第9話(現在)
ニーナ・コーシツは、音楽家の兄妹と一緒に暮らしていた。彼女の兄妹は僕が訪問すると、慌てふためき、気を遣って、彼女と僕を居間に残すと部屋から出て行ってしまった。
彼女も動揺を隠せない表情で、ほんのりと頬を上気させて僕と向き合った。そうしていると、先日のコンサートで感じた蠱惑的な雰囲気はまったく感じられず、年相応の初々しさがあった。
僕は早々に本題に入った。
「なぜ君がスクリャービンの《歌曲》を?」
コーシツは僕の質問が意外だったのか、驚いたように目を瞠り、少し首をかしげた。艶やかなブルネットが揺れ、白い額に影を落とした。……スクリャービンの二人の妻も、美しいブルネットの持ち主だった。
「あの曲は、私がスクリャービンさんから直接いただいたんです」
「スクリャービンから直接?」
「そうです」
僕はその言葉を半信半疑で聞いた。あのタチアーナ・シリョーツェルが、彼が若い女と接触するのを許すとは思えなかった。
「まだ私がデビューして間もないころでした。コンサートでペテルブルク――ああ、ペトログラードと呼ばないといけないのかしら――に行ったとき、ちょうどスクリャービンさんにお会いしたんです。……奥さまはいらっしゃいませんでした。あの方お独りで来ておられたようです。……あの方は、とても大きな計画のために、お金に困っていました。だから演奏会にたくさん出演しなければいけないんだとおっしゃっていました」
スクリャービンが晩年、《神秘劇》という巨大な構想を抱いていたことは知っていた。音楽だけでなく、合唱や踊り、照明や芳香も含んだ総合芸術で、そのためにインドに寺院を建設する計画まで立てられていた。それは最早〈芸術〉というより〈儀式〉だった。
「あの方は、私を見て、すごく驚かれました。私があの方の昔のお知り合いにとても似ているんだと言って」
「それが、あの《歌曲》を捧げた相手?」
「ええ」
コーシツは頷くと、頬を染めて微笑んでみせた。
「その方との思い出をたくさん教えてくださいました。その方がどんなに素敵な女性だったのか、どんな手紙をやり取りして、どんな逢瀬を重ねたのか……。そのときのスクリャービンさんにとって、その方は世界のすべてだったんです。……けれど、思いを遂げることはできなかったと、あの方は寂しそうに笑っておっしゃいました、『僕は本当に愛した女性と結ばれることはなかった』と。……モスクワに戻って、再びスクリャービンさんは訪ねてこられました。そのときに《歌曲》の楽譜を私にくださったんです。それからあの方が、見本に歌ってくださいました。声量は少ないけれど、あの方の歌声は、あの方のピアノに似て、色鮮やかな別の世界で響いている音楽のように聴こえました。……それから……」
そこで彼女は、一度、言葉を途切れさせ、しばらく黙り込んだ。
僕は、視線を窓の外に向けた彼女の横顔を見ていた。先ほどまでとはうって変わって、どこか焦点の定まらない虚ろな眼で、僕が傍にいることすら忘れてしまったかのように思えた。白い肌はさらに透明感を増し、皮膚の下の血の色が透き通って見えるようだった。
「……〈感覚のシンフォニー〉を……」
幽かな吐息が僕の耳朶を震わせた。しかしそれは、わずかに空気を振動させたに過ぎず、すぐに室内に拡散していった。
「ニーナ?」
「……いえ、何でもありませんわ……」
コーシツは、視線を僕の方へと流し、すぐにまた逸らした。彼女の眼は、ここではないどこか別の世界を見つめ、恍惚とした表情で目元に朱を刷き、口元にわずかに笑みを浮かべた。僕は彼女の表情を食い入るように見つめた。
その横顔は、どこか男の気を逆撫でする、ゾッとするような色気があった。
僕はその年の夏、イワノフカの
作曲した歌曲はすべてニーナ・コーシツに捧げた。
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