A boy...
静寂の時。ナオキはエリからの返事を待つ。
2階の部屋にいる彼女の表情は伺えない。
まるで空気の流れが完全に止まっているかのよう。
「会社の……男の子……」エリは声を曇らしていた。
「ははっなぁんだ」男が愉快そうに両肩を揺らした。コンビニ袋もつられて振れる。
「単なる社員ね、あ、元社員か」
「エ……エリ! 嘘だろ!? 嘘だと言ってくれ!」ナオキは媚びるようにして、姿の見えない彼女に訴えた。
男がダダダと階段から降り立つ。
目の前のナオキにすかさず言った。
「これからさ、エリのお父さんがいる病院にいくんだよ、準備とかで忙しいから邪魔しないでくんない?」
「え? 社長が!?」ナオキは2階に顔を向けた。
エリからの返事はない。
「そうそう、生きてたんだよ」代わりに男が即答した。
よかった……。
ナオキは胸をなで下ろした。
それでも納得のいかない少年に男は説明を続けた。
奥さん……エリの母親が第一発見者だということ。
母親はいまでも警察の聴取を受けているので、一人娘のエリが父親に付き添うことになったこと。
倒産した『(有)フジサキ』に対する債権や、土地と社長宅の所有権は、婚約者だというこの男がすべて買い取るとのこと。
すべて買い取る……つまり、金融機関や他の債権者に対する会社の借金を、この男がすべてゼロにするということ。
そして、この男の名前はスガタ・エージェンシーの菅田だということ。
そこまで説明したのち、菅田は唇を舐めた。
「ま、そういうことだから」
なにも言いかえせない……。
全身の血の気が失せた。
なにも感じない。
「エ、エリ……」
握った拳が震える。
「帰れば?」菅田の、冷淡な声色。
ナオキは男に背を向けた。
「……分かった……帰る」
外に一歩踏み出す。
エリのすすり泣く声が聞こえたような気がした。
エリ……。
ナオキは、ゆっくりと藤崎邸をあとにしたのだった。
***
「痛ってえ……」
直前に電柱の存在に気づいたナオキは、素早くハンドルを切ってバランスを崩した。
横倒れになった自転車の後輪が空しくまわっている。
深夜零時を過ぎていた。
どこなんだろう、ここ。
知らない住宅街。
月の明かり以外に、彼にとって見慣れない空間だった。
余計に寂しさがこみあげてくる。
自転車をたて、ペダルに足をのせる。
ハンドルがとられる。
うまく進まない。
「ちっ」舌をならす。
タイヤがパンクしていた。
真夜中ながら蒸し暑い。
公園の手前にある自販機でペプシを買った。
プルタブを開け、炭酸水を一気に流しこむ。
喉がかあっと熱くなった。
小さなグラウンドの真ん中に自転車を投げ倒し、見つけたばかりのブランコに尻をのせる。
再び缶に口をつけた。
ポケットのなかで着メロが鳴る。
「ぶっ」口の中のものがすべて吹き出た。
慌ててディスプレイをみる。
エリからの着信。
「ゴホゴホッ!……エリ!? ゴホッ! ゴホッ!」
「ナオくんっ大丈夫!?」
「ん……ちょっと、咽せただけ、だよ……ゴホ!」
「……」
返事のないエリ。
どう切り出そうか一瞬迷う。
「エ、エリはいま病院なの?」
「……うん」
「社長は!?」
「いまは絶対安静だけど、命に別状はないよ……母さんが発見したのが早かったからみたい」
「そうなんだ、よかった」安堵の息を漏らす。
「ナオくん」
「え?」
「ごめんね……」
そのあとのエリの言葉がなかった。
ごめんね……だって?
素早くブランコから立ち上がりペプシの缶を地面に叩きつけた。
缶は一回跳ね上がると、暗闇の中をコロコロと転がっていった。
「あの男、あの菅田っていう奴、ほんとにエリの婚約者なのかよ」
声が震えていた。
だんだんと怒りが込み上げてくる。
「黙っててごめんね……あの人のことはナオくんに知られたくなかった」
「いつからだよ」ナオキは聞いた。
「え? あ、ああ、あの人とは一度別れてるの……そしてまた付き合うことになって……でナオくんと付き合ってたから、あたし、迷って、なにがなんだか分からなくなって」
菅田とは一度別れてる……。
エリが酔っ払って帰ってきたあの日か。
初めて、俺がエリとキスしたあの日か。
「なぜだ」
「え?」
「なぜ、二股を……」
携帯電話を握る手に力が
「そんな言い方しないで!」
『二股』という言葉を真っ向から否定するかのような、エリの厳しい口調だった。
「じゃあ、なんだよ!」
「……」
「なんか言えよ!」
「ばーか」
「は?」聞き返した。
「ばーかばーかばーか……ばーか」
エリは何度も繰り返す。
「なに言ってんだよ……」
ナオキは呆れていた。
電話の向こうから鼻の啜る音が聞こえる。
「ナオくん、かっこいいから……すぐに新しい彼女ができるから……私みたいなオバさんに構わないで……もうこれ以上、もう……」
それを聞いて総毛立った。
「いやだ」少年はそう口にした。
全身の血の気が引く。
立っていられない。
「俺……運転うまくなるから……別れるなんて、いやだ」
電話の向こうから伝わる。
エリは号泣していた。
「だから……分かって……お願い……」
エリの最後の言葉。
回線が切れた。
なにも聞こえない。
もう、彼女からなにも伝わらない。
彼からも、なにも伝えることが出来ない。
携帯電話がするりと落ちる。
俺は、すべてを失った。
……
気がしていた。
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