星合い

goodbye...

七月七日――――――

正午すぎ。見上げていると、吸い込まれるほどに真っ青な空。

そんな陽気とは裏腹な気持ちのナオキ。

荷物をまとめてマンションを出て行く準備を終えた。

マイは昨夜から出かけたっきり帰って来ない。

最後くらいは、と、彼はバルコニーに面した窓際に立っている。

成功者だけが毎日見渡せるかと思うくらいに、日本で最も見晴らしの良い部屋。

高層マンションが建ち並んだその足許に、ミニカーに見えてしまうほどのクルマの大群が右往左往している。

遠くに目をやると、神々しく見える、かすかにみえる山々。

夜景は言うまでもなく。

宝石箱をひっくり返したかのような煌びやかな眺めだった。

セレブマンション。だが所詮マイの収入で住んでいただけのこと。

『ナオちゃんが出て行くことはないんだよ……マイのせいでこんなことになったんだから。』

マイの母親はそう言ってくれている。ナオキ達が離婚したにもかかわらず。

だけど、違うんだ。

次にここに住むのは、あの大学生ホスト――――――

「よしっと」荷物がまとまった。

ナオキは、パンパンに膨れたふたつの鞄を抱えて玄関のドアを開けた。

「ん……?」ドアノブを回すのがやけに軽く感じる。

「ナオちゃん……」

「え……お義母さん」

マイの母親、美佐子が胸に手を当てて立っていた。

彼女から視線を逸らしてナオキは口を開く。

「もう、行きます」

「そう……」美佐子は俯いた。

「いままで、本当にお世話になりました」

ナオキは義理の母親に深々と頭を下げた。

がんばって――――――

美佐子に背を向けて歩いていると、そんな言葉が聞こえたような気がした。

エントランスを抜ける。

マイにばったり出会うことを想像している。

あの男と一緒でも構わない。

最後に、声だけ聞きたかった。

いや。挨拶もなく、せめて、顔を見るだけでもいい。

でも偶然に出逢わすこともなくマンションを出た。

大きく息を吸い込んで、ふっきれたかのように吐く。

一緒になるまで随分と時間を要したのに、最後は案外あっさりと別れてしまったな。

(ああ、あっけないな)

そう思うと鼻で笑ってしまった。

だがしだいに、マイと愛し合っていた頃を思い出す。

それが大津波のようにナオキの胸に押し寄せる。

息が荒くなった。

路地を抜け、そのまま人通りの多い場所にでる。

不意に流れた涙。濡れた頬をぬぐう。

しばらくすると。

「新田……さん?」

繁華街を歩くナオキを呼び止める声がした。

「ん?」その声に振り向く。

「そんな荷物抱えて、一体どうしたんです?」

「南美さん……」

スーツ姿の男。かつての弁護人が立っていた。

「どうしてここに?」ナオキは聞いた。

南美は両腕を組んで思案に暮れたまま、口を開く。

「ええ、アナタが取り下げた訴訟の件についてなんですが……どうにかお役に立てないでしょうか?」

そんなことか。

「ああ、もう俺たち離婚したんだからそんなこと意味ないし」

マイは妻でもなんでもない。

すでに他人の女だ。

彼女をかばう理由は、ない。

「新田さん、会社を辞められたって本当ですか?」

嫌なことを聞くヤツだな。

「ああ、そうですよ、それがなにか?」

ナオキは露骨に不機嫌な表情をつくった。

やっぱりなあ、南美はそう言い、立て続けに捲し立てる。

「そりゃあ会社としても気持ちのいいもんじゃないですね、盗作だ、いや違うオリジナルだとか、マスコミの格好のネタになりそうな事案ですものねえ、そんなところに原告である夫の勤め先まで出ちゃったら……会社のイメージダウン間違いなしですよね」

「俺はそういう理由で会社を辞めさせられたんです」

そう言い返す。

いい加減にしろよ。

妻も職も失って、俺がどんな気持ちでいるのか分かってんのか?

そう言いたかった。

その時。

南美の背後に目を見張った。

「あ、ああ……」

思わず声が漏れる。

マイ? ……と、思ったから。

サラリーマンや宅配業者がせわしなく行き来している歩道の片隅。

小柄な女性がいる。

だが、マイではなかった。

「お義母さん……」

ナオキの目に映っているのは、マイの母親、美佐子の姿だった。

ごめんね、美佐子は暗い表情でぽそりと言った。

先ほど会った服装ではない。彼がマイと見間違えた理由だった。

かつての義理の母親が、元妻の服を着ている。

フリルのついたピンクのワンピース。

美佐子が着てもなんの違和感もなかった。

「え? マイさん?」

南美までがそう言った。

弁護士を横切り、ナオキは美佐子の前に立った。

「お義母さん、どうして謝っているんです?」

そう聞いた。

「は? おかあさん?」 南美は言う。

「ああ、彼女の母親です」ナオキは答えた。

美佐子が深々と頭を下げる。

「お義母さん……」

どうしたんだろう?


***


駿河美佐子―44歳のとき


ナオちゃん……。

ごめんなさい。

アナタに迷惑をかけてしまった。

会社を辞めた理由は、訴訟のことだったんですね。

……マイを助けるために。

会社より私の娘を選んだナオちゃん。

実は、私が、アナタの会社に密告したの。

アナタが訴訟の準備をしていることをね。

でも、こんなことになるなんて。

申し訳ない気持ちで一杯です。

アナタがマンションを出る前。

私に背を向けたときに思わず声をあげたの。

待って――――――

そう言ったの、でも、ナオちゃんは行ってしまった。

いてもたってもいられなくなり、オバサンじみた格好から着替えたわ。

マイの服。

どう、似合う?


「お義母さん……その格好……」

ナオちゃんはそう言い、怪訝な表情をみせている。

信号待ちのトラックからも視線を感じる。

ちらりと目をやると、私と同じく40代半ばと思われる男が、こちらに向いて顔をにやつかせている。

心臓の鼓動がはやくなる。

胸が張り裂けそう。

「わ、私……」 言葉が続かない。

アナタに訴訟をやめて欲しかっただけなの。

ナオちゃんは仕事一筋でいて欲しかった。

マイをかばって欲しくなんかなかった。

私は、マイの男遊びをずっと以前から知っていたの。

あんな娘のために、ナオちゃんが苦しむことになるなんて許せない。


信号が変わったのか、耳障りな音をたててトラックが去っていく。

……

ナオちゃん。

私、アナタが好きなの。

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