみる。
「山崎側が、提訴を取り消した……だって?」
南美は『うんうんだからそうだって。』と面倒くさそうに応えた。
電話の向こう側から、事務的に応じる早口女の声がかすかにしている。
弁護士事務所からかけているのだろう。のっぺりした顔の南美のネクタイ姿が目に浮かぶ。
だめじゃん。面白くない。
面白くないんだよ。
マイを盗作作家に仕立て上げる、そんなごときでは私は納得いかない。
たかだか女性誌のゴシップ記事ごときで終わらせてたまるか。
もっともっと日本じゅうを沸かせてやりたいんだよ。
だって普通に考えて面白いじゃん。
山崎マイの小説と私の小説の内容が酷似してるんだもん。
そりゃそうだよね。
私たち、思考回路が似てるんだもん。
あ、似てるもなにもまったく同じといっていいくらいの思考回路。
山崎マイと私は一卵性双生児。
アイツの名だけ知れて、なんで私は無名なんだ!
ドラマの原作者といわれた私。
でも、私にとってあそこはたった2本の世界でしたわ。
その2作は、某出版社に400万円くらいカネ預けての共同出版だった。
微々たるお金が入っただけ。
で、私に残った借金は100万円を超えたわけですよ。
「なんとかなんないの!?」南美に吠えた。
『なんともなんない』弁護士はそう応える。
「この役立たず!」
叩きつけるように受話器を戻した。
……エセ弁護士が。
南美のことだ。
何度も抱かせてやったのに。
信じられない位の口臭に耐えながらキスしたり、奴の超くせえアソコくわえたりしたよ。
だが、奴はもう当てになんない。
マイを施設に閉じ込めて、私が世にでる番だったのに。
……他の手を考えるしかない。
マイと私が生まれてすぐに両親の離婚。
マイは母親に引き取られ、私は父のもとで育った。
母親は即、他の男と再婚したらしい。
父と言えば……アルコール中毒者だった。
物心ついたときから、私は父から何度も暴力をふるわれた。
父が連れ込んだ行きずりの女からも暴力をふるわれた。
私の育った場は、まさに地獄だった。
いまでは巣鴨のワンルームに住んでるが、父に養われていたころは埼玉の運送会社の寮にいた。
風呂は共同で6畳一間の小汚いアパートだった。
父は、2トントラックで都内を配送する業務についていた。
なにを運んでいたかは忘れた。
それよりも強烈に覚えていたのは、毎晩、酔っ払って帰ってきて私を虐待していたことだった。
「なに本ばっか読んどるんやあ! てめえもコンビニかどっかでバイトでもせんかい!」
バイトもなにも中学生にはどうにもなんない。
「無理……だよ」
私のそんな言葉を無視して、父は私の手から本をむしり取った。
「あん? ドスト……エフ……なんだって? 罪と罰? は、てめーが生まれてきたことが罪なんだよ!」
そう言うと、父は私の腹に蹴りを入れたのだ。 胃液が込み上げるほど何度も何度も。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
ごめんなさい。何度この言葉を吐いたのか。
許してもらえる希望もないのに、私はいつもその言葉を父に投げていた。
父が連れ込んだ女からは訳もなくビンタをくらっていた。
……。
私に優しかったのは、安西先生だった。
中1の時の担任だった。
当時は、おばあちゃんのような印象だったけど、いま思えば彼女はもっと若かったような気がする。
ドストエフスキーの本をくれたのが、安西先生だった。
「辛いとき、何度もこの本を読みなさい」
そんなことを言われた記憶がある。
主人公の苦悩。これが、先生から手渡された分厚い上下巻の内容だった。
すでにぼろぼろになっているが、いまでも大切に閉まってある。
とにかく私の過去は荒んでいた。
寮の共同風呂。狭くて汚い空間。
当時の私はいつも、軋む音さえたてまいと共同風呂に歩を進めていた。
夕方の時間帯なら、誰もいない。
とにかくシャワーさえ浴びることが出来れば良いので、私は毎日、さっさと済ませるつもりでいた。
体臭さえ消せばいいんだ。
くさいとクラスメートに嫌われる。
制服姿の私の手の内には、石けんとバスタオルと学校のジャージ。
パジャマなんて、私にはない。
制服とジャージだけが私のすべて。
服を着たまま浴場に入る。
誰もいないことを確認すると、ボロボロのタイルに足をのせる。
下着まで脱いで、蛇口を捻る。
下着を洗面器に放る。
洗面器がお湯で満たされたら、石けんを使ってその汚れものをゴシゴシと洗う。
中学3年生の時だった。
私はその汚い浴場で処女を喪失した。
私を犯したのは、父の高校の後輩だった。
当時の父は、よほどお金に困っていたらしく、ヤクザからの借金の返済に追われていたのだ。
後から知ったことだが、その後輩は、父にカネを支払って私を犯したという。
数日後、父は突然姿を消した。
私が中学を卒業する間近のことだった。
中学を卒業すると、安西先生が実の母親である駿河美佐子を連れてやってきた。
初めて目にする実の母。
彼女はたしかに娘である私に似ていた。
小柄な体格。まん丸な目。
ただ、痩せた私よりかは多少肉付きがいいかな。
その時、私は双子の片割れであることを知った。
父が雑木林で首をつっていたことも同時に知った。
外にでるとパトカーが停まっている。
婦人警官に促され、パトカーに乗った。
父の死は他殺かもしれないということだった。
だが、いまだに真相は明らかではない。
警察の質問に答えて署をでると、母親である山崎美佐子は、一緒に暮らそうと私に言った。
ふざけるな、私の返答はそれだった。
私は自由になったのだ。
誰にも縛られない、誰にも頼る必要もない。
自分ひとりで思う存分生きられる。
そう。生きられる。
そんな私を理解した安西先生は、一緒に就職先を探してくれた。
安西先生……。
私にとって、本当のお母さん。
いまはもうこの世にいないけれど。
私の中で彼女は生きている。
いまでも、いつまでも。
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