第4話(過去)
一八八八年秋、僕はモスクワ音楽院の本科に進んだ。フランツ・リストの死後、モスクワに戻ってきていたジロティは母校の教授となり、僕のピアノ科の担当教諭になった。
一歳年上のスクリャービンも陸軍幼年学校を卒業し、同じ年の一月に、正式にモスクワ音楽院へと転学していた。本来であれば前年の秋だったスクリャービンの入学を遅らせたのは、そのとき遠征コンサートツアーに出ていたピアノ科教授のサフォーノフで、彼がスクリャービンを特に気に入りの学生としているのは、誰の目にも明らかだった。
サフォーノフのピアノ演奏には、その外見とは正反対な繊細なタッチと精妙なぺダリング技術があり、教師としての腕にも一目置かれていた。しかし、対人能力はピアノの演奏ほど巧妙ではなかった。気性の激しい性格で毒を吐き散らし、多くの敵を作った。その対象の一人が僕の従兄だった。
教師間の対立は、その生徒である僕とスクリャービンとの関係にも波及した。僕たちが音楽院内で表立って会話をすることはほとんどなかった。
本科に上がって二年目の冬のことだった。
当時のモスクワ音楽院はヴォロンツォーフ公爵の邸宅を借りており、一階のホールは演奏会場に、階上の寝室は教室に充てられていた。僕はその一番端の部屋にいた。タネーエフ先生の対位法の授業が別の教室で始まっているはずだった。けれど、僕は誰もいない部屋の隅に座り込んで、白紙の五線譜に向き合い、心に浮かぶ音を書き写していた。
「……セリョージャ、いるかい?」
微かにドアの軋む音がして、スクリャービンが室内に入ってきた。
「君もサボりか?」
「ああ、タネーエフ先生の授業は丁寧すぎて、眠たくなってしまう」
スクリャービンは母親に似て身体が弱かった。音楽院を休むこともあり、大曲の練習や長時間の講義にはスタミナが足りなかった。それを前年に音楽院の院長になったサフォーノフに贔屓されていることへの傲慢さの現れであるとか、才能を鼻にかけた怠惰だとか、彼の才能を妬んだ人間からのさまざまな陰口があとを絶たなかった。
「何を書いているの?」
彼が僕の手元を覗き込もうとする。僕は慌てて、書きかけの五線譜をノートで隠した。
「〈管弦楽概論〉の課題をやっていたんだ」
「君はそんな授業も取っていたの? あれは選択科目だろう? こっちは、君が去年合格した〈必修和声〉の単位もまだ残っているというのに……」
スクリャービンは、中央に置かれたグランドピアノの蓋を開けて、椅子に腰掛けた。指慣らしに
曲はショパンの《舟歌》に変わった。少し前に開催された学内コンサートで、彼が学年代表として弾いた曲だ。深く、浅く、軽やかに打ち寄せる波。その上をたゆたうゴンドラ。小舟は、やがて、きらきらと輝く雫を散らしながら、波間を離れ、空高くへと飛翔する――彼の華やかな演奏スタイルは、多くの人から称賛された。
僕は、彼の演奏に聴き入っていた。
いつ演奏が終わったのかもわからなかった。
演奏を終えたスクリャービンは、僕の傍に立ち、僕の手元からこぼれた書きかけの楽譜の一枚を手に取った。
「《チェロとピアノのためのロマンス》?」
僕は我に返り、慌ててそれを奪い返した。頬が熱くなる。
「少しくらい見せてくれてもいいじゃないか。どんな曲なの?」
「……まだ完成していない」
「さわりだけでもいいから、聴かせてくれよ」
僕はまだ熱さの残る頬のまま、ピアノに向かった。ピアニッシモで、チェロパートのメロディを右手で弾きながら、伴奏をつける。夏期休暇に親戚の
弾き終わると、スクリャービンはヘイゼルの瞳を大きく見開いて僕を見ていた。
「いいじゃないか、すごくいい! さては好きな女の子のことを考えて作ったな」
僕は図星を指されて、さらに顔を赤くした。
「僕も何か《ロマンス》が書きたくなってきた……こういうのはどう?」
彼は僕に代わってピアノに座り、メロディの断片を鼻歌混じりに即興で弾いてみせる。哀愁の漂う旋律に、僕は彼がどんな人を想って演奏しているのかを想像した。
「そうだな、君が《チェロ》だったら……僕は《ホルン》にしよう」
ジロティとサフォーノフの対立は収まるどころか、さらに激化していった。
「僕はもう我慢できない」
四年目の学期末を控えたある日、
「セリョージャ、君には申し訳ないが、僕は音楽院を辞めようと思っている。……わかっているよ、まだ君の卒業までに一年あることは」
「……」
「でも、単位はあとピアノ実技と自由作曲だけだろう? タネーエフ教授とも相談したんだ、君のピアノ科卒業を一年前倒しにできないかとね」
ピアノ科の卒業演奏課題は、ベートーヴェンのピアノソナタ《
《熱情》の第一楽章には、主要動機と対をなすように四音からなるモティーフが現れる。これは、交響曲第五番の主要主題と同じ、〈運命〉が扉をノックする音だ。運命に翻弄される人間の苦悩と、それに抗い立ち向かう人間の燃えるような激しい感情を、僕は重厚で壮大なピアニズムで完璧に弾き切ってみせた。
卒業試験は、学生たちも視聴できた。女子学生に混じって、小柄なスクリャービンの栗色のくせ毛が見えたが、すべての曲を弾き終えたあとに彼の姿はなかった。
「セルゲイ・ワシリエヴィチ、おめでとうございます」
ヨシフ・レヴィンがにこやかに握手を求めてきた。彼は僕より年下のはずだが、リストの難曲をやすやすと弾きこなす。身長が二メートル近い僕と並んでも遜色のない体躯だ。
「首席卒業は決まりですね」
「……まだスクリャービンがいる」
僕の言葉に、レヴィンは唇を歪め、声を潜めた。
「サフォーノフ先生に気を遣わなくても大丈夫ですよ」
「気を遣っているわけではない」
「スクリャービンの演奏は目立つし、演奏会の出演回数も多い……でも彼の手の大きさじゃあ、限界は知れている」
僕は何と返答したのか、今では覚えていない。ただ、僕の卒業演奏を見つめていたスクリャービンの昏い瞳が脳裏をかすめた。
その年の夏、スクリャービンは過度の練習で右手を負傷した。痛みは生涯を通して彼を苦しめ、ピアニストとしての道を閉ざした。
彼は自分の苦悩を、少なくとも僕の前で表に出すことはなかったが、その中で彼は、最初のピアノソナタを完成させた。
一八九二年春、僕らはモスクワ音楽院を卒業し、〈自由芸術家〉の称号を与えられ、それぞれの道を歩き始めた。
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