蛾=ガ
駅から繁華街を抜けた場所にある、閑静な住宅街。
そのなかの高層マンションの前にナオキは立っていた。
自宅のある9階を見上げる。
母親は警察を呼んだのだろうか?
いてもたってもいられない。
カードキーを通しエントランスに入った。
ナオキ…………
少しかすれた声に振り向いた。
……マイ?
目を疑った。
***
閉まった自動ドアの前に妻が立っていた。
静かな空間。
エントランスホールのなかには、ナオキを含めて3人の男女が無言でいる。
「誰この人」マイの隣にいた、若い茶髪の男の声。
その澄んだ声色は簡単に沈黙をぶち破った。
こいつ。まだ20歳前後か。
恐ろしいほど細身にみせたファッション。シルバーのアクセサリが目に鬱陶しい。
ショートボブに軽くパーマを入れた髪型。
目鼻立ちのはっきりとした、女性アイドルのような顔立ち。
ホストか……ナオキは直感した。
「まさか、彼氏じゃないやろね?」いきなり、 ホストは眉をひそめてそう言った。
「は!?」ナオキは目を見開いた。
呆気にとられる。
我が嫁は、自ら独身だとウソぶいて遊びほうけていたのか。
マイは夫にチラと目をやると、即座にホストの顔を見上げた。
「ん、ちがうよ」
当たり前だろ、とナオキはそう言いかけた。
だが妻はまったくウソぶいている様子もなく、
「タックン、ちがうよ、この人は同じマンションのひとだよ」
と男に答えた。
え?
なんだって?
もう一度聞き返したかった。
ははっなあんだ、と男が声を上げる。
マイ、なに言ってんだ? ……そう言いたかったが、あまりのショックで声にならない。
ホストはにやけ顔のまま、マイを見下ろしている。
「あ、そうだ、これからゼミの懇親会だった、先生もくるんだよな……でさ、夜が長くなりそうやからちょっと工面してよ」
男はそう言った。
マイは笑顔で頷いた。
そして。グッチの鞄からシャネルの財布を取り出し、札束を男に与える。
「また足りなくなったら言ってね」
マイの言葉に、男は気分良くドアの向こうに姿を消したのだった。
エントランスホールのなかには男女がふたりきり。
「どういうことだよマイ」声の震えを抑えきれない。
「……ナオキが悪いの」妻はそう呟く。
「な、なにが悪いってんだよ」
鼻息が荒くなる。
だがマイはナオキの気持ちとは真逆の態度で、しらっと髪をすいていた。
「あのね、ナオキは仕事仕事であたしのことなんてちっとも構ってくれなかった」
なに言ってんだよ。
眉間にしわが寄った。
彼の気持ちをさらに無視してマイは続ける。
「あたしの印税やらなんやらで、ナオキは一生懸命になって働かなくてよかったんだよ、実際」
なにを言ってるんだ。妻に食わせてもらうなんて俺には耐えられない。
そう思った。それはずっと考えていたこと。
「俺が家族を養ってやると約束したはずだ、それにいまのマイを守ってやれるのは俺しかいない」
だが妻は首を傾げていた。
「なんかさー違うんだよね、あたしは平気なんだよ、別に誰にも守られたくないの……盗作作家なんて呼ばれても全然平気。それどころか正当派にみられなくなっただけで幸せなのよ、いまは」
彼女の言葉に、かっと熱くなった。
「いままでの苦労を思い出してみろっ! 全てが台無しになってしまったんだぞ!?」
「は? そもそも、あたしは作家の仕事を辞めようとしてたんだからね。それは、ナオキと一緒にいる時間を作りたかったし、家族も増やしたかったからなの、なのにナオキはあたしの気持ちを踏みにじった」
胸に突き刺さる。すーっと心が冷めていく。
「……そ、それはいずれ考えていたことだ」
「いずれっていつのこと? あたしは待ちくたびれたんだよ」
そこまで言って彼女は口を閉ざした。
ナオキはこの時、妻の心情を初めて知ったのだった。
俺は若くして出世した。
さらに欲が出て仕事仕事の毎日だった。
人の上に立つととても気持ちよかった。
親の代まで年の離れたの部下まで俺に頭を下げる。
だが、会社の名誉と自身の地位を守るために、支社長は俺をクビにした。
だけど後悔はしていなかった。
それは、マイのため。
マイの作家としての名誉のため。
なのに、その結果がこれか?
脇目も振らずに働いていた時にこそ、マイの気持ちに少しでも気づいていればよかったのか?
「……………………さっきのホスト、誰だよ?」
夫に残された最後の言葉。
マイの表情が緩む。
その表情に胸がさらに痛む。
「タックンのこと? 彼は佐野拓也っていうの、まだ学生だよ」
マイはさらりとそう言った。
その時、
「マイ!」 彼女の母親が叫んだ。
「あんたって子はナオちゃんに迷惑ばかりかけて!」
マイの母親は泣き腫らしていた。
マイも涙を流していた。
「仕方がないの……あたしは運命のひとに出会ったのよ」
さっきの男か? ナオキはそう聞いた。
マイは無言で頷く。
心臓が貫かれた思いになる。
彼女の右手に目を見張った。
以前、ナオキがプレゼントしたピンキーリングが嵌められていた。
薬指には、彼の知らない指輪が嵌められている。
そのとき思った。
彼女の気持ちは俺から離れてしまったのだ、と。
ついに、俺はすべてを失ったのだ。
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