年下彼氏。

吉川ヒロ

ナオキ

頬の色。

新田尚貴にったなおき-18歳のとき


ナオキは高校を卒業してのち地元のアパレル会社で働いていた。

彼の住んでいる地域では、昭和の時代、繊維産業が最も盛んだった。

だがいまは経済活動の片隅に追いやられてしまっている。

彼の働く場所は、シャッター通りに面した小さな会社。

『有限会社フジサキ』である。

ナオキの直属の上司は、社長の実娘であり、専務である藤崎ふじさき江利えり

彼女は部下であるナオキを厳しく指導した。

「新田! アンタ、どうしてこんなことが分からないの!」

「だめ! やりなおし!」

「何度言ったら分かるのよ!」

毎日、こんな有様だった。

他に3人の女性の先輩社員がいたが、彼女はナオキだけに対して酷く当たっていた。

確かに彼には少しばかりトロい部分があった。

遊びすぎた学生の時分。いまだにその頃の神経が抜けきらないでいる。

ナオキの両親は彼が幼少期に蒸発した。

彼は地元の児童保護施設で暮らしてきたのだった。

高校を卒業後、施設側がナオキは自立可能だと判断した。

フジサキの社長が好意的に彼を受け入れた。

人情に厚い社長とは反対に、娘のエリは見た目は美しいが冷徹な性格だと社内では囁かれている。

ナオキもエリのことを例外なくそう考えていた。

同時に、彼女に対する思い焦がれた小さな感情も無自覚だが芽生えつつあった。


***


夏の頃。

ナオキは海外発注した衣類1,000着以上を数えていた。

送られてきた箱を開けて検品、そしてまた同じように検品の繰り返しで深夜零時をとっくにまわっていた。

夜中といっても暑い。

真昼の酷暑の熱を保ったままの室内で、ナオキは滝の如く流れる汗を何度も拭う。

絞れば大量に出てくる程に汗を吸い込んだタンクトップ。

彼は乱暴に脱ぎ捨てて、傍らに置いてあった綿シャツを羽織った。

他の3人の先輩女子たちは、用事があるとかですでに帰ってしまっている。

用事っていっても週末だから皆でどこかのビアガーデンで飲んでるのだろ、と彼は一人愚痴ったのだった。

でも、飲んでいたのは一般社員だけじゃなかった。


「ナーオくぅん」


20畳ほどある一室の出入り口から声をかけてきたのは、ほろ酔い加減のエリだった。

「なぁんでこんな暗いところで仕事してんのぉ?」

普段は聞くことのない、甘ったるい彼女の声とともにパチンと音が鳴る。

すべての蛍光灯がついた。

薄暗かった室内が一気に明るくなる。

同時に冷たい空気が彼の周囲を包む。エアコンも起動させたようだ。

夜中といえども、社員一人のために電気を使うことなど平社員であるナオキにはできない。

専務にばれたら経費節減に関して小言を言われるだろうから。

そのエリの姿が露わになっている。

エリは、白のキャミソールにプレミアムジーンズを身につけていた。

へその部分を恥ずかしげもなく晒したその姿は、スラリとした体型の彼女にとってなんら違和感もない。

だけど、ナオキには刺激的な格好だった。

彼女の胸の谷間に気づく。

鎖骨の下にある、くっきりとした縦線。

思わず目を背ける。

その態度に気づいたのか、彼女は愛嬌のある片笑みをみせた。

「どうしたの? ナオくんがこんな時間まで仕事してるなんて知らなかったよ」

「ナ、ナオくんって……」

彼は俯き、その呼び名に反応する。

エリは微笑んだままでいる。左のえくぼが可愛いい。

彼女は、黙りこくったナオキの前で立ち止まった。

「ナオくんだけ一人残ってお仕事してたの? 偉いね、えらいえらい」

そう言って、彼の頭を撫でる。

「ふふ……ナオくんの髪って、やっぱりサラサラだね」

「……」

お酒の甘い匂いが、ナオキの鼻をプンと触る。

会社役員としての、どこかしら威厳のあるエリとはまるで別人のよう。

ナオキの目には艶めかしい年上の女に映った。

「ねえ、こっち向いてよ」

エリのその言葉に、ナオキの胸が高鳴る。

「お酒……飲んでるんですか?」 ナオキは惚けたフリをして聞いた。

「んー?」エリは喉を鳴らすような声をだす。

額ほどの身長差ながら、上目遣いの彼女の表情にナオキの胸がさらに高鳴った。

「えー? ナオくんって未成年なのにお酒の匂いを知ってんだ?」

「ぼ、僕だってたまには飲んでるし……」

なんで分かってるくせにそんな質問すんだよっ!

っていうか、なんで俺、そんなウソ言っちゃたんだよ!

子供だと思われているナオキは自分自身に腹が立っていた。

深夜の、静かな作業室内。

コンクリートの壁に囲まれた、上司と部下。

女と男。

「せ、専務……」

「専務なんて……そんな呼び方やめて」

彼女の潤んだ流し目、高い鼻、淡いピンクの唇。

すっきりとした顎のライン。

ほんのりと赤い頬。

ドギマギしながらも、冷静を保とうとする自分がいた。

ナオキは、無意識に彼女の巻き髪に手を当てていたのだった。

だけど……ナオキにはここまでが限界だった。 「ダメです!」

「なんで!?」エリは目を丸くした。

「なんでって……」

「私じゃ嫌なの!?」

「違う……違います……」

いつも男友達とツルんでたナオキには、女性経験が皆無だった。

気づけば、エリは床に座り込んでいた。

ナオキは立ち尽くしていた。

「今日は……帰ります」エリに背を向け、ナオキはそう言った。

返事はなかった。

ナオキは構わず続ける。

「おめでとうございます、誕生日……日付かわっちゃったけど」

「え……」エリの微かな吐息が、声とともに漏れた。

ナオキは見逃さなかった。

彼女の普段つけていなかった銀の指輪。

右の小指に嵌められていた。


……彼氏といたんだ。


彼女は、ただ酔っているだけなんだ。


僕を、からかっているんだ……


肩をすくめ、ナオキはドアノブに手をかけた。

すると。

「ナオくんにも、フラれちゃった……」

エリの言葉にナオキは口を開く。

「じゃあ、その指輪はなんだよ」 思わずでた言葉。

「……自分で買った」エリは俯き加減にそう答えた。


「ぼ、いや、俺、専務、いや……エ、エリさんのこと、好きだから」


深夜までの残業でテンションが高まっていたからか、エリのお酒の匂いで酔っ払ったからか定かではない。

ナオキはしどろもどろながらもそう言った。

エリのことが好きだと。

それは偽りのない、まったくの本心だった。

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