縮まった距離...
……信じられない。
(エリ……?)
かつての恋人、藤崎江利がナオキの目の前にいる。
「ナオ……くん?」エリは、ためらいがちに小声で聞いた。
「そ、そうだけど」
まともな返答が出来なかった。
どう取り繕って良いのか分からない。
驚きを隠せない彼女の瞳にも、その呆然としたナオキの表情が映っている。
数年ぶりのエリとの出会い。
ボーイフレンドデニムにカーキ色のキャミソール、そしてサンダル。
歳からすると30手前になっているはず。
茶色でセミロングの巻き髪は、黒髪でストレートのショートヘアーになっていた。
生活感の伝わる化粧っ気のない丸みを帯びた顔立ち。
ナオキの目には、キャリアウーマンでならしたバリバリの厚化粧だった頃のエリより随分と優しく映っている。
時に冷徹だったかつてのエリ。
だけどいま、心に傷を持ったナオキには、彼女の存在が慈愛に満ちているかのような感覚に縛られつつあった。
刹那、彼女の前髪が少しだけ揺れた。
「ナオくん、ちょっと太った? あ、そ、その荷物はなに? え、あ、そうだ、何年ぶりなんだろ? 私達」
必死に平静を保とうとしているエリ。ナオキにはひしひしと感じた。
「え? えーと、たぶん5年ぶりくらいかな」ナオキの声まで上ずっている。
心拍数がハンパじゃない……。
エリもそうなんだろうか?
だが驚いた顔の彼女が、ナオキには愛らしく思えてきていた。
呼びたい。かつての恋人の名を。
「エリ」
「誰なの?」
勇気を出して、喉から噴き上がった彼女の名を口にした。
だが同時に背後から声が上がったのだ。
エリがナオキの背後にふっと視線をずらす。
「こんにちわ」初対面の者に対する、エリのその繕った声も表情もどこか懐かしい。
振り向くと、美佐子が怪訝さのなかに微笑みを浮かべながらナオキに目を上げていた。
「お義母さん……」
まだ、居たんだ。溜息が出そうだ。
エリを無視してナオキの返事を待つ美佐子。マイの服を身につけている。
それを差し引いても、とても、40代にみえない。
偶然再会したエリとおない年だと言われてもほぼ誰もが本気にするだろう。
……あの日のことが瞬時に頭を過ぎった。
会社の昇進祝いで、しこたま飲んだ日があった。
それは、学生の時の友人らがセッティングしてくれたものだった。
帰ってきたら、深夜零時をまわっていた。
マイはいなかった。
彼女は、テレビ局との打ち合わせとかで帰りが遅くなるらしかった。
毎回のことだが、そうなると彼女はどこかのホテルで一晩過ごすことになっている。
どこかのスポンサーが手配した高級ホテル。
ナオキには妻の仕事内容には興味がなかったが、動向くらいは知らせておけと半ば命令口調でマイには伝えている。
マイは素直に彼に応じていた。
それに仕事を全面的に辞めて家庭に入ると彼に告げたのもこの頃だった。
人の気配がした。奥の部屋に明かりが灯っている。
「お帰りなさい、大丈夫? 飲み過ぎたようね」
美佐子だった。
だが当初は、あれ? と思ったのだった。
なんでマイが居るのかと。
「お、お前、テレビの仕事は?」
美佐子は目を細めた。
「やだ、マイじゃないの、私よ、私」
「え!? あ……すんません」
美佐子は、フフと笑った。
「相当飲んだのね。いいのよ、じゃあ服ぬいでお風呂に入りましょ」
「……え? あ、自分でやります!」
「なに言ってるの? そんなにフラフラしてて」
確かにそうだった。
我が家に着いて安心しきったのか、彼はもう立っていられないほどの酩酊状態だった。
「はい、腕上げて」美佐子の声。甘ったるい口調に聞こえたのは飲み過ぎのせいだったのかは分からない。
いつの間にか、ナオキは義母の膝枕に頭をのせていたのだった。
その後の記憶は全く無かった。
翌朝。パジャマ姿。
知らないうちにベッドに寝かされていた。
キッチンまで足を運ぶ。
朝、美佐子が焼いたと思われるタマゴやトーストがテーブルに置かれていた。
だが彼女はいなかった。書き置きも見当たらなかった。
歯を磨くときに、ナオキは鏡を見て驚いた。
首筋に、覚えのないアザがあった。
3カ所もあった。
(キスマークかよ……?)疑った。
それは間違いないように思えていた。
目が覚めても少しだけだが疲労感が抜けていない。
これは二日酔いの感覚じゃない。なにか重苦しい感覚。
気持ちのなかに潜む膿のようなもの。
……それは罪悪感だった。
だが、何故か他方では征服感に満たされた自分もいた。
それを思うと罪悪感が余計に増した。しばらく自己嫌悪に陥ったのだった。
(なにを考えているんだ俺は)
美佐子を抱いた記憶がない。
なにもなかった。そう、なにもなかった、はず……。
数日後。美佐子に会う機会があり、それなりに問うてみた。
彼女は笑って話してくれた。
寝たのはナオキ一人で首筋のアザのことは気づかなかった、と。
でも……。
ついさっき、彼女は着替えて、マンションをでたナオキを追いかけてきたのだ。
彼女は、行かないで、と言ったのだ。
美佐子はナオキのことが好きなんだ。
ナオキはといえば、やっぱり、あの晩、泥酔状態の彼は再び美佐子をマイと勘違いしたまま抱いていたのか。
遠い記憶に思えた遙か彼方の暗闇が、激しく渦を巻いてナオキに迫ってきていた――――――
「ナオ、くん……大丈夫?」エリがナオキを呼び起こす。
ハッとしてナオキは言った。「お義母さん、彼女は俺の元上司です」
美佐子にはそう答えながらエリに目配せする。
「あ……そうなんだ、ナオくん、結婚してたんだ?」
エリはそう言ってナオキに微笑んだ。
「ああ」ナオキは応えた。すでに離婚してるんだ、と口にする気力すらなかった。
「そうなんだ……」表情を変えぬまま、エリは目線を落とす。
その時。
「おい!」 人混みのなかから、太い声があがった。
みるからに高級な、黒光りしたセダン車の後部座席にいる男が、その声の主だった。
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