第8話(過去)
一九〇三年の年末、ベリャーエフが死んだ。
すぐに彼の遺産を管理する委員会が設けられた。それは、これまで過剰だったスクリャービンへの援助を、公平な方向へ導くものとなった。ペテルブルクで行われたべリャーエフの葬儀に、スクリャービンは現れなかった。
その後、僕がスクリャービンに会ったのは、年が明けてひと月ばかりしてからだった。遥か東の方で始まった戦争が世間を賑わせていた。
彼は独りで、ふらりと僕のアパートに立ち寄った。僕はピアノ協奏曲第二番が成功を収めたあと結婚していたが、妻は前年に生まれた長女のイリーンチカを連れてちょうど不在にしていた。
彼は生気を失った顔をして、ひどくやつれていた。一筋の乱れもなく綺麗に整えられた頭髪と口髭がことさらに際立ち、彼の面相をみすぼらしく見せていた。
僕は彼を室内に招き入れた。彼は外套も脱がずに、居間の中央に置かれたグランドピアノの上に散らばった書きかけの譜面を見ていた。
「今は何を書いているの?」
譜面を手にして彼は訊いた。
「オペラだ」
ふうん、と彼は聞いているようないないような虚ろな返答をした。少し経ってから、
「オペラなんて音楽院の卒業制作以来じゃないか?」
「ずっと書きたいとは思っていたんだが、手が付けられずにいたんだ……なかなか進んでいないけどね」
「そういえば君は、オペラの指揮の仕事もしていたね」
交響曲第一番の初演のあと、しばらく
これまでの偉人たちが生み出した多くの作品を研究した。交友関係も広がった。そうした中で、僕は、僕の心のうちから湧き上がる音楽――美しき古きロシアの民謡や教会にこだまする鐘と聖歌の響きを、僕自身の言葉で表現したいと改めて思うようになった。ロシア人であれば誰にとっても心地よく懐かしい、メランコリックな旋律と和声。それを、聴衆の誰もが共感でき感動できる構成に仕立て上げる。その道程は決して平坦なものではなかった。多くの人が僕を支えてくれた。いくつもの試みの中から、ピアノ協奏曲第二番は生まれ、ようやく僕は聴衆に受け入れられた。僕はこの曲で初めてグリンカ賞を受賞した。
「君は最近どうなんだい?」と、僕は逆にスクリャービンに尋ねた。
「そうだね」と彼は浮かない声で生返事して、ブリュートナー製のピアノの前に腰掛け、即興でメロディを奏でた。彼に関する良くない噂が流れていた。彼が名門女学校のまだ十代の生徒と駆け落ちを企てたというものだ。
「……噂を聞いた」
「……」
「ヴェーラとはうまくいっていないのか?」
彼は答えずに、旋律の断片をつま弾いた。ブリュートナーが特許を取った〈アリコートシステム〉には、高音部に普通のピアノより一本多い四本の弦が引かれていた。四本目のピアノ線はあくまで音を共鳴させるためだけのもので、スクリャービンの浮遊するような演奏を引き立てた。
彼の顔色はひどく悪かった。僕は彼が昔、病弱だったことを思い出した。
「寒くはないか? 身体の方は大丈夫なのか?」
僕は
スクリャービンは長い沈黙のあと、幽かな声で呟いた。
「……病は人を神に近づけると思わないか?」
僕には彼の言葉が理解しがたかった。
「何だって?」
聞き返したが、彼は答えなかった。その代わりに、ピアノでいくつかの主題を弾いた。
「人間の苦悩と闘争……苦痛への抵抗……外的な苦痛は音楽における不協和音だ。それを芸術的なリズムに乗せてばらまくことで、苦しみを歓びへと変換する……」
それは、彼がそのとき書き上げたばかりの、《神聖な詩(Le Divin Poème)》と名付けられた交響曲第三番のテーマだったが、当時の僕はそれを知る由もなかった。
「陶酔のあとに訪れる、神との合一……クライマックスへと高められてゆく精神……物質世界からの解放……人類の救済……」
僕は黙って、彼の紡ぎ出す言葉とメロディとを聴いていた。
旋律は文句なしに美しかった。しかし端々に人を不安にさせる不安定な響きが混じる。ピアノに向かう彼の頬には人間の生気が戻ったが、その視線はふわふわと漂い、虚空に浮かぶ何かを視ていた。僕はその横顔をじっと見つめた。
少しして彼は僕に向き直った。その眼は、正気を取り戻したように僕の目を捉えており、僕は少し安心した。スクリャービンは瞬きもせずに僕を見つめ、それから思い出したようにピアノで旋律を奏でた。それは、忘れもしない僕の交響曲第一番の一節だった。
「このモティーフは」とスクリャービンは意外に明瞭な声で言った。「《
「《ディエス・イレ》?」
僕は思いもよらないことを言われて戸惑った。そんな僕を見て、スクリャービンは幽かな声で旋律を口ずさんだ。
「……Dies iræ…dies illa……」
グレゴリオ聖歌の《ディエス・イレ》のテーマは、リストやチャイコフスキーの名を挙げるまでもなく、すでに多くの作曲家たちがその楽曲に用いていた。しかし歌詞付きの原曲を聴いたことはなかったし、交響曲第一番に意図的に用いたつもりもなかった。
「……solvet sæclum…in favilla……」
彼の歌声は、室内の空気を震わせ、凍えさせた。旋律を呟く彼の眼は僕を視てはいなかった。彼の眼は、遠く遥か彼方の、〈世界の終末〉へと注がれていた。
スクリャービンが僕の元を訪れたときには、ベリャーエフ出版は彼への援助の打ち切りを決定していた。彼はそのすぐあと、
ヴェーラ・スクリャービナは離婚を承諾せず、彼のピアノ曲を演奏し続けた。
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