蝶乃舞ウ。

施設入居を拒む妻を説得しながら、ナオキは第1回口頭弁論のための準備で忙しくなった。

彼女の盗作疑惑をはらすため、まず、告発者・作家S氏の作品を読んでみる。

もちろん、通常の仕事もこなすつもりだった。

そんなある日の朝。

顧客先に向かおうと、部下を伴って外出の準備をしていた時である。

「課長、支社長が呼んでます」

事務の女性が、受話器を置くなりそう言った。

支社長……?

個人的に呼ばれるのは、よっぽどのことでもまず副支社長からだ。

いきなり、支社の最高責任者がナオキを呼んでいる。

最上階に着き、エレベーターを降りる。

厚い絨毯で敷き詰められた通路。

音をたてることもなく、彼は支社長室のドアに辿り着いた。

ドアをノックする。

ああ入ってくれ、という太い声。

「失礼します」ナオキは重いドアを開けた。

支社長室に入るのは、昇進発令の時のみだった。

12畳ほどある一室。

ガラスのテーブルを挟んで革張りのソファーが縦に並び、その向こうで大きなデスクがでんと構えている。

支社長は席に座っておらず、立ったまま窓に向いていた。

「まあ、座ってくれ」両手を後ろに組んだまま、その大柄な紳士がナオキに向く。

彼の表情からして、決して面白いことで呼ばれたのではないとナオキは覚悟を決めた。

ソファーに座る彼に目をやりながら、支社長が席に着く。

「山崎マイ……んと、私も知ってる作家なんだけど、実はキミの奥さんなんだってね」

いくぶんリラックスした口調だった。

「え、あ……はい、そうです」

自分でも分かる、覇気のない返答。

ああ、やっぱり……。

なんとなく呼ばれた理由はわかっていた。


午後。

ナオキはビジネス街を練り歩いていた。

上着を脱ぎ、ネクタイを外し、シャツは胸のボタンまで開けていた。

気持ちのいい風が、彼の上半身に直接入り込む。

「あー!」投げやりな気持ちで彼は声を上げた。

手に持った鞄をついに放る。

長いこと連れ添った鞄は空を切って道路に落ちた。

他のビジネスマンたちが眉をひそめて彼を見る。

なに見てんだよ、とナオキは皆を見返した。

周囲の大人達は、他人事のようにそそくさと去っていく。

鞄は、国道を走るクルマに次々と踏まれていった。

その光景をみて、ナオキは嘲笑ったのだった。


『盗作作家と呼ばれ、また、その本人がアルコール中毒者で、しかも、雑誌社相手に泥沼になるであろう裁判沙汰を起こす、そんな人間を身内に持つような、社名を汚すだけの社員はいらない。』


支社長にそう言われた。

いつどこで支社長がその情報を手に入れたのかは知らない。

だが、ナオキ自身いずれその憂き目にあうのは予想していた。こんなに早くとは思わなかったが。


――もしキミがその裁判沙汰を起こすというのなら、これ以上雇用関係を保つこともないだろう。

――我が社はいずれリストラ策を考えている、それは役職者からの削減なんだ。

――そうだ、キミの奥さんはかなり儲けたんだろう? それじゃ当分暮らしに不自由ないじゃないか。


支店長の言葉を思い出す。

コップに入ったビールを一気に飲み干す。

夕方。ナオキは駅周辺にある居酒屋のカウンターにいた。

真後ろの座敷部屋では、学生風の男達が馬鹿騒ぎしている。

若いっていいよな、と思いながら空になったコップに瓶を傾けた。

2杯目を注ぐ。

今夜は酔いたかった。

マイのことなら心配ない。

中野区のマンションには、彼女の母親がいる。

彼は考えた。

女性作家Sのことを。

南美は、Sのことを笹原ミアだと断言した。

笹原ミアは、2時間ドラマの原作者として知る人ぞ知る存在であるらしい。

彼女は、なぜ妻を狙い撃ちしたのだろうか?

恨み? カネ? 売名?

分からない。

だがいずれ真相は明らかになるだろう。

カウンターの上で握った拳が熱くなる。

その時、胸ポケットの携帯電話が震えた。

ディスプレイには『自宅』の表示。

(なんだろう?)首を傾げながら着信ボタンを押す。

「はい……あ、お母さん?」

「もしもしナオちゃん!?」

マイの母親は、電話の向こうであわてふためいていた。

「マ、マイになにかあったんですか!?」

おもわず大声を上げる。

店内がしんと静まった。

「マイがいなくなったのよ!」

「なんだって!?」

椅子が倒れるほどの勢いでナオキは立ち上がった。

財布のなかの1万円札をカウンターに置いて外に出る。

「あ、お客さん! 釣り釣り!」

そんな言葉が店のなかから聞こえたが、ナオキは構わず歩道を駆けていく。

彼は思った――――――

この歳になって脇目もふらずに走るなんて思わなかったし、人目を気にせず泣くなんて、まったく思わなかった。

ゴメン……マイ……。

仕事を失ったからって、俺は……独りで感傷に浸っている場合ではなかったのだ。

馬鹿だ……俺は。

マイには俺しかいないのに。

「マイ!!」

ナオキの怒号に通行人が一斉に振り向く。

神様……お願いだ。

マイを無事でいさせてくれ。

マンションの前に辿り着く。

もしかして帰ってきてるのかもしれない、そんな期待感が胸に疼いた。

無事でいてくれ!

マイ!

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