第11話(現在)
ニーナ・コーシツに捧げた歌曲の初演は、一九一六年十月、ペトログラードで開かれた彼女の演奏会で行われた。
久しぶりの新作に対する聴衆の反応は微妙なものだった。これまでの作品のようなわかりやすい華やかさやロシア的郷愁はなく、足元の覚束ない旋律は人々の戸惑いと不安を煽った。けれど、コーシツの多彩な表情を持った、伸びやかさの中に色気の滲む歌声にはひどく合っていた。
聴衆の反応は、僕の音楽に対するものだけではなかった。僕が、コーシツという名もなき若手歌手を起用したことも影響していた。僕はペトログラードでの公演に続いて、彼女とのコンサートツアーを開き、モスクワ、キエフ、ハリコフを巡った。僕と彼女との関係を疑うゴシップが流れた。演奏会を重ねるたびに、彼女のどこか別世界を見つめているような視線は僕自身を見つめるようになっていった。
僕は彼女を旅先に残し、独りペトログラードへと向かった。
ペトログラードで定宿にしているホテルにマリエッタ・シャギニヤンが突然訪れたのは、一九一七年の年が明けたころだった。
僕はピアノに向かって作曲をしていた。練習曲《音の絵》の新しい楽曲集を編もうと考えていた。すでに数曲は書き上がり、演奏会で披露していた。
僕は彼女に感謝を述べた。彼女は浮かない表情で僕の謝辞を受けた。
「今は《音の絵》の続きの楽曲を書いています。全部で九曲を予定しているんです。この一月、二月のうちに書き終えたいと考えています」
「……コンサートでお聴きしましたわ」
「曲を書けるようになったのは貴女のおかげです。……あのときは少しどうかしていた、冷静さを失っていた……。今は落ち着いて自分と向き直れるようになったのです。今の気持ちを、曲に表しておきたいと考えています」
シャギニヤンは彼女らしくもなく、僕の言葉など聞いていないような思い詰めた表情をしていた。
「ニーナ・コーシツさんは……」と彼女は消え入るような声で呟いた。「ニーナ・コーシツさんが歌う貴方の歌曲も聴きました。あの人と親密な関係だという噂も……」
そんなことを言い出す彼女を疎ましく感じた。僕は、作曲中だからという理由で早々に彼女をホテルから追い出した。
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