番外編
【番外編】プロコフィエフの述懐(1915年)
そのコンサートは、始まるや否や客席からの野次と罵倒に包まれた。
舞台の中央には一台のフルコンサートグランドピアノが置かれている。その前に座る大男は、客席のざわめきに気づかないかのように、平然とピアノを弾き続ける。
大男の名前は、セルゲイ・ワシリエヴィチ・ラフマニノフ。今日のコンサートの主催者だ。
「誰かあいつを止めろ!」
僕の隣で、テノール歌手のイワン・アルチェフスキーが叫ぶ。
「スクリャービンの音楽が地に堕ちる!」
今日のコンサートは、四月に急死したアレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンの追悼の意を込めて開催されたものだ。アルチェフスキーは、偉大なるスクリャービンの友人を称している。彼が怒るのも無理はない。
このコンサートに集まった観客は、奇麗に二分されていた。すなわち、スクリャービンを慕い敬う人間か、ラフマニノフのファンか、だ。アルチェフスキーはまったくの前者で、演奏が始まった直後から隣の席でブーイングを始めた。ラフマニノフの信奉者たちは、スクリャービンの神秘的で神聖な音楽ではなく、彼のわかりやすいロマン主義的音楽を聴きたがった。客席からのざわめきが、波を打って舞台に押し寄せる。
「我慢がならない。俺が力づくで止めてやる」
アルチェフスキーが立ち上がる。その上着の袖をつかんで、僕は必死で押し留めた。彼は一回り年下の僕を「なぜ止める?」と目で訴える。
「怒鳴り込みに行くのは、最後まで聴いてからでも遅くはないでしょう」
「君はこのふざけた音楽をこれ以上聴いていろと?」
そのとき、舞台の上のラフマニノフが次の曲を弾き始めた。
練習曲作品8第12番《悲愴(Patetico)》。スクリャービンの若き日の名作だ。しかし、彼が弾く〈悲愴〉は〈悲惨〉としか言いようがない。客席ではバラバラと、このくだらない茶番に疎んだ観客が帰り支度を始めている。
そもそもラフマニノフは、ピアニストではない。作曲家や指揮者として名声を得ていたとしても、彼は自作以外のピアノ作品を演奏したことがなかった。
曲が終わる。拍手と歓声の代わりに、不穏な空気が会場を支配する。ラフマニノフは、悠然と客席に向かってお辞儀をして舞台の裏に退いた。
アルチェフスキーが猛然と立ち上がる。僕は慌ててそのあとを追いかけた。
「よくもサーシャの音楽を貶めてくれたな!」
楽屋からアルチェフスキーの
「俺がスクリャービンの弾き方を教えてやりたいくらいだ」
楽屋の中から二人が言い争う声が聞こえてくる。僕が楽屋内に飛び込んだとき、ラフマニノフはアルチェフスキーに首元を絞め上げられ、ぐったりとしているようだった。
「まあ、二人とも、落ち着いてください」
ラフマニノフは二メートル近い長身だが、アルチェフスキーも体躯では負けていない。二人の大男の間に割って入って、僕はアルチェフスキーを彼から引き剥がした。
ラフマニノフは、しわくちゃになった燕尾服の襟元を直しながら、僕を一瞥し、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。まだ何か言っているアルチェフスキーを、ラフマニノフは無言で睨みつけている。僕はラフマニノフを落ち着かせようと、慇懃に挨拶した。
「ラフマニノフさん、僕は貴方の演奏は悪くはないと思いましたよ」
変幻自在に音色を変えるスクリャービンの音楽、それとは真逆の、冷徹までの理性に裏打ちされたラフマニノフの演奏。そう、聴衆はスクリャービンの演奏に馴れ過ぎているだけなのだ。だから、その対極にあるラフマニノフの解釈を受け入れることができない。ラフマニノフは、もう一度、僕を見る。すぐに、唇を皮肉げに嘲笑うように歪めた。
「プロコフィエフくん。僕がスクリャービンの曲を悪く弾くとでも?」
僕は言葉を失った。彼の態度は、失敗した演奏者のそれではなかった。この場にいる誰一人が理解しなくとも、彼には絶大なる自信が備わっている。彼の冷たい眼差しがそのことを如実に物語っていた。
「……随分と自信があるんですね……」
僕には彼の自信がどこから湧いてくるのかわからなかった。あれだけ観客に罵られて、どうしてこんなに平然としていられるのだろう。音楽家として演奏家として、どうやってその矜持を保っていられるというのだろう。
「でも観客は貴方のような解釈に慣れていない。スクリャービンの演奏に馴れ過ぎていたのだから……」
彼の薄い唇が僕を嘲笑した。僕は、自分の頭に血が上るのを感じた。
「彼の音楽は、言わば大気中に満たされたエーテルのようなものだったのです。それを貴方は、無理やり重力に捉えて明確な形を与え、地上の俗物にしてしまった!」
僕は自分の言葉を抑えることができなかった。それは、僕がコンサートの間中ずっと感じていたことだった。そもそもラフマニノフとスクリャービンは、その音楽性も音楽を通して表現したいことも、まったく異なるタイプの音楽家なのだ。彼がスクリャービンを理解することは決してないだろう。彼はスクリャービンの音楽を演奏してはいけないのだ。
「……言いたいことはそれですべてか?」
彼の声はぞっとするほど冷たく響いた。僕は無意識に身体を震わせたことを恥じた。
「僕はプロのピアニストとして」と彼は極めて冷静な落ち着いた声で言った。「僕が感じたスクリャービンを演奏したに過ぎない。僕が彼の音楽をどう感じているかを聴衆にわからせることが、生きている僕の義務だからだ」
その声音は僕を蔑むように、あまつさえ憐れんでいるようにも思えた。僕を見る彼の眼差しはまるで虫けらでも見ているかのようだった。そして僕は自分自身が彼に心底嫌われていることを自覚せざるを得なかった。
ラフマニノフは僕に興味を失ったかのように背を向けた。その背中は僕の存在に対する確固たる拒絶だった。そして僕がラフマニノフと言葉を交わすことは、二度となかった。
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