第3話(現在)

「まったく、あいつらには呆れたもんだ」

 クーセヴィツキーは、僕の右横の椅子に、粗野な身振りで腰掛けた。

 スクリャービンの死から四カ月が経っていた。

 コンサートが始まる前の観客席はまだまばらにしか埋まっておらず、彼の乱暴な口調を聞き咎める人はいなかった。昔の彼を知る僕には違和感はなかったが、彼の口調は、彼の整った容貌と彼が着ている上着のウールの上質さにはまったくそぐわなかった。

 僕はあまり興味がなかったが、一応「どうした?」とクーセヴィツキーに訊いた。

「スクリャービンの取り巻きたちだ。あいつら、好き放題しやがって。遺族のためにスクリャービンの作品を管理するという名目で、協会を設立すると言っている。それなのに、俺はのけ者だ。少なくとも俺はスクリャービンの遺族に金銭的援助もしたし、そもそも《プロメテ》は俺の出版社の所有物だっていうのに。金だけ受け取っておいて、あとは手を出すなと言うんだ」

 クーセヴィツキーと僕が出会ったとき、僕はボリショイ劇場の指揮者で彼はコントラバス奏者の一人に過ぎなかった。そのあと、金持ちの娘と結婚した彼は、その豊富な財源で〈ロシア音楽出版社〉を設立した。

「音楽家は出版社に搾取されている。俺は、音楽家が正当な対価を得られる仕組みを作りたい。音楽家も〈自由〉を獲得すべきだと思わないか?」

 当時の彼は僕にそう言った。そして若手発掘のための審査員になってくれないかと依頼した。僕はそれを引き受けた。

 ほかの審査員を誰に打診するのかと僕が尋ねると、クーセヴィツキーはこう答えた。

「メトネルと……それからスクリャービンだ」

 そのころスクリャービンは、パトロンであるミトロファン・ベリャーエフを喪い、最初の妻との生活を放棄して、後妻のタチアーナ・シリョーツェルと海外に逃亡していた。

 その後、スクリャービンとクーセヴィツキーとの間にどういう契約が結ばれ、それからどのように二人の関係が破綻したのか、詳しいことを僕は知らない。

 僕の沈黙をどう受け取ったのか、クーセヴィツキーはやや興奮を収め、声を抑えて僕に言った。

「三十三年後にスクリャービンが復活するらしいぞ」

「何だそれは?」

「タチアーナ・シリョーツェルが、どこぞのオカルト主義者に吹き込まれたらしい。そのときこそ人類を救いに導く救世主となるんだそうだ」

「くだらない」

「それを信じられない人間は、協会に入る資格がないと言うんだ」

「……本当にくだらないな」

 僕は嘆息する。彼は神ではない、一人の人間に過ぎない。

「そういえば、身体検査の結果はどうだったんだ?」

 思い出したように、クーセヴィツキーは僕に訊いた。昨年、ハプスブルク皇位継承者の暗殺に始まった戦争は、すぐに終結するという大勢の予想を裏切り、長期化の様相を見せていた。僕はまだ徴兵限界年齢を越えていない。

「戦争に行くことになっていれば、今ごろここでこうしてはいない。……いっそのこと、従軍楽隊の指揮でもいいから雇ってくれたらいいのに」

「セルゲイ・ワシリエヴィチ……」

 クーセヴィツキーは咎めるように囁く。

 スクリャービンの葬式のあと、僕はモスクワにいることが耐えられずに別荘ダーチャのあるイワノフカに行き、そのままフィンランドに向かった。旅先で、タネーエフ先生の訃報を知った。スクリャービンの葬儀で風邪をひき、そのまま心臓病を併発して死んだと聞く。令状が来なかったら、モスクワには戻らなかった。

 今日のコンサートは、クーセヴィツキーが僕の気を紛らわせるために誘ってくれたものだった。

「セリョージャ?」

 僕の横を通り過ぎかけた女性が慌てて足を止める。僕は声の方に顔を向けた。理知に満ちた蒼い瞳が僕を見返す。

「いつモスクワに戻っていらしたの? まさかこんなところでお会いできるなんて……」

 マリエッタ・シャギニヤンだった。詩人である彼女からファンレターを受け取ったことがきっかけで、何度か手紙のやり取りをしていた。彼女が教えてくれる象徴主義詩人たちの世界は、僕には新鮮だった。

「また手紙を書きますわ、新しい詩を入手しましたの」

 開演の時間が迫っていた。シャギニヤンは名残惜しげに、一緒に来ていた友人の元へと去って行った。

 コンサートは可もなく不可もなく進んでいった。

 最後に舞台に上ったのは若い女で、緩やかにカールしたブルネットと艶やかな黒のドレスが白い肌に映えた。僕は彼女を知っていた。正確には彼女の父親を。

「パーヴェル・コーシツの娘か?」

 僕はクーセヴィツキーに小声で訊いた。

「ああ、ニーナ・コーシツだ。二年ほど前にデビューしたんじゃないかな」

 彼女の父親は、ボリショイ劇場のテノール歌手だった。僕が指揮者に就任してまもなく、彼は自殺した。そのとき、彼女はまだ十歳かそこらだったはずだ。

 彼女の歌声は伸びやかな美しいソプラノで、しかしどこか蠱惑的な魅力があった。それは、年相応の瑞々しい清冽さにわずかな昏い影を落としていた。

 僕は聴くともなく彼女の歌声に耳を傾けていたが、次に歌われた曲は、甘く情熱的な恋の歌で、僕は自分の耳を疑った。


  貴女の胸の中に留まりたい、夢の中に閉じ込めたい。

  僕は貴女の心を掻き乱す、情熱の嵐をもって。

  僕は貴女の心を突き動かす、いまだ知られぬ思いで。

  そして、永遠に、この世の光は貴女だけ。

  そして、永遠に、この世の喜びは貴女だけ。


「……スクリャービンの《歌曲》……」

 ずいぶん昔に、作曲者が口ずさんだのを一度聴いただけだった。が、聴き間違えるはずがない。僕はその短い恋の歌曲を歌うニーナ・コーシツから目を離すことができなかった。

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