第5話(現在)

「スクリャービンの追悼コンサートを開こうと思う」

 僕がそう言うと、クーセヴィツキーは喜劇役者のように大げさに驚いてみせた。

「また、突然、なぜ?」

「彼の遺族が路頭に迷うのは忍びない」

 タチアーナ・シリョーツェルと遺児たちの生活はまだ安定したものとは言い難かった。協会の話も混迷していると伝え聞いている。コンサートの収益金を彼女たちに贈るため……というのは表の理由だった。数日前に聴いた、ニーナ・コーシツの歌声に触発されたのは、言うまでもない。

「何を演るつもりなんだ? 第一か、第二か……まさか《プロメテ》を演るなんて言わないだろうな?」

 クーセヴィツキーは僕が交響曲の指揮をするとしか考えていない。僕にはそれが不満だった。

「スクリャービンの音楽のメインはピアノだ。もちろんピアノ曲も演る」

「でも、君は今までピアニストとしては自作の曲しか演奏したことがないだろう?」

 自作しか演らないのは、スクリャービンも同じだった。

 クーセヴィツキーの驚きと不安は、当然のことだった。けれど、僕は譲る気はなかった。

 ショパンへの心酔から始まった僕とスクリャービンの音楽は、いつの間にかまったくの対極へと行き着いていた。ロシアの〈歌〉を源とする僕の国民主義的な音楽と、新しい音楽を追求していったスクリャービンの音楽は、水と油だった。僕のファンはスクリャービンの音楽を認めなかったし、逆もそうだった。それをさらにマスコミは煽り立てた。そうした対立を鎮めるために、スクリャービンとジョイントコンサートを企画したこともあったが、焼け石に水だった。

 クーセヴィツキーは整った眉を顰めて心配げに僕を見つめていたが、僕はこの秋シーズンにスクリャービンの追悼コンサートツアーを敢行した。


 コンサートは、クーセヴィツキーが心配したとおりの結果となった。舞台から楽屋に戻ってきても、客席のざわめきと困惑、野次と罵倒が聞こえてくるようだった。

 荒々しい足音が廊下に響き、楽屋の扉が乱暴に開けられた。

「よくもスクリャービンの音楽を貶めてくれたな!」

 楽屋に入ってきた男は、体格に似合わないファルセットの怒鳴り声を上げて僕に掴みかかってきた。襟元の蝶ネクタイが歪んで乱れた。

「俺がスクリャービンの弾き方を教えてやりたいくらいだ」

 モスクワ音楽院時代に作曲科の同級だったテノール歌手だった。彼がよくスクリャービンのまわりをうろちょろしていたのを覚えている。スクリャービンにはまったく相手にされていなかったが。

「君などに教えてもらうことは何もない」

「何だと!」

 怒りに面相を変えて、彼は僕の襟元を掴む指に力を入れて締め上げる。喉が圧迫されて息苦しい。

「まあ、二人とも、落ち着いてください」

 若い男が間に入った。ブロンドの短い髪。色素の薄い眼が酷薄に映る。僕は解放された襟を整え、深く息を吸い込んだ。

 なおも何かを言い募ろうとするテノール歌手をなだめて、彼はこちらに向き直る。

「ラフマニノフさん、僕は貴方の演奏は悪くはないと思いましたよ」

 アイスブルーの眼差しに、若者特有の傲慢と自信が見え隠れする。若手音楽家の中で今、最も頭角を現している人物だ。昨年、ペテルブルク音楽院の卒業記念として披露された彼のピアノ協奏曲は、ロシアの音楽界に動揺を与えた……名前は確か、プロコフィエフといったか。

「プロコフィエフくん、僕がスクリャービンの曲を悪く弾くとでも?」

 僕がそう言ってやると、彼は表情を強張らせた。

 遠くからさざ波のように、いつまでも帰り支度を始めない観客たちのざわめきが低く響く。

「……随分と自信があるんですね。でも観客は貴方のような解釈弾き方に慣れていない。スクリャービンの演奏に馴れ過ぎていたのだから」

「……」

「彼の音楽は、言わば大気中に満たされたエーテルのようなものだったのです。それを貴方は、無理やり重力に捉えて明確な形を与え、地上の俗物にしてしまった!」

 プロコフィエフは一気呵成にそう言い、僕は努めて冷静に「言いたいことはそれですべてか?」と静かに言い放った。

「僕はプロのピアニストとして、僕が感じたスクリャービンを演奏したに過ぎない。僕が彼の音楽をどう感じているかを聴衆にわからせることが、生きている僕の義務だからだ」

 彼は、プライドを傷つけられた憎しみに満ちた眼差しで僕を睨み、楽屋を出ていった。

 僕はしばらくの間、すでに誰もいない楽屋で立ち尽くし、大きく息を吐くと近くのソファに深く腰を下ろして項垂れた。部屋の外の喧騒が静まり返るまでの長い時間、顔を上げることができなかった。

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